「ルーナ…?」

 また、おいていかれてしまったのだろうか、そう思った。
 ルーナはまた僕を置いて、何処かへ行ってしまったのだろうか。兄さんと同じように、僕から離れていってしまったのだろうか。
 一度捕まえたと思ったのに、手からすり抜けてしまった黒猫。目を離すとふっと消えてしまう、過去の幻影。
 いや、そんなはずは無い。ルーナは確かに、僕の手の中にいたのだ。僕の周りを歩いていたのだ。
 ルーナが突然消えてしまうはずなど無い。

 ちりり・・・ちりりりり…ん

 かすかに、僕の耳が音を捉えた。鈴の音である。
 家の外から聞こえてくる、澄んだ鈴の音色。ルーナの首の鈴だ。僕はそう確信した。

「ルーナ、おいで。ミルク作ってあげるよ。」

 僕は言いながら、玄関の扉を開ける。が、視界の中に黒猫はいない。
 ドアノブから手を離し、二・三歩進み出て、辺りを見渡してみる。いない。
 しかし、いまだ鈴の乾いた音は僕の耳に響きつづけていた。

 ちりん、ちりちりり…ん。

 耳をすませてみると、どうやらそれは裏庭のほうから聞こえてくる。
 僕は伸び放題になっている雑草を踏みつけながら、狭い通り道を歩いていった。


 裏庭とはいっても、決して庭と呼べるほど広くは無い。ほんの少し、道と呼ぶのには抵抗があるような空間があるだけだ。
 そんな場所なので、「裏庭」にあるものといったら、小さな家庭用の倉庫くらいのものである。それももう大分古びていて、使っているのかどうかすら良くわからない。
 しかし、歩いてゆく度に、確実に鈴の音は近づいてきている。


 僕はルーナを拾ったときの事を思い出していた。
 あの時僕は、音をいぶかしみながら、そろそろと歩いていったのだ。どうしようもなく惹きつけられて、鈴の音源へと。
 そしてもうすぐ、角を曲がると、あの黒い毛並みが見える。
 しかし、それは一向に僕の視界の中へは入ってこなかった。いなかったのだ、裏庭にも。
 ただ、鈴がいまだに鳴りつづけているだけで。
 肝心のルーナの姿は何処にも見当たらない。

「ルーナ?いないの…かい?」

 しかし、僕の呼びかけに答えるように、ニャアオと一声、ルーナが鳴くのが聞こえた。
 どうやら、倉庫の中からの声だったような気がするのだが、倉庫の扉はぴたりと閉まっている。こんなところに猫のルーナが入れるはずがないのに。
 僕だって、倉庫の分厚い金属の扉を開くのには苦労させられているのだ。
 もちろん倉庫には猫用のドアも、窓のようなものも無い。


 だが、ニャアオ、ルーナの声がまた聞こえた。
 やはり倉庫の中のようだ。
 僕は細かい事は考えず、ルーナを外に出してやる事にした。なんらかの間違いで、倉庫の中に閉じ込められてしまったのかもしれない。


 そういえば、一週間ほど前に、倉庫の中身を整理した事があった。
 もしかしたら、そのとき、ルーナは閉じ込められてしまったのもかもしれない。
 かわいそうな事をした、と思う。これからは気をつけなくては。大事な兄さんから預かった猫なのだから。


 両手を取っ手に引っ掛けて、体重をかけて右へと引く。
 一瞬の抵抗があった後、思ったよりも簡単に扉は開いた。その扉が開くのと同時に、急にルーナの声が大きくなる。
 ああ、やはりこの中にいたのだ。
 中へ入ってみると、ルーナは床に小さくうずくまっていた。黒い毛玉のようだ。
 その頭を撫でてやると、毛玉は飛び起きてきちんとした猫の姿勢になった。
 僕はその黒猫の首筋を、人差し指で撫でながら言う。

「もう、心配かけちゃだめだぞ。」

 フニャアゴ。

 いい返事である。僕はルーナを抱きかかえて立ち上がる。




 と、僕は、信じられないものを見た。


 兄さん。






 僕の目の前に、ルーナを抱きかかえた、兄さんの姿があった。


「会いたかったよ、敬。」
「兄…さん?」

 優しい微笑みは昔のままだ。何もかもが昔のままの、大好きな兄さんだった。
 兄さんが、いなくなったはずの兄さんが、僕の目の前に、いる。

「敬…あの時、おいていってしまって、本当にすまなかった。ずっと、寂しい思いをしていたんだね。見ていたよ。あの月の中で。」

 僕は、何もいえなかった、言いたい事がありすぎて、何も言いたくなかった。
 なんだろう、なんなのだろう、この妙な感じは。

 連れて行って欲しかった、ずっと一緒にいたかった、兄さん。
 月の中に消えてしまった兄さん。
 だから僕は、夜になるたびに月を見上げていたのだ。兄さんの声が、少しでも聞こえるように。兄さんの姿が、影でもいい、見えるように。

「僕はね、あの後、本当に後悔したんだよ。幼い君を残してきてしまったことに。君のためにはそのほうが良いと、そのときは思ったんだ。だけど、君が悲しむのを見ているのは、耐えられなかった。…いや、僕が、君に会いたかったんだ。君なしでは、いられないと思った。」


 僕はずっと、兄さんの残像だけを追い求めてきたのだ。
 兄さんが僕に残してくれた物語の欠片を、失ってしまう事が無いように閉じこめてきたのだ。

「もう一度、会いたかったんだ。あの時僕を必死な目で、ずっと追いかけてきてくれた敬に。もう一度だけでいいから、会いたかったんだ。」
「一度じゃなくていいよ。」

 ようやく、僕の唇から言葉が出てきた。

「何度だって会いに来て。ずっと待ってるから、いつだって会いに来て。ううん、ぼくが会いに行く。ぼくが行くから、だから、側にいてよ。お兄ちゃんがいて良いって言ってくれるなら、ぼくはずっとお兄ちゃんについて行くよ。何処までだってゆく。どんなに怖い所だって、辛い所だって、お兄ちゃんと一緒にいられない事のほうが、もっと嫌だよ!」

 僕は自分がすっかりあの頃に返ってしまっている事に気がついた。

 だけど、今のぼくにはそんな事はどうでも良かった。
 ぼくは、お兄ちゃんが側にいてくれれば、なんだって良い。
 ぼくが誰であっても、ぼくが何であっても、お兄ちゃんさえいてくれるのならそれだけで良い。

 ぼくには、お兄ちゃんしか、いらない。

「兄さんと一緒に、行きたいよ。」

 だけど、お兄ちゃんは首を振った。

「何で?何で一緒に行っちゃいけないの?お兄ちゃんはやっぱり、ぼくなんていらないの?お兄ちゃんの側にいたいだけなのに。お兄ちゃんの事が好きなだけなのに。ぼくがいたらお兄ちゃんは嫌なの?ぼくはついて行っちゃいけないの?」

 最後のほうは叫び声だった。
 ぼくは、お兄ちゃんにいらないって言われるのなら、いなくなってしまったほうがましだと思った。

「違うよ、僕は連れて行かないなんて言っていない。ただ、今すぐ敬を、僕のいるところまで連れてくるわけにはいかないんだ。月の力が、まだ足りない。」
「お月様?」
「そうだよ。今はまだ、お月様の力が弱いから、連れてはいけない。敬、だけど今度、今度あの月が膨らんでいって、そして満月になったならば、そのときは必ず、君を迎えに来るよ。」
「本当?絶対に?」
「ああ、約束だ。」
「待ってるから、ぼく、ずっと待ってるからね。」

 お兄ちゃんは、最後にもう一度、優しく笑った。
 ぼくも、精一杯に笑顔を作って、お兄ちゃんに見せてあげた。
 今度の笑顔は、結構上手く出来たんじゃないかと思う。だって、ぼくには、もうすぐお兄ちゃんが迎えにきてくれるって、わかっているのだから。
 だから、ぼくは笑顔でいられた。





 僕の気が付いたとき、目の前には兄さんの姿は無かった。
 ただ、僕の全身が、銀色の壁に映っていた。その平面に、ゆっくりと手を当てる。少しだけひんやりとしていた。
 手を離すと、白く僕の指紋が残っている。向こう側にいるはずの兄さんには触れられない。
 僕はルーナを胸に抱えた。

「ルーナ、もうすぐ、君の本当のご主人様に会えるよ。」

 ルーナの身体は、先程の無機質な壁と違って、やわらかく、また暖かかった。
 僕はその毛並みに顔をうずめようとして、しかしそんな事をするには、ルーナは小さすぎると思った。
 何だか無性に、あたたかい何かが欲しかった。僕は腕の中にいるルーナのぬくもりを、大事に大事に撫でた。




 外に出ると、いつの間にか、そこにも闇が落ちていた。
 夜が来たのだ。ルーナの目が金色に輝いている。伸び放題になっている雑草たちの影は、すっかり薄れて、黒い背景の中に紛れ込んでいる。倉庫も、家も闇に溶け込んで、輪郭を無くしている。
 しかし、そんな中でも月だけは、確固とした輪郭を保っていた。
 星の弱々しい光など、比べ物にはならない。

 今、僕の目の前にある月は、まだ尖った形をしている。魚を吊り上げる事が出来そうな、尖った月。
 だけど、もうすぐ、時間がたてば、あの月はまあるく、ルーナの瞳のようになるのだ。
 そうしたら、そうしたらきっと…。


 だから、僕はここで待つ。時が満ちるのを。真っ白い光の下で。

 『約束だ、満月の夜に君を迎えに…。』




 もうすぐ、もうすぐなんだね…お兄ちゃん。



To be Continued     




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