敬の部屋は、二階にある。ちょうど、窓が私の部屋と向かい合う位置だ。
 そのドアには『KEI』と書かれたプレートが、少し傾いてぶら下がっている。絵本の中にでも出てきそうな、擬人化された三日月と、黒猫の図案。私はなんとなく悔しくなって、プレートの傾きを直した。それから、扉をノックする。

「ケイ、入るよ。」

 向こうからの反応は無かった。私はかまわずにノブに手をかける。軽くまわせば、簡単に開いた。部屋の中に足を踏み入れる。

 そこは、夜空だった。私はまずそう思った。たくさんの月の並ぶ、夜空に他ならないと感じた。
 しかしそれは錯覚で、次第にはっきりとしてきた意識は、その無限にあるかとも思える月たちが、ただの写真であると告げていた。壁にも、天井にも月の写真が隙間無く貼られている。だからこそ始め私は、そこが夜空であるような錯覚をしたのだ。
 白い月、紅い月、黄色い月、青い月…たくさんの月に囲まれた空間。眩暈がしそうだ。
 その空気に私は圧倒される。無限に広がる小宇宙。私はしばらく敬の部屋に入っていなかったが、こんな風になっているとは全く、思いもしなかった。
 そして、その空間の真ん中に、敬が立っていた。

「ケイ、私だよ。望美だよ。」

 敬はゆっくりとこちらを向き、ぼんやりとした目で私を見つめた。その目を見て、私の心臓がどくんとはねる。右手の指が、バスケットから離れるのがわかった。地に付く瞬間、ほんの少しの振動。敬のところから動かない私の視界に、ころころとオレンジの球体が入り込んできた。ころころころ、新しいお月様。

「月は…お月様はいつだって孤独なんだ。一人ぼっちで、寂しくて、それでどんどんと痩せ細ってゆく。」
「何、言ってるの、ケイ。」

 敬はまるで私などここにいないかのように、足元に転がっているオレンジを拾う。
 左手の中に入ってしまった小さなお月様を、うつろな瞳で見つめながら、しゃべりつづける。

「お月様は寂しいんだよ。たった一人で光り続けなくてはいけない。月の光が無くなったとしたら、たくさんの生き物達が、夜の闇の中で動けなくなってしまう。だから、お月様はどうしても、光溢れる存在でなくてはならない。
 だけど、お月様は寂しいんだ。お日様が側にいてくれないから。お日様さえいれば、お月様は幸せになれるのに。いつもお日様が照らしてくれないと、お月様は痩せていってしまう。なのにお日様は忙しくて、お月様の側にはいられない。だんだんお月様が痩せていって、そうして仕舞いにはすっかり闇の中に溶け込んでしまうと、ようやくお日様は気づくんだ。ずっと、ずっとお月様を一人にしてしまったことに。いなくなってしまったお月様を求めて、お日様は周りを照らす。その光がお月様の元へと届いたら、お月様は元気を取り戻して、だんだんと膨らんでいく。細い釣り針のような形から、まあるく、まあるくなってゆく。お月様は幸せになる。お日様がこちらを見ていてくれる限り、お月様は幸せになれる。でも、やがてまたお日様は離れていって…その繰り返しだよ。永遠に、その繰り返し。お日様は、いつだってお月様を一人にしてしまうんだ。だからお月様は永遠に幸せになれない。
 お月様は一人きりだ。お月様の周りには、たくさんの星達がいる。星達はそれぞれの言葉で、お月様にささやきつづけてくれる。それでも、お月様は孤独なんだ……。」

 それは、あまりにも悲しい物語。お月様とお日様の、すれ違いの物語。永遠に繰り返される、悲しい悲しい物語。
 敬は、いつの間にか涙を流していた。真珠のひとしずくが敬の頬をつたって、星達に紛れて消えていった。その様子を、たくさんの月たちが見ている。

「月は孤独なんだ。星達のかすかな光は、何の助けにもならない。星は、無力だ。お月様を幸せにしたい、その思いは同じなのに。僕は兄さんを幸せにしたかった。でも、僕は無力だ。僕には彼を救う事なんて出来なかった。星よりも無力な僕に、そんなことできるはずないんだ。だけど、僕は兄さんがいないとダメなんだよ。ぼくはお兄ちゃんがいないと、何にも出来ない。」

 敬の手の中から、オレンジが転がり落ちる。ぽとん。小さな音。

「ケイ…兄さんって、誰?」
「お兄ちゃん、早く、早くぼくを迎えに来て。ぼくはずっと待っているんだ。お兄ちゃんのそばにいさせて。ぼくはこんなにたくさんの月が無くても、お兄ちゃんさえいれば幸せになれる。生きていける。」
「何、言ってんの?ケイ、ケイ!?」
「お月様お願い、お兄ちゃんをぼくに返して。ぼくからあの人を奪ってしまわないで。ぼくをお兄ちゃんのそばにいさせて。お兄ちゃんは、ぼくのお日様なんだ。お月様が、お日様がいないと寂しいように、ぼくはお兄ちゃんがいないとダメなんだ。」

 敬は私の問いなどには答えずに、ぼんやりと一人たたずんでいる。『お兄ちゃん』の名前を呟きながら。
 一体、誰の事なのだろう。敬にはお兄さんなどいないはずなのに。少なくとも私は、見た事も聞いた事も無い。敬は、あの月の中に一体何を見ているのだろうか。

 私はその場にいづらくなって、さようならも言わずに、敬の部屋を飛び出した。
 あんな敬の事は見ていられない。少しだけ、おばさんの言っていた事がわかったような気がした。私は、そこから逃げた。敬のうつろな瞳から逃げた、たくさんのお月様から逃げた。逃げて、隣にある自分の家に駆け込んだ。
 私は階段を上がり、自分の部屋へ入ると、背中でドアを閉め、そのまましゃがみこんだ。
 敬の部屋の窓が見える。呆然と立っている敬のシルエット。そういえば、おばさんに何も挨拶しないで帰ってきてしまった。服も借りたのに。そんなことを考えながら、私は溢れてくる涙を止めることが出来なかった。

 敬は「月は孤独だ」と言うけれど、敬のほうがずっと、一人ぼっちだ。
 私も、おばさんも側にいるのに、敬は一人になろうとする。幻のお兄さんを求めて。
 お兄さんなんていないのに。そんな人いなくても、私はずっと、敬の近くにいるのに。

 敬の心が知りたい。そう思った。
 月の影響で私の瞳に、見えないはずのものが見えるのならば、ならば私は、敬の心が知りたい。彼は一体、何を見ているのか。私の知らない、敬の世界。
 何よりもまず、それが知りたい。他の何も見えなくていいから、敬の心が知りたい。
 他の誰のものでもなく、敬の幻想がみたい。そう、強く願った。

 お月様お願い、どうか私に、彼の見ているものを見せてください。



 ぐらり、突然、視界が揺らいだ。
 こんな事は初めてだ。今までに起こっていた視界の歪みを震度3くらいとするならば、今度のは震度7の大地震。
 敬の部屋の窓がぐにゃりと大きく歪むと、端のほうから小さな、とても小さな粒になって、さらりさらりと崩れてゆく。
 たくさんのものがパズルのようにつまれた私の机に、モザイクのようなものがかかって、その一つ一つの四角がばらばらになって消えてゆく。原子のレベルから全てが分解されてゆき、そして足元に積もった小さな粒以外の何もかもが無くなる。

 そこまで崩れてしまうと、今度は再生。
 粒子が竜巻に巻き上げられたかのように、私を中心にして回りだす。ぐるぐるとダンスを、目が回りそう。
 小さな粒はまとまって、少し大きな粒に、砂粒くらいのもの、小石くらいのもの。一つ一つが結合し、だんだん大きくなって、ものを作り上げてゆく。世界の再構成。私は目を細めた。光が差してくる。

 そして、出来上がった情景には、人影が二つ。
 満月の下で見つめあう二人。一人はまだ小さな少年。目には涙を浮かべている。ああ、あれは幼い頃の敬だ。確か小学校の五年生くらいの敬。
 顔立ちには幼さが残るものの、ほんの少しだけ影が差している。他のクラスメイトたちにはなかった影。
 そしてもう一人のほうは…これは一体、どういうことなのだろう。
 黒猫を肩に乗せ、そこに立っていたのは紛れも無く、十六歳の、現在の敬だった。

「行っちゃ嫌だ。嫌だよう。ぼくも一緒に連れて行って。お兄ちゃんだけ行くなんて、そんなの駄目だよ。」

 『お兄ちゃん』、敬は今確かにそう言った。あれが敬の言う『お兄ちゃん』?そんな、だってあれは、今現在の敬なのに。

「ごめん、敬。僕は一人で行かなくちゃいけない。月に呼ばれているのは、僕だ。だから、僕一人が行くんだよ。行ったら、もう二度と戻ってこられない。そんなところに敬を連れてはいけないよ。敬をこの世界から引き離してしまうわけにはいかない。」
「この世界なんて要らない。ぼくにはお兄ちゃんだけいれば良いんだもん。お兄ちゃんがいないのなら、ぼくは何にも要らないよう。お願い、ぼくのそばにいてよ。」

 黒猫が悲しげにミャアと一声鳴いた。首の小さな鈴が、風に揺られている。金色の鈴は朧な月の光を反射する。

「出来ないんだよ…いまは、まだ。」
「…今は?」

 今の敬はにっこりと笑う。幼い敬の頭をくしゃくしゃと撫でる。幼い敬が気持ち良さそうに目を細めた。


「今はまだ駄目だ。でも、僕は必ず、君の事を迎えに来るから。そう、君が僕と同じ歳になったら、そのときは、君を連れてゆく。だから、待っていて、敬。」
 幼い敬の顔に、ぱああと光が差した。

「お兄ちゃん、約束だよ。絶対に、絶対に迎えに来てね。ぼくはずっと待ってるから。」
「ああ、約束だ。満月の日に、必ず迎えに行くよ。」

 ゆびきりげんまん。小さな小指と大きな小指とが絡み合う。
 そして、二人の敬は笑って、やがて、現在の敬の姿は、急に強くなった満月の光に包まれる。背後にそびえる光の道。
 身体が空に浮かび上がる。ゆらゆらと漂って、そして輝く月の中に、吸い込まれるようにして消えていった。

「お兄ちゃん!!」

 幼い敬が叫ぶ。もう見えなくなった『お兄ちゃん』に向かって。

「お兄ちゃん、連れて行って……。」

 月が冷たく、優しく、そんな彼を照らす。まるで『兄』の微笑みのように彼の身体を包み込む。
 かすかな光だけが、彼の顔に影を落としている。どこかからリリーンと鈴の音が聞こえている。

 ああ、この情景はなんだろう。一体なんなのだろう。これが敬の幻想?ありえないはずの幻の世界?だけどこれは、一体どういうことなのだろう。どうして『兄』が今の敬の姿をしているのだろう。わからない。わからない事ばかりが、私の頭の中で渦を巻く。

「…ケイ。」

 私が彼の名前を呼んだその瞬間、周りの世界は再び拡散し、ぐるぐると回り、小さな粒となり…ビデオの逆回転、また世界が作られてゆく。
 私の見ている現実の世界が作り出されてゆく。すこしづつ、すこしづつ。私は目をつむる。まぶたの裏側でも、同じような光景が感じられる。



 そして私が目を開くと、そこは自分の部屋の中だった。
 敬の部屋の窓が正面に見えている。人工の宇宙があそこにはあるのだ。敬の作り出した、幻想の世界が。
 そして、私はその中にいる事は出来ない。あれは、敬だけの世界。敬は孤独だ。敬は、どうしようもなく孤独だ。

 敬はたった一人で行こうとする。いつだって、他の誰も必要とせずに、いつだって、一人きりで、孤独で。
 敬は、私がいなくても生きてゆける。自分の作り出した『兄さん』さえいれば、生きてゆける。敬にとって、私は必要の無い人間なのだ。
 そんな事はわかりきっているのだ。私は何の役にも立たない。幼い敬と同じ事を考えている。
 そんな自分が、少しおかしく思えた。

 私は、いらないんだね、敬。敬に必要なのは、お兄さんの幻、あの月が映し出す、かすかな幻、満月の光。
 私じゃないのだ。私はそれを、充分すぎるほどに悟ってしまった。

 もうすぐ、満月の日がやってくる。
 敬は行くだろう、私など置いていくだろう。一人であの月へと旅立つだろう。
 お兄さんについてゆくため、幼い自分との約束を守るため。あの月に照らされて、敬は行ってしまうのだ。
 今の敬にはそれしか見えていないのだから、私のことなど見えていないのだから。

 『月は孤独なんだ。月は……。』

 敬の言葉が、頭の中で廻り続ける。
 私はもうどうする事も出来ずに、ただその場所で涙を流しつづけていた。何の役にも立たない星屑を……。



To be Continued     




BACK NOVELS INDEX



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送