*緑の里に光は満ちて*
都会の無表情な人ごみの中を、少女は大きな鉢植えを抱えて歩いている。
鉢植えは、彼女の細い腕が、どうにか抱きかかえられるほどの大きさで、中にふわふわと詰められた土からは、緑色が天に向かって生えていた。細長い葉を突き上げ、緑は救いを求めるかのように、曇り空へと手をのばしていた。
そのような鉢植えを、胸の前に抱えているので、少女の顔は、ほぼ葉に隠されてしまっている。
ただ、ひらひらとしたワンピースから伸びている腕から、きめの細かい、透き通るように色が白い肌の持ち主だという事だけがわかる。洗い立てのように、くすみひとつないそのワンピースとも区別がつかないほどに。
彼女の名前はリラ。少なくとも彼女は、周りの人間にそう呼ばれていた。
リラというのはもともと、彼女の抱えている鉢植えの植物の名前だったのだという。しかし、彼女たちにとって、自分がなんと呼ばれているかなどは大して重要な事ではないらしい。
「私とこの子は、全く同じ存在。だから、私の事をリラと呼んでも、それは間違ってはいないわ。私とこの子は同じなんだもの。」
少女はいつかそれを問われたとき、笑って、鉢植えを持ち上げながらそんな風に答えた。
「名前がないと不便でしょう?なら、私はリラよ。私の名前は、それでいいの。」
その微笑は、まるで彼女の中に一切の影というものが、存在していないかのように、美しく感じられた。
この世界にあふれかえっている、薄暗くどろどろとしたものたちが、彼女の前ではその性質を失う。自分勝手な主張も、くだらない憶測も、果てしのない疑惑も、彼女の中にはないように見えた。
今日もリラは、無機質なビルたちの谷間を、鉢植えとともに歩いていた。
いつも通りの真っ白なワンピースを翻しながら、足取りはあくまでも軽やかに。抱えているいかにも重たげな鉢植えが、まるで実際は鳥の羽根ほどの重さであるかのように、彼女は軽快に歩いていた。
しかし、リラの顔の前で生い茂る葉の中から、わずかに見える彼女の表情は、少しばかりこわばっているようだった。
それは、決してリラの腕にかかっている、鉢植えの重みのためではない。彼女はこれまで、鉢植えの植物とともに生きてきていて、一度もそれの存在を重みと感じた事はなかった。
空を埋め尽くしている灰色の雲のかすかなすきまから、ぼんやりともれてくる太陽光が、ワンピースに反射している。
光が足りない。
リラは思った。鉢植えのリラが生きてゆくための、そして自分自身が生きてゆくための太陽光が足りない。
鉢植えのリラが、何かを訴えるように、葉を鳴らした。それは人間のする、神への祈りのようなポーズだった。リラはそれに答えるように首を振る。
「わかっているわ、リラ。ここは、光が足りない…」
リラは、ごく普通の植物よりもずっと多量の光を必要とする。
たとえ肌を突き刺すほどの光であっても、リラには不十分なほどだった。リラが正常に生きてゆくためには、真夏の燦然と輝く太陽の、何倍もの光を必要とした。
そのうえ、リラの身体は、人工的な光を受け付けない。理由など、リラは知らなかった。
一度、どうしようもなく光に飢えて、デパートというくすんだ白い建物の中に入った事がある。
確かに、建物の中は、分厚い雲を通してしか入ってこない、太陽光の下よりはずっと明るかった。
しかし、リラの身体は決して、その光を心地よいとは感じず、それどころか、何か嫌なものが、必要のないものが、敬遠しなければならないものが体の中にたまってゆく気すらして、リラは三分もたたないうちに、その場を離れてしまった。
雲にかすむ光は、確かに美しい。リラは思う。
しかし、それよりも、何の障害もなくさんさんと降り注ぐ光を、リラはずっと美しく感じるのだろう。
木々の葉の間を光が通り抜け、わらわらと枝を揺らす。風がないのに揺れている濃い緑たち。それは、細かな光の粒子が、身体をやわらかくなぜてゆくことに対する、喜びのしるしなのか、歓喜の踊りなのか。
だが、そのような情景はもう、遠い記憶の中にしかない。
一体もうどれだけの年月、あの日差しを、命をつなぐ光を、この身に受けていないのだろうか。
* * *
リラの暮らしていた緑の里は、遥か昔に滅びた。原因は、光の力の衰退。
光が弱くなっている、その兆候はずいぶんと昔からあった。空が、完全に雲に覆われてしまう日が増加していた。光が、この地上に届かない、その原因を、人間達は懸命に調査した。
しかし、それを突き止める事は、結局人間にはできなかった。
原因不明の現象、人間達は恐怖した。
この問題は、今までさんざんとりざたされてきた「自然を大切に」などという言葉で解決する事はできなかった。
状況を改善するための方法が、何ひとつ提示されていないのだ。たとえどれほどご都合主義的なものであろうとも、何か原因が、そしてそれを防ぐ方法がなければ、人間は安心する事が出来ない。
その方法とやらを実践するか否かはわからない。ただ、彼らは、言ってしまえば自己満足のために、今起こっている不可解な、そして都合の悪い現象を説明する言葉を欲しがった。
自分は悪くはない、悪いのは何か特殊な物質であったり、それとも一部の人間の身勝手な行動なのだ。そう信じ込むための材料が、必要だった。
「人間という種族に対する罰」「異常気象」「自然の怒りだ」説明になっていないような言葉でも、人間達の欲求不満を満たす事には役に立った。理屈になっていない理屈が、そこら中にあふれ返っていた。
しかし、人間達は、この奇妙な現象に対する理論的な答えを見つけることこそ出来なかったが、ひとつの解決策をでもいうべきものを編み出した。
初めにそれを言い出したのは一体誰だったのだろう。それは、一種の妥協案とでも言うべき提案だった。
「何故、などという事は考えても仕方がない、起こってしまった事は起こってしまった事として、その環境の中で生きてゆく道を探すべきではないのか。今の人間の生活をできる限り崩さずにすむ方法を見つけなくてはならないのではないか。」
やがて、その意見は、世界の主流となり、そのころには、太陽光を得られない事から引き起こされる、あらゆる問題に対応した装置が出来上がっていった。
光を使わずとも、人工的に育つ植物の開発、気温の低下を防ぐためのドーム、ある種の栄養失調を防ぐための薬品の配給システム、どうしても必要な光を、雲の向こうから取り入れるシステム
……当時の人間達は、そういった小手先の技術に関しては、おそろしいほど知恵が回った。
そのような技術の進歩は、根本的な解決には程遠いもの、その場しのぎの解決法でしかなかったのだが。それでも人間達は、自らの手が作り出した文明というものに固執した。
人間達は、自分が生きてゆくのに不都合のない環境さえ確保されていれば、あとの事にはたいして関心がなかったようで、環境破壊と昔呼ばれていた現象は、なくなることがないどころか加速していた。
新たなシステムの開発に伴う、環境の急激な変化に耐えられず、滅びていった生物も数々いた。
中には、上手いこと自分の種を、環境に適応させたものたちもいたのだが。
そうして、人間達にとっての世界は、ひとまず平穏をとりもどした。
が、そうでなかったものたちもかなりの割合で存在していた。その中の代表格、とも言うべきなのが、この緑の民たちであったのだ。
緑の里の存在を、人間達は知らない。
もしも彼らの存在を知ったとするならば、人間はどんな反応をするか。想像もできないほどの大騒ぎになる事は、目に見えている。
里の民たちは、人間の姿に似てはいるが、全く別の種族なのだ。彼らの事は、むしろ植物から派生した生き物と呼んだほうが正確かもしれない。
例えば、里の民たちは、必ず、ひとつの植物に包まれて生まれてくる。
リラの場合は、それが、今は鉢植えの中で葉を生い茂らせているリラであった。
自分と全く同じ名を持つ植物とともに、里の民は生まれ、そして、まるでひとつの命を分け合っているかのように、彼らは共鳴しあう。里の民のリラが喜べば、鉢植えのリラもさらさらと葉を鳴らす。リラが悲しみの涙を流せば、リラもしおれてしまう。
リラたちはひとつの生き物として、ふたつでひとつの生き物として存在している。生まれてから、同じだけの時間を生き、同じだけの時を過ごし、同じ瞬間に動きをとめる。
例えば、里の民たちは、物を食べない。植物と全く同じように、光をつかって、自分の中で養分を作り出す。彼らは自分たちの体の仕組みなど、もちろん全く知らなかったのだが、太陽の光によって自分達は生かされている、そういう強い実感をもって生きていた。
一般的に言われる人間とは、全く違うシステム。
自分達の体が、むしろ植物と呼ばれるものに近いことを、そして逆に、土に根を張るリラたちが、むしろ人間と呼ばれるものに近い思考を持っていることを、彼らは本能的に知っている。
例えば、里の民たちは、人間達の言う「死」という概念を持たない。
彼らにとって、仲間が一切の動きを止めるという事は、新たなる誕生と等しかった。
里の民のうちの誰かが、目を閉じたきり動かなくなると、残りのものたちは、その人を里の中で最も明るい場所へと運ぶ。そして、湿り気のあるやわらかい土を、充分にかけてやったあと、新たな命の誕生を待つのだ。
一ヶ月もたてば、その身体からは、緑色の芽が吹き出す。太陽に照らされて、きらきらと輝く黄緑が、その身体を覆い尽くしてゆき、かけられた土を突き破って、そしてそこから、次の世代の子供達が生まれてくる。
彼らの命は、このようにして受け継がれてゆく。
しかし、そのサイクルに異常が起こった。光が急に、届かなくなったのだ。
何も食べることなく、太陽の光のみをその糧とする緑の民たちは、飢え、一人また一人と死んでいった。充分な光がない環境では、新たな子供は生まれてこない。
雲の透き間から漏れ出る微弱な光、いわば分厚い雲に食い散らかされた後の残存の光では、緑の民は命をつないでゆく事が出来なかった。
雲にさえぎられ、光が自分達のもとまでやってこない、その事に、里の民たちは恐怖した。
重苦しい空気が、里の民たちを蝕んでいた。いつでも照り付けていた太陽の光が届かない、今まで、人間達の暮らす場所がどれだけ厚い雲に覆われていても、緑の里にだけは、充分な量の光が降り注いでいたのに。
前代未聞の事態だった。
人間達の行いが悪いのだ、毒物を垂れ流して飄々としている人間達のために、太陽の光が届かなくなったのだ。
そういった噂が、緑の里の中に流れた。それまでも決していい印象はなかった人間達への憎しみは、仲間が死んでゆくたびにつのっていった。
言葉に出す事はなかった、しかしだからこそ強く思った。
人間さえいなければ、このようなことにはならなかったのだ。人間さえいなければ……
緑の民たちは、光を求め、懸命に、もう見えない太陽に向かって手をのばした。
しかし、命の源である光は弱まる一方、里の者たちは力を無くしてゆき、一番幼いリラだけが、残された。
リラの姿は、もう何百年もの間、少女のままで、全く成長していない。
緑の民たちは確かに、人間達に比べれば長命で、一千年近くの時を生きるものもいるのだが、普通のものは、五百年程度で動きをとめる。
それを考えると、とっくに少女時代をすぎたリラほどの歳で、まだ姿が大人へと変化していないのは、異常な事だった。
それというのも、緑の民たちは、充分な量の光がなければ、成長する事が出来ない。大きな体を維持するのには、それだけたくさんの光を必要とする。
光の力が衰退していった時にすでに大人になっていた里の民たちは、自らの身体を生かすだけのエネルギーを得られなくなって、次々に動きを止めていった。そして、今までの「死」とは違い、二度とよみがえる事はなかった。
しかし微量な光の中でも、まだ体が小さく、大人ほどのエネルギーを必要としないリラだけは、かろうじて生き長らえてゆくことが出来たのだ。
そして、その代償として、リラの身体は、時を刻む事をやめた。今のリラは、一日一日、命をつないでゆくだけで精一杯だった。
光のない場所では、生きてゆけない。それが、緑の里の民たちなのだ。
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