ニャ――…ン。


 どこかから、微かに猫の声が聞こえた。
 初めは無視してそのまま歩いていたが、だんだんとその声が大きくなってきている。注意深く聞かなくてはならなかったものが、自然と耳に入るようになってくる。
 どうやら、その猫との距離は近づいてきているらしい。
 それとも、ひょっとして、僕の方が引き寄せられているのだろうか?
 不思議な魔力を持った猫の声、セイレーンの歌声に引き寄せられてゆく漁船のように。


 やがて、鈴の音が聞こえ出した。
 その音もだんだん大きくなってゆき、それに反比例するようにして、回りの雑音が消えてゆく。
 都会のざわざわした音から切り離された空間。ピ―ンと張り詰めた、無機的な空気。


 そして、ふらふらと入っていった物静かな路地裏で僕が見つけたのは、一匹の小さな黒猫だった。
 小さなピンク色の舌で、一生懸命に毛づくろいをしている。
 僕の手のひらの上にも乗ってしまいそうな、そんな小さな仔猫。首元には青い小花模様のリボンと、それにぶら下がった銀の鈴。
 なるほど、先程聞こえていたのはこの音らしい。ずいぶんと高く澄んだ音色の鈴だ。

 野生にしてはやけにつややかな、黒い毛並み。
 強い意志を感じさせるような、大きくて黄色い瞳。
 仔猫はしきりに目をきょろきょろと動かし、僕の様子を窺っているように見えた。

 僕はひと目で気に入った。

 手を差し伸べてみると、仔猫は僕の手のひらのにおいを嗅ぐような仕草をした後に、僕の腕を駆け上がり、右肩の上に乗る。
 さも、「これが私の定位置ですよ。」といわんばかりの動作だ。
 僕は右肩の仔猫の頭を、そっと撫でてみる。触ると、仔猫の小さい事がいっそうよくわかった。顔などは、僕のさほど大きくは無い手のひらに、すっぽりと収まってしまう。本当に、少しこの手に力をこめたら、頭蓋骨を割ってしまいそうな、そんな小さな小さな存在。
 ああ、僕はこれを知っている。このふさふさとした手触りを、温かい身体を、肩に乗る重みを、耳にまとわりつく声を、このまあるく黄色い瞳を。
 僕はこの感触を知っている。

「君の名前はルーナだよ。…月の女神の、名前だ。」

 ミャアオ、大きな口を開けてルーナの返事。
 そう、まんまるい満月のようなこの瞳を、僕は知っている。お月様のような真ん丸い目だから、大好きな兄さんの黒猫はルーナと名付けられたのだ。

「ルーナ、僕と一緒に来てくれるね。」
 勿論、というようにルーナが鳴いた。




 ルーナは僕の後ろを、ひょこひょことついてきた。歩くたびに銀の鈴がリリンと鳴る。
 細い足を懸命に動かし、くるくると僕の周りを回っている黒猫。その様子は、なんとなく、惑星の周りをまわる衛星のように見えた。「惑星」であるところの僕がこんな事を思うのはおかしな事かもしれないけど。


 ルーナの鈴の音が刻むリズムで、僕は足を進めていった。
 ルーナにミルクをやろうと思って、近くにあったコンビニエンスストアに入る。初めて入った店だったので、商品の配置がよくわからずに、何周かしてしまった。
 鈴が鳴りつづけている。

 ようやく見つけたパック牛乳の棚には、五・六種の銘柄が置かれている。
 が、この場合は細かい違いなどあってなきが如しだ。僕は一番近くにあった緑色のパッケージの牛乳を手にとって、それから、はたと思い出した。

 そういえば、猫に与える牛乳はちゃんと温めて、蜂蜜を入れてやったほうが良いと聞いた事があるような気がする。
 それならば、一度家に帰らなくてはならない。そして家の冷蔵庫には、確か牛乳の類が常備してあったはずだ。

「…あの、お客様?この店はペットのお持込はご遠慮いただいているのですが。」

 そこまで僕が考えたときに、背後から声をかけてくるものがあった。
 振り向いてみると、店のロゴをイメージしたらしい配色の制服を着た女が、少しひきつった営業用の笑顔で立っていた。その向こうのレジからは、同じ制服を来たこれは少し歳若い女の、心配そうな視線が送られてくる。

「ペット?」
「お客様がお連れになっているその猫のことですよ。動物が食品を扱う店にうろついているのは不衛生だという意見が、いまだに多数を占めておりまして。」

 僕はその言葉に、何故かものすごい違和感を持った。そして、その違和感の意味を自問してみる暇もなく、反論を口に出していた。

「ルーナは、ペットじゃありません。」
「じゃあ何だというのです? 友達だとでも言うつもり?」

 女はどうやら怒っているようだ。口元はさらに引きつり、眉がつりあがり始めている。

「ルーナは僕のペットじゃない。…兄さんの、大事な黒猫だ。」

 僕はそういうと、ルーナを促して、結局何も買わずにその店を出た。

 とりあえず家に帰って、ルーナにミルクを作ってやろうと思った。




 僕が家に着いたときには、家の中には誰もいなかった。
 僕はいつものように鍵を開け、電気の消えている家の中に入る。
 僕が静かな、人っこ一人いない家に帰るようになったのは、兄さんがいなくなってからだ。兄さんは、僕が帰るときにはいつも家の中にいてくれた。そして、学校から戻った僕を迎えてくれるのだ。あのころは鍵なんて持ち歩きはしなかった。


 いつもの習慣で鍵を靴箱の上に置くと、僕は洗面所へと向かう。
 勿論、手を洗うためだ。それ以外の目的などない。

 勢い良く水を出し、その流れに手を入れる。冷たい刺激が心地よい。
 ピンク色の固形石鹸を右手で泡立てて、その白い泡で手が包まれる。
 指先、手のひら、手の甲、手首。汚れが落ちてゆくのは目に見えない。それでも僕は手を念入りに洗ってゆく。
 もう一度指先。爪の中。
 白い白い泡がたくさん、小さな僕を写している。

 僕は蛇口をひねり、たくさんの僕たちを洗い流す。肌色の面積が増えてゆき、手に合った違和感が拭われてゆく。
 すっかり泡がなくなると、二度水を振り飛ばして、青い縞模様のタオルで、まだ残っている水気を取る。


 僕はふと顔を上げた。何の気も無い行動だったが、なぜだかとてつもない違和感を覚える。
 当然あるはずのものが無いような、そんな変な感じがする。
 洗面所になら必ずあるはずのものが、ここにはない。しかし、それが何なのかがわからない。
 胸の奥がざわざわする、嫌な感じだ。

 僕はそれを振り払おうと、流しつづけて冷たくなった水をすくい、顔に勢い良くぶつける。
 氷で肌を傷つけるのに似た感じがした。当たり前か。

 僕はタオルで顔面をごしごしとこすると、気を取り直し、ルーナのミルクを作るため台所へと向かった。




 冷蔵庫の中にはごちゃごちゃと様々なものが入っている。
 昨日の残りの味噌汁に、僕の好きなフルーツヨーグルト、卵にバター、からしとわさび、チルドルームの半透明の壁の中には二パックセットのウインナー。
 色とりどり(殆どはパッケージの色だが)の食材が、この箱の中は散在している。
 全体を包んでいる橙がかった光は少しも寒そうになんて見えないのに、箱の中からに流れてくるのは冷気だ。白くにごった冷気が僕の周りを満たしてゆく。
 ほんの一瞬、震えが走った。こんな事ばかりしていられないと思い、僕は急いで牛乳を取り出す。
 そこには牛乳のほかにも、麦茶やジュースの類が所狭しとさしてあったので、意外と引き抜くのには時間がかかった。とはいっても、二・三秒ほどだが。
 引き抜いた瞬間、勢いで中身の牛乳がたぷんと揺れた。半分くらいは残っているのが、そのときの感触でわかる。
 取り出した牛乳の銘柄は、店で手にとったものとは違うようだった。


 銀色の小なべの上には、たくさんの調理器具が重ねられている。
 小なべの下にもさらに大きなボウルがある。これでは、必要な器具を取り出すのも一苦労である。

 まとめて一度、上の道具をおろしてしまってから小なべを取った。
 取るのは良いが、再び載せるのが大変である。なんといっても調理器具たちは、絶妙なバランスを保って、どうにか崩れないでいますといった格好で重なっていたからだ。
 これを元通りにするのは大変だろう。
 しかし、いちいち全ての器具を整理するほうが、さらに大変である。

 とりあえず僕はその問題は考えずにおいておく事にする。
 ルーナのミルクを作ることのほうが先決だ。


 と、小なべの取っ手を握ったときに気が付いた。
 そういえば、先程からルーナの鈴の音が聞こえない。家に入るときにはひっきりなしに聞こえていたあの音が。
 僕は足元を見回す。やはりルーナはいない。忽然と消えてしまっている。
 僕はなべの取っ手を持ったまま、呆然としてしまった。



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