敬が突然、学校にこなくなった。
始めはただの風邪だと思って、さほど心配していなかったのだが、もう一週間以上になる。
単位を気にする高校生にしては少し休みが長いような気がして、私は敬の家にお見舞いに行く事にした。
学校帰りに寄った八百屋さんで、安売りをしていたオレンジを一山買った。
病人のお見舞いといえば果物が良い、と私は勝手に思っている。ただ単に私が、果物好きなだけなのだけれど。他にも桃などがあったが、少し高かったので、オレンジにした。
だけど、こんな八百屋の袋では味気ない。八百屋のビニール袋が悪いというわけではないのだが、なんとなくお見舞いにはふさわしくないような気がする。
私は家にちょうどいいバスケットがあったのを思い出して、それに入れて届けよう、と考えた。
通学用のリュックサックをしょって、右手にはオレンジ五つ入りのビニール袋。
手を振るたびに抵抗が腕にかかる。意外と重い。
私は一つオレンジを取り出して、左手に持ってみた。手のひらに余るくらいの大きさの、橙色の球。少しごつごつとしている。ついお手玉まがいの事をしたくなってしまうが、せっかく買ったお見舞いの品でそれはいけないだろう、と思ってくるくると回すまでにしておく。
くるりくるりと地球のように回るオレンジ色の球体。球の体積を求める公式って、なんだったっけ?我が家の玄関はもうすぐそこだ。
家に帰り着いた私は、リュックサックをリビングにおいて、代わりに台所にあったバスケットを手に取る。
五つのオレンジを中に詰め込む。思ったとおり、ちょうど良い大きさだった。
私はその取っ手をもって、意気揚揚玄関に向かい、茶色い靴をはく。その靴紐を結んでいるときに、ふと思いついた。バスケットの取っ手に、リボンを結んでやったらどうだろう。
履きかけた靴を脱ぎ捨て、私はリボンをとりに、二階にある自分の部屋へ向かった。
狭い階段を、たんたんと軽快なリズムであがってゆく。靴を履いていたならば、もっと小気味良い音がしていた事だろう。私は洋館に住んではいないし、そこまで非常識な人間ではないので、勿論仮定の話だが。
私の部屋には、たくさんのものが、一応整理されて詰まっている。
綺麗な部屋ではないかもしれないが、現代の女子高生の部屋としては、まあこんなものだろう。
全体的に可愛らしい感じの部屋にしてある。まあ、そのたくさんの小物が、この部屋をごちゃごちゃした物に見せているのかもしれないけれど。
少し狭い事を除けば、私は自分の部屋を概ね気に入っている。その部屋の隅の方に、私の机がある。
この机の上のほうが、実は無法地帯なのだ。ついつい所定の場所に戻すのを忘れていた物たちが、モラトリアム的につまれているものだから、私にも何が潜んでいるのやらよくわからない。ただ、この机の上に手芸道具もあるのは確かで、その中には赤だとか黄色だとかのリボンが入っているのだ。
未知の世界を探索する事、数分。
先住民達の妨害に悩まされながらも、私は無事お宝を発見した。手芸道具一式をまとめた、青いキルティング地の袋。
中にはきちんと、リボンが幾つか折りたたまれて入っていた。私は安堵する。私は赤い太めのリボンを選ぶと、玄関へと戻り、それをバスケットに結びつけた。我ながら良い出来である。赤い色が、オレンジに映えている。私はすっかりと満足して、再び靴を履き始めた。
少しだけ弾んだ気持ちで、敬の家のドアチャイムを鳴らす。ピンポーン、ピンポーン。二回ほど音がして、
「少々お待ちください。」
という声が返ってきた。あの耳障りの良いソプラノは、敬の母親のものだ。
そういえば、この声を聞くのは久しぶりだ。最近はずっと敬の家を訪ねていなかった。
近くて遠い、隣の家。幼い頃にはよく遊びにいったりしていたのだけど、いつの間にか、そんな事もなくなってしまった。
かちゃり、敬の母親が扉を開いて出てきた。私の事を見て、驚いた様子だ。
「まあ…望美ちゃん?久しぶりねえ。」
「こんにちは。ケイのお見舞いにきたんです。あ、これ、どうぞ…。」
私はあのバスケットをおばさんに差し出す。おばさんはにっこりとわらって受け取ってくれた。
私はまず、敬の部屋ではなく、リビングに通された。おばさんは私にゆったりとしたソファを勧め、ホットココアまで出してくれた。私はそれを一口すする。この味は、全く変わっていないのに。
「ケイのためにわざわざきてくれて、本当にありがとう。望美ちゃんも、本当に大きくなったわね。お母さんにそっくり。」
「そんなに似てますか?よく言われるんですけど。」
「ええ。やっぱり他人から見ないとわからないものなのかしらね。」
彼女のあたたかい雰囲気が、私の気持ちをやわらげてくれる。私は話を切り出した。
「ケイの様子は、どうなんですか。風邪だと伺ったんですけど。」
「…それが、ねえ。」
おばさんは一瞬、言葉を切った。目を伏せる。
「ケイ、部屋から出てこないのよ。それで、空のほうばかり見ているの。食事も…部屋に運んではいるんだけれど、ぜんぜん食べていないみたいで……。何だか、訳のわからない独り言ばかり繰り返しているのよ。」
「独り言、ですか?」
「ええ。『お月様、行かないで。』だとか、『兄さん。』だとか…。はっきりとは聞こえないのだけれども、そんな事ばかり。」
「にい・・・さん。」
それっきり私たちの間には、会話がなくなってしまった。言葉の流れ出さない、完全なる沈黙。
私は何を言ったら良いのかわからずに、視線を泳がせる。そうして目をやったホットココアの表面に、薄くミルクの膜が張っていた。
私はそれを小さなスプーンで、がむしゃらにかき混ぜる。途端に、色が元に戻っていく。くるくると回るミルクの模様、やがてかき消えてしまう白い色。
小学校の低学年の頃、こんなような事をした記憶がある。マーブリング。確か私が買っていた雑誌に、そのやり方が載っていたのだ。それで、私は啓を誘って、一緒にそれを試してみたのだった。慎重にやっているつもりなのに、絵の具はかき回すとすぐに水に溶けてしまって、何の模様も出来なかった。無残な結果に終わったそれを、二人で笑った。
懐かしい。こんな些細な事が、無性に懐かしい。
また、敬と二人で、あんな風に笑いたい。また、一緒に過ごせるように、なりたい。
私はぼんやりとした頭で、ホットココアを手にとった。何も考えずに、それを口の中に傾ける…熱い!舌が火傷しそうだ。私は思わず、カップから手を離してしまった。カップの中身がこぼれる!そう思ったときにはもう遅かった。着ていた緑のスカートに、大きな茶色いしみができる。しみはまだ湿っていて、触るとべとべとした。
「すみません!」
私は急いで周りを見渡した。カップはスカートの上に転がっている。私はそれをテーブルの上に戻す。幸いにも被害は私のスカートだけですんでいるようだ。
「いいえ、大丈夫よ。それより望美ちゃん、火傷とかしてない?」
「あ、平気です。」
本当は、少し熱い。
「そう?急いでそれ、洗ったほうがいいわね。着替えなら貸すから…そこの洗面所で、手とか洗うと良いわ。」
「本当にすみません。」
私はそそくさと洗面所のほうへ向かった。一刻も早く、ここから逃げ出してしまいたいような気分だった。なんてかっこ悪いんだろう、自分は。
言われたとおりに洗面所に入って、私は強烈な違和感を覚えた。…鏡が、無いのだ。洗面所になら当然かかっているはずの鏡が、所定の場所に無い。私が昔敬の家に来たときには、確かきちんと鏡があったはずなのだが。取り外してしまったのだろうか。例えば何かの間違いで、鏡が割れてしまったのだとか…。
「望美ちゃん、着替え、ここにおいて置くわね。」
「あ、はーい、ありがとうございます。」
私の思考は、その呼びかけによって中断された。とりあえず手を洗い、汚れた足を拭いた。何だか、それだけでだいぶさっぱりとした気分になった。
おばさんの用意してくれた服は、可愛らしい花柄のロングスカートだった。おばさんの私服だろう。彼女はこういう服を着ても、ちっとも不自然でなく似合ってしまう人なのだ。私は少しくすぐったいような気分になった。着てみると、サイズもちょうど良かった。
ココアで汚れたスカートを腕にかけて外に出ると、おばさんがリビングで待っていてくれた。
「ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした。」
「いいえ。」
私は彼女に、鏡についてたずねてみる事にした。
「あのう、洗面所に、鏡がついていなかったんですけど、どうかしたんですか?」
「あら、無くて困ったかしら?ごめんなさいね。」
「いえ、そういうわけじゃなくて…ただ、何か理由があるのかなって、気になっただけですから。」
私は慌てて首を振った。きっとたいした理由ではないのだろう。しかし、何故か気になるのだ。あの、本来鏡のある場所にぽっかりとあいた空白。
「五年前に、取り外したのよ。」
「五年前…ですか?」
奇妙な符号だった。五年前、全てにそれが付きまとっているような気がする。
敬がケイと名乗ったあの日が。なんだろう、この不安は。心が落ち着かない、ざわざわと波立ってくる。
ここで話を聞いてしまったら、もう二度と引き返せないような気がする。だけれども私には、自分の唇がその質問を発してしまうのを、抑える事が出来なかった。
「五年前に、何かあったんですか?確か、あの頃からケイは、あまり人を寄せ付けなくなったように思うんですけど。」
「ケイは、あの子は、五年前の…ほら、突然『自分の名前は杉本ケイだ』と言い出したあの日から、鏡を見るたびに、少しおかしな事をするのよ。鏡を見て、そしてそこに映った虚像に語りかけるの。それまでは、そんな事無かったのに、突然よ。突然、それがあの子の日課になったの。」
「……。」
私は、心の何処かが「聞いてはいけない」という警告を出すのに気が付いていた。しかしその警告はことごとく無視され、私は一言も聞き漏らすまいというように、おばさんの話に耳を傾けていた。
「鏡に向かって話し掛ける…それだけなら、まだ良かったの。それだけならば、少し夢見がちな子供なら当たり前にやってくる事でしょう。あの頃、ケイには友達らしい友達も、望美ちゃんくらいしかいなかったから、仕方が無いのかなって。でも、ケイはそれだけでは収まらなかった。いつものように鏡に話し掛けていたと思ったら、突然鏡にすがり付いて…叩き続けるのよ、鏡を。まるでその向こうに誰かがいるとでも信じているかのように。『ここを開けて、ここを開けて、顔を見せて…』そう呟きながら、鏡を叩き続けていたの。私が見つけたときには手がもう真っ赤になっていて、私は必死でケイを取り押さえたわ。ケイはあの時、泣いていたのよ。泣きながら、鏡に向かって叫んでいるの。『連れて行って、連れて行って』って。私はその事件があってから、夫に相談して、家中の鏡を全て取り外して、倉庫にしまったの。この家にある鏡は、私や夫が使う手鏡だけ。それだって、ケイの目の届かないところに隠してあるつもりよ。もう、あんなケイを見るのは嫌だから。」
「…ごめんなさい、変な事を聞いてしまって。」
「いいえ、つまらない話につきあわせちゃったわね。」
私はおばさんとの会話をこなしながら、頭の中では全く違う事を考えていた。
ほかならぬ敬のことを。おばさんは敬が「鏡に向かって話し掛けていた」という。一体何故なのか、まったくわからない。ただ、私は今すぐ敬に会わなくてはならない、そんな強迫観念めいたものが、私の中で膨れ上がっていた。私は敬に会いたい、いや、会わなくてはならない。それがどんな結果を導き出すのだとしても。
「おばさん、ケイに会ってきてもいいですか。」
私は尋ねた。彼女は私の突然の申し出に一瞬驚いたようなそぶりを見せたが、やがて
「ええ、勿論。ケイを、元気付けてやってちょうだい。」
と言ってくれた。私はバスケットを右手に持って、リビングを後にする。
私の言葉で、敬をこちらの世界に引きとめられるとは思わない。けれど、私は今、敬に会わなくてはならないのだ。そう、思う。
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