*Moonlight Syndrome――side Kei*
1 敬
彼の肩の上にちょこんと乗っているのは、黒猫のルーナ。
月の女神の名を持つ彼女とともに、彼は旅立とうとしているのだ。ぼくをこの地球に残して、あの空に浮かぶ月へと。
真っ暗な空の中に彼の姿。
背景にはちりばめられた星達。カッティングされた水晶みたいに、きらきら。ルーナの黒い体は闇の中にまぎれてしまって、満月のような金色の目玉が二つ、ぽっかりと見えている。
闇の中に、ぼんやりと輝く満月が三つ。
彼の微笑みは何処までも優しい。寂しがりやのぼくをいつも包んでくれる。
だけど、その微笑の向こうにあるのは、「孤独」なのだ。
ぼくはそれを知っている。彼はいつだって一人で遠くへ行こうとするのだ。
「…僕はどうしても、行かなくちゃいけないんだよ。」
何度も同じ事を言われたんだ。わかっている。
だけど、わかることと、それに納得する事とはまったく別の問題だ。
ぼくは納得できない。どうしてぼくを置いてゆこうとするの。たった一人で行ってしまおうとするの。
ぼくはどこまでだってついてゆきたいのに。彼の側にいられるのなら、どこまでだってゆくのに。
他には何にも、いらないのに。
月はいつだって孤独だ。あんなにたくさんの星達に囲まれていても、それでも月は孤独なのだ。
きらきらと輝く星の光は、それでも儚すぎて、月の寂しさを和らげる事は出来ない。
彼にはぼくが側にいる。それでも彼はひとりなのだ。
ぼくは彼の支えにはなれなかった。いつだって、頼っているのはぼくのほうだった。彼がいなくては何も出来ないのはぼくのほうだった。
…孤独な彼はルーナとともに、あの月へと旅立つのだ。ぼくを置き去りにして、あの月へ。
わかっているんだ。彼がぼくを必要としていない事くらい。
それでも我が儘なぼくの目からは、ぽろぽろと涙がこぼれている。
まあるい涙、まるでお星様みたいだね。だけど、何の役にも立たない。
「君だって、すぐに僕の事なんて忘れてしまうさ。ほら、泣かないで…笑った顔を見せてよ。最後なんだから。」
彼がぼくの涙を拭う。
彼の手についた涙の雫が、金色の光を映している。小さな小さなお月様。
だけど偽物のお月様。あの月はもっともっと遠い場所にある。ぼくの短い手ではとどきっこない場所に。
「最後なんて言わないでよ!すぐに、帰ってくるんでしょう?」
「……。」
彼は無言のままだ。ぼくは泣き叫ぶ。
「嫌だ!連れて行ってよ!側にいてよ!一緒にいてよう!」
「ごめん、だけど、僕は行かなきゃならない。君を連れてはいけないんだ。」
彼の言葉に合わせてルーナが泣き声をあげる。
わかっているよ。それが穏やかな拒絶である事くらい。だけどそれでも、ぼくは叫んでいた。
「嫌だ。嫌だよ。おいていかないでよ、連れて行ってよ!」
涙に濡れた声の、精一杯の叫び。だけど、彼は首を横に振る。月が冷たく笑って、ぼくたちを照らしている。
「お願い、連れてって、置いていかないで…お兄ちゃん!」
響き渡るぼくの声。
いっそう輝きを増す冷たい満月。
ふわりと浮かび上がる彼の体、ルーナのまん丸い目。
そして…。
そして、兄さんとルーナの姿は、月の中に消えた。
また、同じ夢を見た。
僕が杉本ケイになってから、五年が過ぎた。
僕の本名は杉本タカシ。
「敬」と書く。
今でももちろん、戸籍上の名前は杉本敬だし、中学校の卒業証書も、その名前でもらった。だけど今僕は、誰にでもケイと呼ばれているし、僕自身それが当たり前だと思っている。
だから、僕は胸を張って言おうと思う。僕の名前は杉本ケイだ。
僕がケイと呼ばれるようになったのには、ちょっとしたいきさつがある。
杉本ケイ、それはもともと、僕の兄さんの名前だ。
…杉本圭。
兄さんは五年前に姿を消した。
五年前といえば、僕はまだ小学生だった。
まだ少し幼さの残る、やんちゃっぷりの抜けきれない年頃。そんな中でも女の子には、少しませた意見を言うような子もいたりする。
男の子も女の子も分け隔て無く遊ぶ、そんな簡単な事がなかなか出来なくなってきたりして、対立したりするのも覚え始める、ティーンエイジャーになりきれない子供達。
だけど、僕はそんな中で割と異質だった。
一言で言えば、「浮いている」。
どうも友人達の話についてゆけなくて、いつの間にか一人でいる事の方が自然になっていた。僕はトモダチとの遊び方も知らなかったし、誰が誰を好きだとか言う小さな初恋物語にも興味が無かった。
小学校の三年生になる頃にはもう、僕はクラスメイト達とほとんど会話をしなくなっていた。
彼らもおそらく、僕の事は無視していたのだと思う。
それでも、いじめられるなどという事は無かった(そういう対象は、もっと別にいた。まあ、僕をいじめたところであまり面白くは無かっただろう。僕はその程度には、クラスと乖離していた。)ので、たいして影響は受けなかった。
人との関わりをほとんど持たずにすむクラスは、それなりにありがたかった。
あの頃、僕には兄さんがいればそれで良かった。僕はそれだけで十分だった。
いつも黒猫のルーナを肩に乗せて、兄さんは僕に微笑みかけてくれた。
僕は兄さんの事が好きだった。僕のことを本当にわかってくれたのは、たぶん兄さんだけだったのだから。
僕は兄さんさえいれば、寂しくなんて無かった。
兄さんは、月を眺めるのが好きだった。
僕の部屋のベランダに座って、傍らのルーナのやわらかい毛並みをなぜながら、僕にいろんなお話をしてくれた。僕はそのお話を聞くのが毎日の楽しみだった。
兄さんの話は、月の事が多かった。
童話のような、神話のような、不思議なお話。
兄さんはそれらのお話の数々を、「お月様に聞いたんだよ」といって笑っていた。僕はそのひと時のために、あの頃生きていた、と思う。
なのに、なのに優しかった兄さんは、僕のことを置いて、満月の夜に消えてしまったのだ。
僕よりもあの月を選んで、遠い遠い場所に行ってしまったのだ。
だけど、消えてしまった兄さんの事を覚えているのは、もう僕だけなのだ。
僕が聞いても、兄さんの事を知っている人は、誰もいなかった。みんな、みんな兄さんの事を忘れてしまったのだ。
…僕はそれでも良い。いや、むしろその方が良い。
兄さんは僕だけの兄さんなのだから。兄さんの存在は僕の心の中だけにある。僕一人のものだ。僕の中だけが、彼の居場所なのだ。兄さんの事を知っているのは、僕だけで良い。僕だけの、大好きな兄さん。そう、僕だけで…。
五年前のあの日、兄さんは突然消えた。
あの満月、あの狂ったような光に照らされて、ぼんやりと白く浮かび上がった兄さんとルーナ。月だけが妙に明るくて、光の届かない場所はやけに暗くて、今でも目に焼き付いている。その、強烈な光。
「僕たちは行かなくちゃいけないんだ。敬、君に行かせるわけにはいかないから…だから、僕とルーナがゆくんだよ。」
ミャアと鳴いたルーナのかぼそい声。兄さんの優しい微笑み。
だけどそれは、あの日僕の前から永久に失われてしまった。
もう二度とその声は聞けない。大きな手で頭を撫でてはもらえない。
僕の知らない何処かへ、月の光にいざなわれて、兄さんは行ってしまった。
お月様とお話が出来た兄さんは、僕を置いて、月の側へといってしまったのだ。あの月と離れる事の無い場所へ。
…だけど僕は、たった一人の兄さんを失ってしまった。
僕はもう、あの月を眺めながら暮らすことしか出来ない。兄さんのいるであろうあの月を。
その日から僕は、自分の事を杉本ケイと名乗るようになった。
そうすればずっと、兄さんと一緒にいられるような気がしたから。
僕はケイと呼ばれるたびに、僕は兄さんの事を思い出す。兄さんの事を考える。そして、自分がまるで兄さんその人であるかのように感じるのだ。
僕の中には兄さんがいる。月へ行ってしまった兄さんが、僕の心に残していってくれた大事な断片。
僕はケイと呼ばれることで、それを感じる事ができるのだ。大好きな兄さんの残像を。
僕はそれを抱え込みながら月を見上げる。
……そして、僕は十六歳になった。あの時の兄さんと同じ歳になった。
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