リラがコウキの元に来て、半年ほどが経った。
リラは、この半年間で、ずいぶんと自分の体が軽くなったように感じていた。
空から降り注ぐ光の量は今までと変わらないのに、動く事がずっと楽になった。充分な光がなくては、リラは生きてゆく事すらできないはずなのだが、今の彼女は、里が滅びたころよりも健康になっていた。
どことなく感じる浮遊感。精神の高揚。常にそばにある、満たされた心。
それは、光を浴びている時にしか味わえないもので、リラが今よりもずっと幼かったころ、まだ太陽の光が充分にあるころに感じていたものだった。
「もうすっかり元気になったみたいだね。」
コウキは、ある日リラに言った。
「あの日倒れていた時よりもずっと、肉がついて体重も増えてる。」
リラは苦笑した。
このような事を言われたとき、女の子というものは、軽く怒って見せたりするものらしい。そういう風に、リラは本で読んだ。そしておそらく、コウキ自身もリラのそのような反応を期待して言った言葉だったのだろう。しかし、リラには例えポーズでも、その言葉に腹を立てることはできなかった。リラ自身、自分の体の回復を、喜ばしい事だと思っており、太ったと言われる事も、腹を立てるというよりはむしろ、くすぐったい感触だった。
リラは、コウキのその言葉に返事をする代わりに、ひとつの質問をしてみる事にした。
「ねえ、コウキは、植物のことを知りたがっているけれども、…自分の事は、知りたくないの?」
それは、リラが初めて、知りたいという想いを理解したあの日からずっと、彼女の頭についてはなれない疑問だった。
「私は、自分の体の事を知りたいと思う。自分がどんな風にして生きているのか、どうやって動いているのか、どうして、こんな風にして考える事ができるのか、話すことができるのか、知りたいと思う。自分のことを考え始めると、どきどきしてたまらなくなる。」
リラは実際、自分の体について、何も知らないのと同じなのだ。
リラの種族の者達は、みなもうこの世の中にはいない。自分は何処からきたのか、自分は一体何者なのか、その手がかりは、自らの体の中にしかない。
リラは、自分が何者なのかを知らない。コウキに教えてもらったのは、植物や動物の事。リラたち緑の里に住む民のことを、教えてもらったわけではない。
まだ、リラはコウキに、自分のふるさとの事を、里の民たちのもつ性質の事を話していなかった。
私は人間ではない。私は植物ではない。なんて中途半端な存在。
何のために生きているのかを知らない。どうして生まれたのかを知らない。自分がどんな意味を持つ存在なのかを知らない。
いくら知ろうとしても、完全にそれを知ることはできない。
そしてだからこそ…興味は、知りたいという思いはリラを捕まえて離さない。
「私は、私の事を何も知らない。だから、知りたいと思うの。」
もしもリラが人間であったとしたら、納得できたのだろうか。もしも植物であったとしたら。自分の存在に、正確な名前が付いていたとしたら。自分をその枠の中に当てはめて、それで満足してしまう事ができたのかもしれない。
しかし、今のリラにはそれが許されない。人間でもない、植物でもない、中途半端なリラには。
だから、この突き上げるような、自分を知りたいと言う衝動に、身を任せる事しかできない。
「ねえ、私は一体、誰なんだろう…」
その言葉はすでに、コウキへの問いかけではなくなっていた。自分への問いかけとも少し違った。
ただ、リラの中から、抑えきれず溢れ出してきた問い、そのものだった。
光がなければ生きてゆけない、だけど、植物ではない。
二本足で歩き、言葉を話し、人間のように考える。不可思議な、人間によって編み上げられた辞典の、何処にも載っていない存在。
リラは今まで誰にも知られていなかった生物の、最後の生き残りなのだ。誰に教えを乞うこともできない。
しかし、その事は不安ばかりを増殖させるのではない。自分の事をひとつでもわかった、と思う事ができるとき、リラは限りないよろこびを感じる。限りなく自分を愛しく思う。
大きな謎をはらんだ自分を丸ごと、いとおしく思うのだ。
「私は、誰?」
その言葉を発した途端に、とくん、とくん。力強い心臓の音が大きく響いた。
心臓からやってきて、体中を駆け巡るこの低音は、自分が生きているという印。それだけで、何も聞こえなくなってしまうような大きな大きな音。生命を主張している音。
そこに、重なる音があった。もうひとつ、リラとはまた微妙に異なった音色の、とくとくという音。リラとは違ったリズムで時を刻んでいるそれは、コウキの心臓の音だった。
リラの体はコウキの腕の中にすっぽりとおさまっていて、その耳は彼の胸に、しっかりと押さえつけられていた。心臓に一番近い位置に、リラの頭があった。だからこんなにもよく、彼の胸の音が聞こえる。
とくん、とくん、とくん。
とく、とく、とく、とく。
それは、不思議な感覚だった。二人の音が重なる。生きているという音が重なり、重なり、たった二つの音なのに、何重にも折り重なっているように聞こえる。
今この場所に、世界中のすべてのものが凝縮されているかのように、リラは感じた。
自分の中からやってくる音と、外から聞こえてくる音が混ざり合ったこの音は、リラが今まで生きてきたその道筋を象徴しているかのようだった。あたたかかった。
コウキは、先ほどまで不安そうに揺れていたリラの瞳を見た。
リラが一体何者なのか…リラ自身から直接聞いた事はなかったが、コウキはすでに、リラが人間とは違った存在であるという事を、その研究者としての勘で見抜いていた。
まず、リラは食事というものを全くとろうとしない。初めて食物を与えた時に、彼女は一体それをどうやって処理したら良いものなのか、思案にくれていた。ものを食べる、ということを全く知らなかったのだ。リラが必要とするのは、適度な水分だけのようだった。
そしてもうひとつ、リラは植物達と、意思疎通のようなものができるようだった。
コウキは何度も、リラがコウキの部屋の植物達に話し掛けているのをみた。そして、植物達がそれに答えているかのように揺れる情景も。
もっとも、リラが人間であろうとそうでなかろうと、彼女に対する態度を変えようなどとは、微塵も考えてはいなかったのだが。
しかし、考えてみれば、コウキ自身、自分が何者なのかを知らないのだ。
誰もがその答えを求め、その謎を解くために奔走している。狂おしいまでにその答えを探し回っている。何処までも続く迷宮を駆けずり回っている。
その途中で、コウキは植物達に出会い、リラに出会い、そして今、彼らと共にその答えを探している。それは果てしのない道程。勝算などあるわけではない。ただ、自分の中からあふれ出てくる感情に突き動かされ、誰もがその迷宮へと飛び込んでゆく。ひょっとしたら出口など存在しないかもしれない迷宮へ。
「リラ…さっきの質問の答えだけれど…」
コウキは、リラの髪の毛に触れる。そのままそれをとかしてみる。
できる限り優しく、途中で引っ掛けてしまう事のないように。彼女の髪はさらさらと流れているようで、コウキの手にも、思いのほか簡単にとかす事ができた。
それはよどみのない川。何処までも流れてゆくような川。
「僕もまだ、自分の事を知らないんだ…だから、その答えを探している。けれども、それと同じくらいに、植物の事も、リラの事も、知りたいんだよ。それを知ることは、僕自身を知ることに、つながっているのだと思う。」
たくさんの川が流れている。たくさんの川が寄り集まって、そしてやがて大きくなってゆく。流れ着く場所は海。本当に意味があるのかどうかわからないようなものたちが集まって、寄り集まって自分ができている。
誰かから何かから預かったたくさんの欠片たちが、自分を作っている。
まだ知らないものを探すため、新しい欠片を手に入れ、そして誰かにまた、自分の欠片を与えるために、何処までも自分は流れてゆく。
「何故だかはわからないけれど…植物たちは、僕と同じものだと感じるんだよ。人間とはまったく違う仕組みを持って、まったく違う生き方をしているはずなのに、同じものを求めているような気がするんだ。」
リラもコウキも、自分が何者であるのかを知らない。
わたしもまだ何も知らない、あなたも何も知らない。その事において、彼らは対等な存在であった。
「私は自分が何なのかわからない。…私は、コウキと同じ種族じゃない。私が人間ではないから、何もわからないんだと思ってた。けれど、コウキも知らないのね。」
「だから、見つけたいと思うんだよ。どうしても知りたいと思うんだよ。」
コウキはそして、リラの瞳を見つめた。
一瞬か、一分か、一時間か。それとも果てしのない時間だったのか、それはわからない。
ただ、リラはそのとき、コウキの瞳の中にいた。深く深く、コウキの瞳の中に映りこんだリラの像は、彼の中へともぐってゆくようだった。
……光だ。
リラは唐突に思った。コウキは光を持っている。
今リラを包んでいるぬくもりは、光のあたたかさ。コウキから流れ込んでくる、お日様にも負けないほど、強い光。その力によって、リラは今生かされている。
コウキの光で、リラは生きている。
光の正体は、リラにはわからない。
コウキから太陽の光に似たものが発せられているとして、それを一体どうやってとりこみ、自分のエネルギーへと変換するのか、そのシステムをリラは知らない。おそらく、植物のそれとは全く違うのだろう。
ただ、リラにはわかった。コウキという人間は、お日様と同等の、いや、力の弱まった太陽と比べればそれよりもずっと強い光を持っているのだ。そしてその光を、リラはこの上なく愛している。
「コウキは、光だ…」
リラは思わず、それを口に出していたらしい。今までリラを見つめていたコウキの瞳が、急に見開かれた。
しかし、今のリラにとっては、そんな事はどうでも良かった。コウキが目の前にいる、そしてそれがリラを生かしているという事実だけが、今の彼女の考えうるすべてだった。
「コウキの光が、リラたちを生かしてくれている。お日様の光じゃ足りないものを、私に与えてくれる…コウキは、リラたちにとっての光なんだ。」
リラは、コウキの瞳が細くなり、やわらかく微笑むのを見た。あたたかいエネルギーが満ちる。鉢植えの中のリラが、さわさわと体を揺らした。風もないのに葉を鳴らした。
「僕の名前は、父さんが付けてくれたんだ。『光輝く』と書いて、光輝。…誰かのための光となれる、そんな人間でいて欲しい、確か父さんは、そう言っていたような気がする。」
コウキは、リラたちのための光。リラたちが生きてゆくために必要なお日様。
植物は、光がなければ光合成ができない。生きてゆけない。
それと同じように、今のリラは、コウキがいなければ生きてゆけない。
「リラに、そんな風に思ってもらえるのは…それは、すごく嬉しいよ。」
コウキのそばを離れてしまったら、リラは雲間からの光だけで、細々と生きてゆく事になるのだろう。
つねに付きまとう、飢えと渇きと、大きな虚脱感を抱えて。それは、リラには耐えられそうにない事だった。
今でも、初めて街へ降りてきた日のことを考えると、身震いがする。あの状態で、リラがそう長く生きていられるはずがない。
目的などわからなくとも、リラは生きていたかった。
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