その時、だった。タッタッタッ……どこかから、走っているような足音が聞こえたのだ。足音はだんだんと大きくなり、近づいてくるのがわかる。タッタッタッ……
 不意に、道の遠くに影が浮かび上がった。人間のような形をしている影だった。
 影は確実にこちらへと向かっていた。足音の主は、どうやらあの影らしい。どんどんと私の方へと近づいてくる。
 とうとう、私に襲い掛かってくる敵のお出ましだろうか。今までの展示物たちは、私を怖がらせることを目的としていたようだが、敵意は感じられなかった。恐怖はその展示物の中だけで完結していて、観客である私を攻撃してきはしなかった。
 しかし、あの人影もそうだとは限らない。武器はないだろうか。私はしょっていたミニリュックの中をさぐった。
 ごく普通の高校生の荷物の中には、武器になるようなものなど入っていない。
 漫画を描く友人は、常にトーンナイフというものを携帯していた。しかし、あいにく私は漫画など描かないので、どうにもならない。手があの文庫本に触れたが、さすがにこれで相手にダメージを与えるのは不可能だろう。せめてハードカバーか、分厚いノベルスならば良かったかもしれない。私は長編を書くことで有名な作家の名前を二、三個思い浮かべ、すぐにそれを振り払った。そんな事を考えている場合ではない。武器がないのなら、逃げなければ。
 私はすぐさま後ろを振り向き、そのままスタートを切った。
 とたんに、向こうの足音のリズムが早くなるのがわかった。
 私の足は決して速くない。だからこそがむしゃらに逃げた。
 腕を大きく振れ、腿をあげろ、体育教師の言葉が脳裏に甦る。もう少し真面目に徒競走の授業を受けておくべきだった。後悔先に立たず。
 先ほど見たばかりの展示物が、後ろへ流れてゆく。スタート地点に向かって走っている事が癪だったが、仕方がない。
 ドクドク、ドクドク、自分の心臓の音がここまで大きく聞こえるのは初めてだった。走っているせいだろうか、それとも恐怖のためだろうか。追われているホラーゲームの主人公の気持ちが少しだけわかった気がした。もう、恐怖感を増すために、わざと敵に見つかってみるなどというプレイはやめよう、と心に誓う。

 足音が大きくなっている。差が詰められているのだろうか。今、相手からどれだけ離れているのかが知りたかったが、振り返ることが出来ない。
 一度足をとめてしまったら最後、もう走り出す事など出来なくなるのではないか、という恐れがあった。もともと長距離走は得意でないのだ。
 心臓はフル回転を続けているにも関わらず、大幅にペースが落ちている。

「…小林、小林遥っ!」

 そいつは、私の名前を呼んでいた。
 名前まで知っているなんて、どうしたのかしら、あの足音の主は。やけに物知りだ。ストーカーなら願い下げだよ、お兄さん。
 とにかくどうにかして逃げなければ。限界に近い体に鞭を打って、私は出来る限り早く走ろうとする。その時、信じられない言葉が聞こえた。

「小林っ、俺だ俺!冴島数彦っ」
「!?」

 もうすでに懐かしいその名前を聞いて、反射的に足を止めてしまう。
 しまった、と思ったが時既に遅く、限界に達していた私の体は、その場にへたりこんでしまった。
 相手が冴島の名前を語っている可能性もある。逃げなければ、と思うのに、体はもう動かない。

「小林、俺だよ!冴島だって!」

 それは確かに冴島の声のように聞こえた。教室の中で聞いていた、多少低めの声。
 しかし、その声を完全に信用する事ができない。足音がどんどんと近づいてくる。
 ドクンドクン、私の心臓の音がそれと絶妙に重なり、恐怖をあおるメロディを奏でていた。
 何かが背後から迫ってくる。近い。もう終わりだ。
 私は固く固く目を閉じて、相手の凶器が振り下ろされるを待つ。しかし、足音が私のすぐ傍でやんでも、想像していた衝撃はなかった。
 私は、恐る恐る目を開いてゆく。見あげると、冴島数彦の顔が、私をのぞきこんでいた。終業式以来会っていないとはいえ、まだ一ヶ月ほどだ。それなのに、彼の顔は無性に懐かしかった。

「小林、大丈夫か?」

 私は、どうにか笑顔を作って頷いた。
 しかし、本当に信用していいのだろうか。冴島の顔をして、冴島の声で話してはいるが、それが、相手の策略だということも考えられる。
 私は、いぶかしげな視線を彼に向けた。

「…ごめん、小林、六時間と五十分の遅刻だ」

 私の視線をどう勘違いしたのか、そう言うと彼は、自分の腕時計を見せた。学校にもよくしてきている、頑丈そうなそのデジタル時計の文字盤には、7:50と表示されていた。
 本物の冴島だ、と私は思った。

「映画、もう終わってるよな…ほんと、ごめん。」

 あまりにも日常的なその言葉を聞いて、不覚にも目に涙がたまってきた。
 私はそれを見られないように、冴島の胸に顔を押し付けた。





*     *     *






「……落ち着いた?」

 気が付くと私は、冴島の腕の中にすっぽりと包まれていた。ぱちくり、漫画ならばそんな効果音が使われるような、大きなまばたき。
 反射的に冴島を突き飛ばす。自分が今どんな姿勢でいたのかを思うと、急激に恥ずかしさがこみ上げてきた。頬が真っ赤に染まってゆくのがわかる。こんな風になってしまうだなんて、小林遥、一生の不覚だ。
 ばっ、顔を隠すようにして、私は体の向きを変えた。

「小林、自分からしがみついてきたくせに。あのままでも俺は良かったんだけどなあ。」
「…冴島がそういう冗談言うとは思わなかった」

 私は唸り声を出すように言った。苦虫を噛み潰しきった顔で、振り向きざまに冴島をにらみつけてみる。あいにくですが、活字中毒とはいえ、あまり恋愛小説の類は読まないので、こういったシチュエーションには慣れていないのです。勘弁してください。

「この状況だと、もう冗談でも言って、無理やりにでも明るくするしかないんじゃないかと思ってね」

 冴島はしれっと言ってのけた。
 言われてみれば確かに、周りには、先ほどまで私が見ていたグロテスクなオブジェたちが並んでいる。この空間でロマンチックを演出するのは不可能に近いだろう。演出してどうする、という気もするが。

「それで、一体どうしてそんな、七時間近く…いや、私が、待ってた時間だけで三時間も遅刻したのよ」

 気を取り直して、私は詰問した。話題を変える意味もある。体の向きを変え、きちんと冴島の方を向く。こんな所でする会話ではないような気はした。でも、仕方がない。ここから脱出する事が出来ないのだから。彼に向けた視線にはその恨みもこめておく。

「いや、一応駅には来てたんだ。十二時半ごろに」
「じゃあどうして声かけてくれなかったのよ…おかげで文庫本は読み終わるわ、事故の心配はしなくちゃならないわ、挙句の果てにこんな所に迷い込むわで大変だったんだから」

 こんな短縮した言い方では、冴島には伝わらないだろうが、三時間待っている間の説明をわざわざしてやる義理もない。そこは、冴島数彦の小説書きとしての想像力におまかせしよう。
 彼は少し複雑な表情をして、


「駅の南口にいたんだよ。自分は南口だって言ったつもりだったから。その分だと、小林は北口にいたんだろ?」

 と言った。
 それを聞いて、私はもう呆然とするしかなかった。冴島としては、待ち合わせ場所は南口のつもりだった、だなんて。そんな事は、簡単には信じられない。
 だが、冴島の表情を見ている限り、彼は嘘をついているわけではないだろう。やはり信じがたい事には変わりがないが。
 私は完全に、待ち合わせ場所を北口だと考えていた。しかし、よく思い返してみれば、一度場所を聞いただけで、どちら側の出口か、きちんと確認はしなかったはずだ。

「でも、私、行ったわよ。ちゃんと南口まで、冴島が来てないかと思って。だけどいなかったのよ? そもそも…南口から北口に戻る時の地下通路がおかしくなってたせいで、今私こんな所にいるんだから」

 そうなのだ、南口には冴島らしき男の子は一人もいなかった。
 それとも、冴島が女子高生やおじいさんや小学生に変装していたのだろうか。そんなこと、考えたくもない。

「地下通路、ね。それ、何時ごろだった?」
「え…たしか四時前くらいだったと思うけど」
「俺、ちょうどその頃は…北口に向かってたんだよ。踏み切りの方を使って。完全なすれ違いってやつだ」
「なんですって!?」

 私は口をあんぐりと開けた。
 先ほども、これ以上にないくらいに驚いたつもりだったが、今度のはさらにそれを上回る驚きだった。そんな、すれ違いだなんて、そんな事ありえるのだろうか。しかし、冴島がそう言っているのだから、信じないわけにはいかないのだろう。やっぱり、信じがたいのだけど。

「それで、地下通路を使って南口に戻ろうとして…戻れなくなった。多分、その辺の経緯は小林と同じだと思うけど」
「…なんちゅー馬鹿らしい話」

 思わず頭を抱えてしまった。頭が痛い。
 一体どうしてこんな馬鹿らしいことになってしまったのだろう。本当に、馬鹿らしいとしか言えないような話だ。冴島の口からどんな真実が明かされるのか、少しわくわくしていたというのに、緊張の糸がふっつりと切れてしまった。
 本当に馬鹿馬鹿しくて、涙が出てくる。ああもう本当に何をやっているのだろう、私達は。
 黙りこんでしまった私を見て、冴島は慌てて続ける。

「何度階段を上ってもそこは北口でさ。変だなと思いながら歩き回っていると、なんだか知らないが、男の像が話し掛けて来て、ぐだぐだ言ってるから無視して地下道に入ったら、こんな奇妙な場所だった」

 冴島が、すぐ横にある、三つ目のマネキン人形を叩いた。ぺたぺた、あまり良いとはいえない音がする。

「私も似たようなもん。こっちは女の子の像だったけど。運命の恋人が助けに来てくれるのを待ってるだとか言ってた。馬鹿らしい話だけどね」

 彼女の歌声を思い出す。
 あの待ちぼうけの姫君は、今でもあそこで王子様を待ちつづけているのだろうか。おあいにく、私の方はもう既に、冴島を見つけることが出来た。まあ、始めは冴島のことを敵か何かと勘違いして、逃げてしまったなどというおまけつきだが。あの少女に、私が待っていた相手を見つけた事を伝えられないのは、少し残念だった。
 お姫様、見て御覧なさいよ、私と冴島の並んでいる姿を。どう、私のやり方も、決して間違ってはいなかったでしょう。



 私が感傷に浸っている間、冴島は何か考えているようだった。
「やっぱりそうなのかな…」
 などと呟いている。
 と、突然冴島は私に、分厚い紙の束を突きつけてきた。

「小林、これ、読んでみてくれる?」

 こんな時に一体なんだろう、と思いながら、私はそれを受け取った。端が少し折れ曲がった、一番上の紙には、ワープロの文字で『機械仕掛けの姫君』と印刷されていた。ここは薄暗く、文字が読みにくかったが、仕方ない。目が悪くなるという事は考えずにおこう。
 私はそのページをめくり、次を読み出す。


         舞台上には一人のロボット。彼女の名はルカ。
         ルカはひざまずいて、何かを一心に呟いている

   ルカ  ああ、ねえ、聞こえていますか?聞こえていますか?私の声。
       私はずっとここで待っているんです。
       あなたが来るのを待っているんです。
       聞こえていますか、私の声。

         ルカ、立ち上がる。誰もいない方向を見つめながら。

   ルカ  私、あなたに会って、初めて感情というものがわかったんです。
       あなたに会って、恋なんていうものを知ったんです。
       今まで知識しかなかった事が、初めて、自分の感情としてわかったんです。
       ひょっとしたらそれは、罰せられる事だったのかもしれないけれど
       ……待っています。あなた。私の…恋人。
       私をここから救い出してくれる事を、祈っています。


 私はとりあえず、文字を追う目をとめて、冴島のほうを見やった。

「冴島…これは?」
「約束してた、文化祭の脚本。まだ草稿だけど」
「そうじゃなくて……」

 これが脚本だということは見ればわかる。そして、冴島の持っている脚本なのだから、文化祭用の脚本だろう。そんな事はわかっている。私が聞きたいのはそういう事ではない。
 冴島を見上げると、彼はわかっているというようにうなずいた。

「この話、ロボットのお話なんだよ。ルカっていう女のロボットと、カズミっていう男のロボット」

 ルカとカズミ。私のクラスの北沢流香と岡本和巳は、文化祭の演劇でヒーローとヒロインを演じることに決まっている。二人は演劇部に所属していたので、そこはあっさりと決まった。キャラクターの名前はそのキャストの実名を使う事にもなっている。しかし、それが一体どう関係あるのだろうか。
 もの問いたげな私の視線を無視するかのように、冴島は淡々と続ける。

「ルカとカズミは、初めて出会ったときに、自分の中に、不思議なものが生まれた事に気付くんだ。今までに流れた事のない回路に、電流が流れる。それはごく微量だったが、ロボットには本来必要のないはずの、感情というものの原型だった。
 そして、彼らは逢瀬を重ねるうちに、どんどんと、感情というものを理解していってしまう。
 やがて二人は、自分達の間にあるものが、愛という名のつながりだということを自覚するようになる」

 あらすじを説明する冴島の声は、不思議な響きをもっていた。目の前にその物語が広がってゆくような声。地下特有の音の響きが、その効果に拍車をかけている。
 冴島が話している間、私は脚本を手でもてあそびながら、じっと話を聞いていた。
 「ルカ」や「カズミ」といった文字が目に入ってくる。「サヤコ」や「アサト」もちらちらと見える。相原沙耶子と清水麻人。彼らもメインキャストの中に入っていた。
 まだ名前が入っていない台詞もあるのは、おそらくキャストが決定してから、そのキャストの実名を使うつもりなのだろう。

「けれども、ロボットに感情など不要だ、人間達はそう考えた。
 人間はルカとカズミを引き離し、別々の場所に閉じ込めてしまう。感情を知ったロボットなど、放置しておくのには危険すぎる。彼らは人間とは比較にならない力を持っているわけだからね。
 けれど、彼ら…感情などという複雑なものを理解してしまったロボットの存在は、またある意味で貴重な研究材料だ。だから、ルカとカズミは、それぞれ別の研究室へと引き取られる事になる。
 そして、お互いがそのような運命をたどった事を知らない二人は、相手が自分を助けに来てくれるものだと信じて、ずっと待っている。この脚本に書いた話は、そんなルカの独白から始まるんだ」

「冴島はつまり、この話が…あの少女と少年の像に、あまりにも似ているって言いたいんでしょう?」

 語尾は疑問系だったが、私には確信があった。当たり前だ。誰だって気付くくらいに似ている。似すぎている。
 少女の歌が、頭の中によみがえった。

「……引き離されてしまった私の恋人。早く私を助けに来て。私をここから解放して。」
「たすけて、たすけて、あなたに会いたい。私の恋人……」

 切ない歌声だった。一心に恋人の助けを祈っている声。彼が自分と同じような状態である事も知らずに、ただ祈っている歌姫。

「ルカとカズミは、お互いが囚われていることも知らずに、相手が助けに来るのを待っているんだよ。悲しいすれ違いだ。俺達みたいに、馬鹿馬鹿しい奴じゃなくてな」
「そうね」
 待ちつづけている姫君を、王子様が助けにくる事はない。王子も姫と同じように、囚われているのだから。
 自分を目覚めさせてくれる運命の人を待っていても、彼は永遠にやってこない。彼も同じように眠りつづけているのだから。
 すれ違いは永遠に繰り返される。私たちのすれ違いの比ではない。
 冴島が、くしゃり、と手で自分の前髪をつかんだ。
 一瞬、私から目をそらして、次の言葉を言う。言葉はあまりはっきりとはせず、どこか言い辛そうだった。

「俺がこの話を思いついたのは、H駅の北口と南口に、それぞれ少年と少女の像があるのを見つけたときだったんだ」
「え…」
「だから、ひょっとしたら、こんな事になってしまったのは、俺の作った話のせいなのかもしれない。
 あるんだよ。脚本の中に、ルカの精神世界が、無限の回廊で表されるっていうシーンが。まあ、実際には、舞台上を、うろうろとさまよわせる事になるんだろうけど」
「それじゃあ、この状況は…冴島が作ったの?」

 冗談で考えていた、「クラスメートは魔法使い」が、現実になってしまった。私はそう考えて、少し青くなった。

「作りたくて作ったわけじゃないからな。なんともいえない」
「小説と現実がシンクロしてしまうお話はよくあるものね」

 実際に自分がそんな経験する事になるとは思ってもみなかったけれど。その台詞が喉元まででかかったが、ぐっと抑えた。冴島が悪いわけではないのだから、いたずらに相手を刺激する言葉は避けた方が良い。

「ごめんな、小林。巻き込んだ形になっちまって」
「冴島のせいじゃないでしょ。まあ、誰のせいってこともないんじゃない? 確かに、冴島が書いた脚本が、この現象に関係あるんだろうけど。でも、別にそれは冴島が悪いわけじゃないし。とりあえずさ、脱出の方法を考えない?」

 私はにっこりと笑って見せた。
 遥は微笑むと怖い顔になる、と言われたことがあるので、できるだけ怖くならないように、やわらかく微笑む。それでも唇の端が少し引きつったような気がするが、そこは無視しよう。

「それには一応、心当たりがあるんだ」
「心当たりって、脱出する方法の?」
「ああ」

 驚き安堵しながらも、それならばもう少し早く言ってほしかったなどと考える。
 こんな一種不気味な場所でだらだらと会話しているよりも、一刻も早く地上の空気を吸いたい。ここは何となく息苦しい感じが付きまとうのが嫌だった。地下だからだろうか。

「そのストーリーのラスト。自力で研究室の扉を破って、ルカもカズミも、外界へ出るんだ。そして、青空の下で、お互いの名前を呼ぶ。その声を、ロボットの優れた聴覚を持った二人は聞きつけ、再びめぐり逢う」

 確かに、脚本はそのようなストーリーになっていた。私は冴島の言っていたシーンの文字をなぞってみる。


   ルカ  カズミ…あなたに、会いに行くわ。今度は、自分から。

   カズミ ルカ、必ず君を見つけるよ。必ず。僕が恋というものを忘れてしまわない限り。


「俺達は、あの二人を解放してやればいいわけだ。あいつらが自分の殻を割るきっかけになれば良い」

 冴島は一度言葉をくぎる。まるでテレビがクライマックスの前にコマーシャルを挟んでいるかのように。

「つまり、俺が少女ルカの、お前が少年カズミの名前を呼んでやれば…彼らは待っていた恋人がやってきたと思って、自分から動き出すんじゃないかと思って。それに、本当にこれが、俺の書いた脚本のせいだとしたら、いくらなんでもラストシーンまでたどり着けば、物語は終わるはずだろう。…まあ、作者の勘というやつだけどな」
「そう、かもね」

 冴島は少し自信なさげに笑った。けれど、この場合は作者の意思を尊重しよう。
 確かに、そんな簡単な事で決着がつくのかは怪しいが、私が何か面白い方法を見つけられるわけでもないのだから。
 それに、名前を呼ぶくらいのことで助かるのなら、迷宮の奥深くに眠る財宝を見つけ出すだの、ラスボスを愛の力で倒すだのよりはよっぽど楽で良い。試してみる価値はあるだろう。

「まあ、何をしたってこれ以上、状況が悪化することはないんじゃないかな。やってみようよ」

 あくまでも前向きに、私は言った。

「んじゃ、やってみますか」
「了解です、隊長」
「なんだそりゃ」
「何か冴島の方が立場強そうだから、『こんなヘンテコな場所からさっさと撤収し隊』の隊長。んで、私は一応副隊長ってことで」
「阿呆な事言うなよ…突然」

 あきれかえった口調で言いながらも、冴島はくっくっと笑いをかみころしている。こんな使い古したような冗談で笑ってくれる人がいるなんて、遥ちゃん、感激。

「小林って普段真面目そうなのに、突然そういうこと言い出すからギャップが激しいんだよ。」
「私の頭の中、基本的に一人ボケツッコミの世界よ。普段口に出さないだけで。冴島だって、真面目な顔して妙なこと言い出すじゃない。あれは天然?」
「いいや、ちゃんと計算してやってる。俺の冗談は真顔で言ったほうがうける事は、確率論的に実証済みだ」
「確率論ってねえ」
「どうやって導き出したのか、説明してやろうか」
「いらない」

 どうせ聞いてもわからないし、という言葉は悔しかったので言わずにおく。私はおよそ全ての数学の中で、確率の分野が一番苦手だった。冴島もおそらく、それを知っていて言っている。嫌味だ。

「ま、馬鹿話も確率談義も外へ出てからにしとくか。ちゃんとわかりやすく教えてやるから心配すんな」

 ははは、今度の冴島の笑い声は、何をはばかる事もない大笑いだった。地下通路の中だから、耳をふさぎたくなるほど大きく反響して聞こえる。一瞬だけ、先ほど読んだ文庫本に出てきた、悪役の高笑いに見えたが、それもやはり黙っておこう。



NEXT BACK INDEX










「じゃあ、せーので合わせて、『カズミ』、『ルカ』、な。」

 冴島は『カズミ』の所で私を、『ルカ』の所で自分自身を指差して、言った。

「了解。」

 今度は、『隊長』はつけずにおいた。今更まぜっかえす事もない。
 冴島が息を吸う音が聞こえた。地下だから、かすかな音もこんなに響いて聞こえるのだろうか。

「せーのっ」
「ルカー」

 冴島が声を張り上げる。彼の大声は聞いた事がなかったが、なかなか通りのいい声をしていると思った。

「カズミーっ!」

 私もそれと同時に、精一杯の声で叫んだ。
 口に四本の指が入るように大きく開けて、小学生の頃、音楽の先生に言われた言葉を思い出す。腹筋を使って、姿勢を正す、頭をつられているようにして、中学時代に演劇部で習った事を思い出す。
 あの姫様に、冴島の声は聞こえただろうか。待ちつづけていた姫様に、王子様の声は届いただろうか。
 私の声は、王子様に届いただろうか。姫と同じように囚われていた王子様に、私の呼ぶ声は聞こえただろうか。
 待ちつづけた二人は、相手が自分を助けに来てくれたものだと、信じてくれるだろうか。
 待ちぼうけの姫君と、すれ違いの王子。二人はきちんと出会えるのだろうか。

「ルカーっ…」
「カズミー…」

 声を張り上げて、あの人に届くように。
 しかし、あまりに大きな声を張り上げたせいか、ふっと意識が遠くなり、目の前が真っ白になる。
 頭の中で鳴っているキ――ンという音。南口で「冴島のばかやろー」などと叫んだ時と同じだ。いや、その時よりもひどいか。
 体が、ふらりと前に倒れるのがわかった。
 あ、体勢立て直さなくちゃ、漠然とそう思いながらも、私の体はそのまま、ぐらりと大きく揺れ、そして冷たい床へと倒れこんだ。

 ああ、ごめん、冴島。あんた別にばかやろーじゃないわ。関係のない言葉が頭の中に浮かび、私の意識はそれを最後に、暗転した。



BACK NEXT NOVELS INDEX



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送