リラが初めて人間というものを、実際に見たのは、リラ以外の大人たち、その最後の一人が動きを止め、誰もいなくなってしまった里を降りてからの事だった。

 ふらふらと、見たこともないような、人を突き放すような真っ白い建物たちの間をさまよっていた時に、声をかけてきたのが、その人間だった。

「君…大丈夫?」

 その時のリラはもうすっかり憔悴していて、彼の姿を見た瞬間、何故か気が緩み、その場に倒れこんでしまった。このままではいけない、人間などに捕まってしまったら、大変な事になるに違いない、そうは思ったのだが、いかんせん体が動かなかった。もう、疲れが限界までたまっていた。

「…?」

 彼が、倒れているリラの方へ歩み寄ってくる。その華奢な体を抱き起こす。
 リラの意識はほぼなくなりかけていて、目を開く事も何もできなかったのだが、今自分を包んでいるぬくもりは確かに感じられた。ほとんど何も考えられなくとも、それだけはわかった。

 これが、人間の体温。自分たちと同じぬくもり。緑の里の民たちとは完全に異質なる物であるのに、そのぬくもりは意外にも、リラにとってなじみの深い、懐かしいものであった。共に里で過ごしていた仲間達と同じあたたかさだった。






 リラが次に目を覚ました時には、見たこともないような場所にいた。
 真っ白くて、四角い空間。簡素なともいうべき部屋だった。
 生命を感じることのできない真っ白い壁に取り囲まれた部屋。それだけではどことなく窮屈な印象のする部屋。
 しかし、その中に配置されている数個の鉢植えの植物達が、この部屋の硬質な雰囲気をいくらか和らげていた。鉢植えの中に、リラの抱えていたものも混ざっている。

 リラはその部屋の中の、やはり真っ白いベッドの上にいた。ここが一体何処なのか、リラにはその心当たりが一切ない。一人で首をひねっていると、キイィとドアの開く音がして、一人の人間が入ってきた。

「ああ、気が付いたんだね。」

 この部屋には似合わない、穏やかで優しげな印象の青年。
 その人間の記憶はあった。リラがた倒れこむ直前に声をかけてきた、あの人間だ。あのぬくもりの持ち主だ。

「布団は一枚で、寒かったりしなかったかな。よく寝られた? 何か、食べたいものとかあったら言ってね。」

 彼は、コウキと名乗った。
 どうやら、昨日、肉体と精神両方の疲労から気を失ってしまったリラは、この青年に助けられ、部屋に運ばれたという事らしい。
 突然倒れるから驚いた、と語るその笑顔はあたたかく、リラの人間というものへのイメージは、大分変更されなくてはならなかった。

 自分の事しか考えていない、身勝手で、冷淡で、自分と違うものは阻害する事しかできない生物。
 自らの住む環境を壊していっていることにすら気付かなかった、愚かな生物。
 私たちの生きてゆく糧となる光を奪った、憎むべき生物。
 
 だれも言葉に出して言ったりはしなかった。それは、人間達のする事だ、そんなものと同じ事をするのは避けるべきことだ。
 しかし、リラは、まわりの大人たちの態度の節々から、そういった人間のイメージを植え付けられていた。
 強欲で、自己中心的で、破壊的で…できることならば考える事すらしたくない、汚い言葉で彩られるべき生物。

 けれど、コウキは違った。
 リラの考えていたような人間のイメージとは、かけ離れていた。ひょっとしたらば、コウキは人間とは違う生物なのではないだろうか、そんなありえない推理まで浮かぶほどに。

「とりあえず、気がすむまで寝てていいから。ずいぶん疲れていたみたいだしね。」
「あ…ありがとう。」

 自分の声が震えている事に、リラは驚いた。
 一体どうしたというのだろう。動揺している、という事なのだろうか。体が軽くなるような、そんな感覚がある。これは一体なんだろう。久しぶりに感じるあたたかさ。浮遊感。

「じゃあ、僕は少し、向こうの部屋へ行っているから。好きにしていていいよ。」

 コウキは、その声を残して、さっきと同じドアから出て行った。
 リラはしばし呆然とし、それから、真っ白いベッドからそおっと降りる。
 その白さは、少し目に痛い。同じ白でも、ずいぶんちがうものなんだわと、リラは自分のワンピーズと比較してみる。今までリラが寝ていたシーツの方がはるかに強烈な白。これと比べてしまうと、ワンピースの白はひょっとしたらくすんでいるという事になるのかもしれないが、リラにはそのほうがいいように思えた。

 そんな事を考えた自分に、くすり、と笑いを漏らして、リラは腕を伸ばした。
 確かにコウキの言ったように、まだ疲れは残っている。しかし、寝てどうにかなる疲れではないのだ。
 この全身の倦怠感は、太陽の光が弱まっていったころからずっと、消えていないのだから。






 不思議な人間、リラは思う。
 変わった目をしていた。どこか、きらきらと光るような、そんな目をしていた。私が今まで描いていた、どの人間のイメージとも、彼は違っていた。少しも攻撃的でない、それどころかむしろ…やさしい?
「…ねえ、人間って、みんなああなの?人間って、ああいうものなの?」

 リラは問い掛けた。もちろん、部屋の中にいる植物達にだ。
 里にいるときには、リラはずっとこうして植物達と会話をしていた。植物には人間や、リラたちのような発声器官はないので、テレパシーに似た感じの会話だったのだが。

 『好き、コウキ、好き。人間、コウキ。好き。やさしい。しあわせ。』

 リラの中に、文章にならない、イメージが浮かんでくる。
 これが、彼らとの会話方法。里の植物達は、それでも、もう少し流暢に話していたものだったが。彼らの送ってきたイメージは、肯定的なものばかりだった。
 リラは首をひねる。

「人間は、傲慢な生き物なんじゃあないの?」
『好き。たくさん、好き。いっぱい、好き。人間、コウキ。』

 植物達は、リラの問いには答えてくれなかった。
 ひょっとすると、質問の意味がよくわかっていないのかもしれない。
 この植物達の間からは、やさしいイメージしか伝わってこない。もしかしたらば、彼らは憎しみだとかいうものの概念すらも、持っていないのかもしれない。
 それならば、あえてそんなことを教える必要もないだろう。そのような言葉など、知らなければ知らない方が良いに決まっているのだ。

 けれど、ひとつだけ確かな事がある。
 コウキという人間が、この部屋の植物達に、好かれている事。
 踏み潰され、虐げられているはずの人間に、好意を寄せている事。
 それはどうやら、否定のできない事実のようだ。

「この部屋は、嫌いじゃない?」

 リラは、周りを見渡して言った。どことなく冷たい感触のする部屋。リラにとっては少しだけ、居心地が悪い。寒気がする。

『コウキ、いる、好き。あったかい。』

 この子達は、本当に彼の事が好きらしい。なんだか笑ってやりたい気分になった。






 今まで人間というものを見たことのなかった私が、一体彼らの何を知っていたというのだろう。どうやって嫌いになったというのだろう。何を憎んでいたというのだろう。

 リラは、人間達の行いは知っていた。
 生きる場所をどんどんと汚してゆく、人間たちの行いは知っていた。しかし、それはどこか、実感のわかないものだった。
 リラたちの生きる場所は、人間たちによって狭められていた。
 リラの仲間達が死ななくてはいけない原因を作ったのは、人間達だった。
 しかしそれは、人間という名の、どこか抽象的な存在のしたことであって、先ほどリラをいたわってくれたコウキとは、結びつかないものだと感じた。

 この部屋はあまり好きになれないけれど、それはコウキのせいではない。そんな風に、リラは思った。
 人間の事はやはり、好きにはなれないけれど、コウキを憎む必要は、おそらくない。




*     *     *







 コウキは、植物の研究をしているのだという。

 「葉緑体」というものの存在を、リラはコウキのもとで初めて知った。
 植物の中にはそういう名前のものがあること、クロロフィルやカロテノイドといった色素が、光のエネルギーを得るのに活躍していること、体内の回路の中で数え切れないほどの物質が合成されて、それでようやくデンプンやなにかが作られる事。「光合成」という言葉の意味を、植物が自らの体の中で養分を作り出すシステムを、リラは初めて教えられた。

 リラは、自分の体が光をエネルギーとしているシステムを、本能的に知っていた。
 しかし、理論立ててそれを説明されたのは、そのときが初めてだった。
 自分は、植物とはすこしちがったシステムで動いているのかもしれないが、コウキの説明を聞いていると、リラの胸は不思議と高鳴った。
 自分の体の中で今も、たくさんの物質が作り出され、消費されている。
 私を生かすために、幾つもの器官が働いている。
 色素が光を受け止め、そのエネルギーでATPが作られ、そしてデンプンを作るのに使われ……その様子を空想する時、リラの小さな胸はとくんと高鳴った。
 それがたとえ、自分の体の仲で起こっていることではないとしても、それでもやはり、驚くべき事だと思った。

 コウキから教わった事は、なにも光合成のしくみだけではない。
 生物のもつ細胞構造や、ミトコンドリアによる呼吸。リボソーム。どこまでも受け継がれてゆく、命の設計図とでもいうべき遺伝子の話。つぎつぎと新しいものを作り出す、どんどんと時の流れに従って生き物は発達してゆくのだという、進化という概念。
 生物学の知識にのせて、コウキはたくさんの事を教えてくれた。

 そういう話を聞いているとき、リラは自分の体をこのうえなくいとおしいものだと感じた。
 細胞の一つ一つが懸命に動いている。それはいじらしく、健気に。
 そして、そばにある植物達も、やはり同じように生きている。それはもちろんコウキも同じだ。今この世の中に息づいている全てのものたちが、リラにはいとおしく感じられてたまらなかった。
 なんという、見事なシステム。なんという見事な生命。






 幼いころからそばにいた植物、コウキはその魅力にとりつかれた人間だった。
 もちろん、たかが二十年ほど前に生まれた彼は、まったく人為的なものを介さずに育った植物というものを見たことがなかったのだが。それでも、彼は緑に焦がれる人間だった。
 灰色の都会において、ひとり、一面の緑を追い求める人間だった。

「顕微鏡をのぞいているときには、目の中に彼らの姿しか映らなくなるだろう。僕は、レンズの中に見えるその情景が、好きだったんだ。僕はまだ、あんなふうに、植物だけで埋められた光景というものを見たことがない。どこまで目をやっても、一面緑しか見えない、そんな光景。それを見るのが、今のところ僕の夢だよ。」

 リラに自分の研究の話をしながら、よくコウキはリラの葉をなぜた。
 やさしくやさしくなぜた。その長い指の動きはとてもやわらかで、いとおしげだった。

 それはまるで、風のようにリラの葉を鳴らした。風のようにリラの髪の毛を揺らした。暖かいものが流れ込んできた。

「僕は知りたいんだ。彼らの事が。植物達は、どうやってあんなにも素晴らしいシステム作り上げたのか。どうしてあんなにもやさしい色をしているのか。」

 あの植物達の緑色が、光を受け止める色素の色が、どうしようもなく好きなのだ、という事が、その指の動きを見ているだけでわかった。
 そして、コウキの植物への想いを認識する事は、リラにとって、幸せな事だった。






 一度、リラは、ひどく驚いた事がある。
 コウキが、部屋にあった植物の葉をむしったのだ。研究に使うのだ、という名目だったが、リラは今までにそのような事をした者を見たことがなかった。

 リラにとって、植物の葉がむしられるというのは、自分の体の一部分をちぎりとられることと同じだ、という感覚があった。
 腕をちぎられるのは、痛い。だから、普段あれほどやさしいコウキが、気安くそんな事をするだなんて、どうにも信じがたかったのだ。

 そのときのリラは、あっけにとられてしまって、コウキに何一ついう事ができなかった。
 強い憤りなのか、それとも、ただただ信じられないという思いなのか。自分に消化しきれない出来事が起こって、頭の中が混乱していた。ぐるぐると、頭の中を、よくわからない言葉がめぐっている。
 それでもリラは、コウキが研究室の方へ行ってしまうと、どうにか自分を奮い立たせて、植物達に話しかけた。

「大丈夫だった…?あんなことされて。」
『どうして?リラ、何?痛くない。コウキ、知る。体、知る。』

 リラはその反応に戸惑った。

「どうしてって…あなたたちは、自分の体の一部を勝手に持っていかれて…それで平気なの?」

 コウキの手によって、ちぎられ、ずたずたにされる彼らの葉。名前も知らないような薬品につけられ、溶けかけている彼らの一部分。それは、確かに彼らの一部分ではありながら、まぎれもなく屍骸だ。彼らの屍骸だ。

 それを想像する事は、リラにとって苦痛だった。たとえコウキに、植物達への悪意などないにしても、それは、許されない行為に思えて仕方がなかった。

「どうして、それで平気なの?」

 ちぎられるリラの腕。メスを入れられるリラの腕。血が流れる。顕微鏡を通して見る、薄い輪切りになったそれは、果たして生きているのか。
『コウキ、ほんとのこと、知る。知りたい。わたし、知りたい。』
「知りたい?」『ほんとのこと、知りたい。生きる。知りたい。私、知る。コウキ、知る。』「あなたたちは…知りたがっている、の?」

 リラに伝わってきたイメージは、そうとしか思えないものだった。
 行きたい、上へ行きたい。どこまでも上ってゆきたいという感覚。
 そして、自分の中へと降りていく感覚。何処までも深く、降りてゆく感覚。視野が狭まってゆく分、拡大されてゆく「わたし」の一部分。どこまでも手探りで進んでゆく、そんな感覚。
 そして、見えない道の先に対する、少しの不安と、ときめきと、大きなよろこびの感覚。

「そのためなら…平気なの?自分の体がどうなっても。」
『知る、知る。嬉しい。コウキ、知りたい。自分、好き。』

 さわさわさわ……部屋中の植物達が、葉を鳴らした。
 リラの問いに答えて葉を鳴らした。
 少しの不安と、ときめきと、大きなよろこび。それは、コウキになぜられている時と全く同じ、葉の揺れ方だった。

 さわさわさわ……さわさわさわさわ……

 部屋中の植物、とはいっても、たいした数ではない。しかし、リラにはその音が、まるで大合唱のように聞こえた。 さわさわさわ……。リラの体も、彼らと一緒に揺れているようだった。
 ああ、体の奥の方からやってくる音だから、こんなにも大きく聞こえるのだ。さわさわさわ……。

 何かが突き上げてくるような感じだった。なにか、大きいものが体の中から上ってくるような。
 私は、私を知りたい。わたしは、わたしをしりたい。

 そのとき、初めてリラには、コウキの瞳に宿っているものがわかったような気がした。
 コウキはいつも、答えを追い求めているのだ。この、体のそこから突き上げる、知りたいという衝動に身を任せて、常に本当を追い求めているのだ。
 だからこそ、彼の瞳は、あんなにも輝く。どこかに隠れている真実すらも見抜こうとして、すべてを知ろうとして、あんなにも輝くのだ。

「私は、わたしの事が知りたい…」

 声に出していってみた。するとそれは、リラの中でますます明確な感情となっていった。言葉が彼女のなかで結晶となって、きらきらと降り積もるように。

 その瞳は、コウキと同じように輝いているだろうか?リラはそんな事を思った。



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