あのゆめの事を医師に告げると、はじめての外出許可をくれた。
 "あーや"のことは言っていないけれど、医師はなにもかも承知しているかのような口ぶりだった。正直気に入らなかったが、それでも、外に出られるのは嬉しい。
 念のために車椅子を使って、真っ白い部屋を出ると、そこもやはり真っ白い廊下だった。照明らしきものはないのに、うす明るい。それはどこまでも続いているように見えて、かすかに眩暈がした。

「わたしを、みつけて」
 けれど、その声が今、ぼくを支配していた。"あーや"を見つけだすまでは、部屋にかえりたくない。


 
 白い廊下を、車椅子ですすんでゆく。
 どこまで行っても同じ情景。似たような扉がならんでいる。おそらく、中にはぼくがいたのとまったく変わらない部屋があるのだろう。
 ふと、遠くのほうでピアノの音がした。
 ピアノの音色は不思議だ。ぼくの心のどこかをくすぐってやまない。ぼくはその音に手招きされているかのように、車椅子を進めていった。


 
 背景は真っ白い壁。たったひとつ黒いグランドピアノが映えている。一人の女のひとが、からだを揺らしながらそれを奏でている。風にゆれる花のように不規則なリズムをとって揺れている。鍵盤のうえをおどる指。そこから流れ出るメロディ。上手い演奏なのかどうかはよくわからない。けれど、音にあわせて、長い髪の毛が流れているのは、うつくしかった。ここからでは、その顔は見えない。けれど、その情景にはどこか、ぼくをゆさぶるものがあった。
 ぼくが部屋の中へすすもうとすると、キィと車椅子が鳴って、女の人は手を止めた。同時にメロディも途切れてしまう。

「あら?」
 今まで背をむけていた彼女が振り返った。

 その顔は、ぼくのまったく見たことがない顔だった。
 ぼくは内心がっかりした。彼女が"あーや"であるなどとは思わなかったけれど、せめて、ぼくの記憶の鍵になる存在ではないだろうかと期待していたから。なんといっても、あの医師以外、ぼくがはじめて出会った人間なのだ。

「はじめまして」
「こちらこそ、はじめまして」

 まるでピアノそのもののような声だった。高く澄みわたっている。

「どうしました?」
「いえ……ピアノの音が聞こえたもので、気になって」

 "あーや"のことやシュンジのことは、言う必要もないだろう。
 ぼくがここに来た理由は、ただピアノの音色が美しかった、それだけで充分だ。

「ピアノがお好きなんですか」

 彼女はにこりと笑って、長い髪を手のなかでもてあそんだ。その仕草は、彼女には似つかわしかった。

「ええ、好きです。ピアノの音は透明なので」
「そうですか。わたしは、ピアノの形状が好きなんです。ほら、このあたり。すべやかで、いいと思いません?」

 彼女の白くやわらかそうな手が、黒いピアノのうえに置かれた。白と黒の組み合わせというのは、実によくにあう。

「自分ではお弾きにならないんですか?」
「あ……いや、ぼくはそういうの苦手なんで、やったことはないんですけど」

 そう言った瞬間、彼女の顔がひきつった。と思ったのもつかのま、彼女はあっさりと表情をもどした。ピアノの音色は心地よいと感じたけれど、ぼく自身はまったくふれたことがない。おそらく、シュンジもそうだっただろう。ピアノ教師の親をもっていたのに、シュンジは外で遊んでばかりで、楽器などに興味はもっていないようだった。

「一度弾いてみたらどうかしら」
「え……でも、ぼくは楽器をやったことはないですよ」
「いいのよ、メロディにならなくても。好き勝手に鍵盤をたたいているだけでも、気分がよくなるもの」

 断れそうになかった。彼女はぼくの車椅子を鍵盤の前までおしてゆき、今まで自分が座っていた椅子にぼくをのせた。

「肩の力をぬいて、好きなように弾いてごらんなさい」

 白と黒とがならんでいる。そのいちばん右端の鍵盤に指をのせた。
 ポーン、とひとつ高い音。
 その音を聞いたとき、頭の中がまっしろになった。深呼吸をして、ぼくの手が演奏をはじめる。
 ゆめをみているようだった。どこか、現実感がなかった。
 ぼくの指は、ぼくの手からはなれたように、勝手に動きはじめた。ながれるようにすべる、指。自分のものではないかのように。耳のおくまで、ピアノの音が響いている。聴いたことのない曲のはずなのに、次に出る音がわかる。
 指が、このからだが、覚えている。
 つよく、またよわく、鍵盤をたたく感触を知っている。このメロディを、ぼくのからだが覚えている。ああ、覚えている。流れるままに、指が流れてゆくままに。

「すごい……」

 彼女がつぶやいて、ぼくは我にかえった。自然と手が止まる。

「あら、やめちゃうの?」
「……ぼく、今、弾いてました?」
「ええ、初心者だって言ってたけれど、それ、嘘でしょう? はじめてなら、あんなふうに弾くことはできないとおもうわ」
「でも、ほんとうに、はじめてだったんです。ピアノに触れるのも」

 はじめてだったはずなのに、どうして、どうしてぼくは。自分の指をみつめた。
 ぼくの意識に関係なく、勝手にうごいてしまったこの指。ピアノを弾くことを知っていたこのからだ。まちがいない、この指はピアノの感触を、たしかに、覚えていた。

「……才能っていうのかもしれませんね、そういうの」

 彼女は言ったけれど、ぼくは納得できなかった。覚えているんだ。からだがちゃんと、覚えているんだ。たとえぼくに明確な記憶がなくとも、からだは、たいせつなことをすべて覚えているんだ。いくら、医師がぼくにシュンジの記憶をうえつけたって、それはただの情報にしかならない。





*     *     *






 それからも、"あーや"はゆめの中に現れた。ゆめの中で、ぼくに語りかけてきた。

「わたしをみつけて」

 その言葉に、一体どんな意味があるのか、ぼくにはよくわからなかったけれど。
 けれど、ぼくは"あーや"のゆめが好きだった。何か意味のある会話ができるわけでもない。それでも"あーや"に会えるとおもうと、眠ることがたのしくなった。

 たくさんの"あーや"にかこまれて、ぼくは眠る。
 けれど、今、"あーや"はどこにいるのだろう。そして、こんなにも"あーや"のことを気にかけている、ぼくは誰なのだろう。



 ぼくが"あーや"のゆめに浸っていても、医師の態度は変わらなかった。毎日きまった時間にやってきて、あの石をぼくに手渡しては、少し診察らしきことをして帰ってゆく。
 石を食べるたびに、ぼくはシュンジの記憶をかいま見て、"あーや"の思い出を手に入れる。



 そんなある日。この場所で目覚めてから、幾日がすぎたのかもはやわからないある日。何回"あーや"のゆめをみたのか、もはやわからなくなってしまった、ある日。"あーや"のゆめに変化がおとずれた。
 今日は"あーや"、ひとりが部屋の中にいた。
 ぼくのほうをその大きな瞳でみつめている。なにか言いたそうな表情。

「――――― 。」

「"あーや"? きみは、いったい誰なんだ?」
「わたしを、さがして。わたしをみつけだして」
 ぼくは"あーや"に引きよせられるように、近づいてゆく。
 "あーや"、きみはいったい、だれなんだ。どうして、ぼくはシュンジじゃないのに、ぼくに近づいてくるんだ。 そう、ぼくはシュンジじゃない。"あーや"なんて知らない。そのはずなのに。なのにどうしてこうも、きみのことばかりが気になるのか。
 "あーや"のほうも、ぼくへと近づいてくる。ゆらゆらと浮かびながら、ぼくの方へとその手をのばしてくる。一般的には、今の"あーや"のことを幽霊というのだろう。けれど、怖くはなかった。

「そして……わすれないで」

 ぼくの首に、"あーや"の腕がまきつく。そのまま抱きしめられる。
 "あーや"には実体がない、ふれることはできない。ゆめの中の存在だから。でも、"あーや"。目の前にいる彼女が、どこかに存在していることを、信じたかった。

「わたしのことを、わすれないで」

 首に重みを感じる。
 "あーや"。彼女の顔が近づいてきて、ぼくにその唇をよせてきた。そのやわらかさを感じることはできないけれど、ぼくにはわかった。いとしい"あーや"の感触。
 ぼくは彼女を抱きしめようとして、腕をまわし……しかし、ぼくがしっかりと彼女を抱くまえに、"あーや"はするりとぬけて消えてしまった。ぼくが抱きしめたのは。自分の肩。自分のからだのぬくもりに少しおどろく。

「わたしを、さがして。みつけて。わすれないで。だきしめて」
「おねがいみつけて。わたしをみつけだして」


 "あーや"、きみは、どこにいる?




 からだを起こすと、首になにか巻きついているような感触があった。なにか細長いものがかかっているような。
 ぼくはゆっくりと、手を首にはわせた。
 ペンダント、だろうか。
 服のなかにかくれていた、飾りをひきだす。それは、あの石とよく似た、薄桃色の水晶だった。手で表面をなぞると、なめらかなそれが、"あーや"の肌をおもいださせた。ふれたことがないのに、知っている、"あーや"のすべやかな肌。そのぬくもり。
 ゆめのなかの"あーや"は、これを届けに来てくれたのだろうか。それとも、これ自体が、"あーや"の分身なのだろうか。愛すべきひと。
 桃色がかったその石に、そっとキスをする。
 そのとき、ぼくのなかに、あの情景がうかんだ。細かい石でできた池。さらさらと流れる水晶の池。たったひとつぼくに残された記憶。

 ――きみたちが、いつかこのことを思い出せるように。

 ああ、この石を、ぼくは知っている。
 あの日あの時、ぼくはこの石を受けとったんだ。池の中からすくいとった、ぼくだけの記憶石。今までどうして忘れていたんだろう。医師から与えられたものではない。今、ぼくの手の中にある石こそが、ぼくの記憶をひらいてくれる鍵。
 ペンダントトップの石は、簡単にはずれるようになっていた。
 ぼくはしばらく、石を手のなかでもてあそび、それから瞳をとじて、ゆっくりと口を近づけて、かじりついた。口のなかで、記憶が噛み砕かれて。そして。



 ぼくだけの記憶。
 ぼくがこの手の中から、とりこぼしてしまった記憶。"あーや"の記憶。



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