*Moonlight Syndrome――side Nozomi*



2 望美


 また、満月の夜がやってくる。私は卓上カレンダーに赤で丸をつけながら、そう思った。
 満月の周りではねる真っ白いウサギたち、とても可愛らしい図案なのに、なぜだか私の神経を苛立たせる。
 あの月の黄色い色が、私を惑わせるのか。

 日に日に膨らんでゆく月を見ていると、妙に不安になるのだ。
 その不安は、月の輝きに比例するかのように、どんどんと大きくなってゆく。
 もともと満月は好きではなかったのだけれど、最近は満月でなくとも月を見るたびに、胸騒ぎがする。なんだろう、この不安は一体なんなのだろう。

 私の身体は、月の満ち欠けに影響を受けるらしい。
 何故なのかはよくわからないのだが、満月に近づくたびに、私の視覚、聴覚は異常を起こす。
 今まで当たり前のように目の前にあったもの達が、突然音を立てて崩壊してゆく様子が見えるのだ。その崩壊の仕方というのは、そのときによってまちまちで、小さな粒子のようになったりだとか、ぼろぼろと灰色になって崩れてしまうだとか、デジタルのように0と1だけの世界になってしまうだとか、とにかく、見ていてあまり気持ちの良いものではない。
 確かにそこにあったはずのものが、おそろしくあっさりと壊れてゆくのだ。
 耳に聞こえる音も変化して、まるで宇宙人の言語のようになってゆく。
 耳を切り裂くような高音や、心臓のリズムを乱す低音。
 ひっきりなしに入れ替わってゆく世界。そして、その後に残ったものたちは、やがて集まって、新しい情景を作り出す。
 それはつい最近に見たばかりの風景だったり、私の知らない会話だったり、見た事も無いような場所だったりする。
 人の夢の中、誰かの記憶、その人にしか見えないはずの幻想。そんなものが、私の目の前で繰り広げられるのだ。
 ついさっきまでは、私は現実を見ていたはずなのに。
 そのとき私の目に映るのは、とても抽象的な場所。輪郭線の無い、月の光を頼りに見る花のようにぼんやりとした世界。
 そんなものがみえたところで、得をした事は一度も無かったし、あまり愉快な見世物でもない。
 それでも、私は満月が近づくたびに何度も、そんな情景を見てしまうのだ。

 このことは誰にも話していないし、これから話すつもりも無い。
 たとえ話したとしても、誰も信じてはくれないだろう。
 私自身、これが私の身体の異常なのか、それとも私の精神のほうが少し曲がってしまっているのか、よくわからないのだ。

 私は私の正気を信じてよいものなのか、時々そう考えて、私は恐怖を覚える。
 急に全てが真っ白くなってしまったように感じ、身体には震えが走る。
 私には証拠が無い。自分は正しいのだと、自分の診ている世界こそが正しいのだと言えるような強さは、私は持ち合わせていない。

 だから、迷うのだ。私はこの世界のほんとうの姿を、見ることが出来ているのだろうか、私はほんとうに、ここにいるのかどうか。
 その答えを、私は知らない。



 私の身体がこんな異常を引き起こすようになったのは、確か五年前だった。
 それまでは別に、満月を見てもどうとも思わなかったし、何の異変も無かった。今からちょうど五年前。

 ……はっきりと覚えている、あの日。
 敬が『ケイ』になった日。幼馴染の杉本敬が、突然私の家を訪ねてきて、そして宣言した日。
 あの日、真っ暗な中にひときわ輝いていた十六夜の月に照らされて、敬は言ったのだ。

 『僕の名前は今日から、杉本ケイだよ。』

 と。私はその意味を尋ねようとしたのだけれども、彼はその他は何も言わなかった。
 ただ、そのときの敬の瞳が、今まで見たことも無いほど真剣だった事だけが、印象に残っている。
 私の視界に、おかしなものが見えたのは、あのときが初めてだった。
 敬の背景にそびえている夜空、そこに浮かぶ少しだけ欠けた月。
 しかしあの時私には、他にもう一つ、完全な満月が見えていたのだ。



 私の名前は望美。満月の夜に生まれた私は、そう名付けられた。



 明日の英語の予習を終えて、私は窓の外を見やった。
 白い三日月の下に、四角い明かりが見える。
 四角く切り取られたそのオレンジ色の光は、隣に住んでいる敬の部屋のものだ。
 高校生になってから、急に予習復習が大変になったことだし、敬がこんな時間(ついさっき、時計の針が十二のところで重なった。)まで起きている事、それ自体はさほどおかしな事ではないはずだ。けれども敬は夜遅くまで勉強しているわけでもなく、読書をしているのでも、ゲームをしているのでもない。
 そういう時の彼は、いつも月を眺めているのだ。わき目も振らずに、ただ月だけを。



 敬は昔から、何処かがみんなとずれていたように思う。
 小学校のクラスの中でも孤立していた。たくさんの子供たちの中で、敬は一人だけ異質だったのだ。
 しかし当の敬は、そんな事は全く気にしてなどいない様子で、平然と毎日を過ごしていた。
 誰も敬に話し掛けようとしない、誰も敬に笑いかけたりしない、まるで、そこに杉本敬などという人物はいないかのように、彼らは振舞っていた。なぜなら、敬は彼らにとって、どうしても理解できない存在だったから。敬は感情をあまり表に出さない。人前では笑わない、泣かない。いつもぼんやりと遠いところを眺めているか、もしくは眠ってしまっているか。これでは、コミュニケーションの手段はたたれてしまっているのも同然ではないか。理解されないのも当たり前である。
 敬の行動はあまりにも、私たちとは違っていたのだ。
 だから、敬はずっと、クラスで浮いた存在だった。話し掛けられる事も無い代わりに、いじめられたりする事も無い、だけどひょっとしたら、一番悲しいかもしれない存在。

 クラスのみんなは決して、敬の事を嫌ってなどいなかっただろう、と思う。
 ただ、敬に近寄ってみる事が、どうしても出来なかっただけなのだ。
 だから、みんなは敬を無視しつづけた。住んでいる世界が違いすぎて、うかつに近づけなかった。遠巻きに、敬の事を見ていた。
 でも、私自身はといえばそんな敬の事も好きだったから、どうにかクラスの輪の中に入って欲しいななどと考えていた。いつも一人きりだった敬を見ていると、どうしてなのか私の胸は疼いた。
 そんな敬を見ているのが、私は嫌いだった。
 ひょっとしたらあの胸の疼きは、敬のそばへと行けない自分への苛立ちだったのかもしれない。私と敬は、やはり違う世界に住んでいるのだ。敬の視界に、私は入っていない。あの頃はまだ、はっきりとはわからなかった。けれども私は今それを実感している。

 敬は、私たちには見えない遠くの何かを見ていたような気がする。具体的にそれが何なのか、私にはわからないけれど。

 敬が一度、教科書をじっくりと眺めていた事が合った。
 教科書なんて敬はなかなか開く事もしなかったのに、その時だけは真剣だった。同じページだけを、何時間も見つめているのだ。先生に何を言われようとも無反応で、ひたすらそのページの一点をみているのだ。
 わたしはそれまでに、敬のそんな様子を見たことが無かった。それはまるで、何かに魅入られたような、そんな雰囲気を醸し出していた。
 敬が開いていたのは、確か理科の資料集で、そのページには、真っ白く光る満月が載っていた。
 大きく、二ページにまたがって、一つの写真がある。それは、『教科書』などという本に載せるのはもったいないほど、美しい写真だった。あの餅つきをするウサギのような影も、はっきりと見えている。私は後ろからそれを覗き込み、妙な胸騒ぎを覚えた。

 『……お兄ちゃん。』

 私は、敬が写真を見ながら、ぼそりと呟くのを聞いた。
 敬の口からでてきたその単語に、違和感を覚える。敬は一人っ子で、兄などいなかったはずだ。一体誰の事なのだろうか、そんな風にいぶかしんだ記憶がある。
 だけど敬はそれきり何もしゃべらずに、満月の写真だけを眺めていた。
 そのときの敬の瞳には、月以外の何ものも映ってはいなかった。

 私にとって満月とは、あまりにも不思議な存在であり、また、憂鬱を引き起こす種でもある。
 月が満ちるにしたがって、歪んでゆく私の視界。
 しかし、敬にとってのそれは、とても愛しいもののようなのだ。目を見ていれば、なんとなくわかってしまう。
 あれは、遠い何かに焦がれている瞳。あの月の向こうに敬はきっと、大事な、大事な誰かを見ているのだ。私などには見ることも出来ない、敬の大事な人。

 最近の敬はおかしい。
 今までも充分に変人扱いされてきたけれども、それに輪をかけておかしいのだ。
 私が話し掛けても、こちらを見てくれない。私だけではない、誰が何を言おうと、敬は聞こえていないようなそぶりをするのだ。誰のほうにも視線を向けず、何処か明後日の方向を見ている。
 まるでもう、別世界にいるような、そんな感じがする。私とは住む世界の違う、大好きな人。
 彼の中にはきっともう、私など存在していないのだ。彼の心を占めているのは、満月の光。
 それを追い求める彼の心には、私のいられる場所など無い。敬はきっと、あの月のために、私の事など置いていってしまう。私は、それがどうしようもなく怖いのだ。

 私がこうして彼の部屋の窓を見ていても、彼は全く気付こうとしない。
 敬は月の向こうの誰かに会うために、きっと一人で何処かへ行ってしまう。そして、私にはそれを引き止める事が出来ないのだ。
 「行かないで、遠くへ行ってしまわないで。」
 そんな事は、私には言えない。拒絶されるのが怖いのか、どうせ無駄だと思っているのか。どうしてなのか私にもわからない。
 ただ、一つだけ言えることは、敬はいつか、私のそばからいなくなってしまうだろう、それだけだ。



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