*記憶石*



  降り積もる。記憶がわたしに降り積もる。
  降り積もる。呼吸がわたしに降り積もる。
  楽しい事も嬉しい事も何もかも。ただ無機質な水晶になって。
  いのちの鼓動も涙も何もかも。ただ無機質に降り積もる。
  あなたの記憶が降り積もり。わたしの呼吸が降り積もる。
 
 さよなら、そんな風に聞こえた気がした。





*     *     *






 まぶたをひらくと、真っ白い天井がぼくの目をつきさした。
 無機質な蛍光灯は好きじゃない。けれど、なんの灯もないのに奇妙に明るいこの部屋は、もっと好きじゃない。
 いかにもおっくうそうに見えるよう、ゆっくり身体を起こすと、すかさず医師が歩み寄ってきた。医者のくせに、不健康そうな白い肌をしている。この人はずっと病室の中にいて、陽にあたることなんてないんじゃないかと思う。白は嫌いだ、ぼくは毒づいた。

「タカサキ・シュンジくん」

 いつものように、医師はその名前を口にする。ためらいなどは微塵もない。ぼくが未だ、その名を認められずにいることは、知っているはずなのに。
 ぼくがおし黙ったままでいると、医師はくりかえした。

「タカサキ・シュンジくん」

 抑揚すらも先ほどと同じに。ベッドのかたわらに立ち、あからさまに僕の返事を待ってみせる。
 この人のやり方はいつもこうだ。いちばん効率よく、ぼくを思いどおりにする方法を知っている。

「タカサキ・シュンジくん」

 これで三度目。毎日この声にあらがおうとしているのに、ぼくは結局こたえてしまう。くりかえされる、ルーティン・ワーク。昨日と寸分たがわない医師の声。そして、ぼくの声。

「……なんですか?」

 返事をしなかったところで、どうにもならない。ぼくが何をしたって、医師はその名を呼びつづけるのだろう。時間感覚などすでに忘れてしまったかのように。鳴りやまない目覚し時計、電池切れすらもない。けれど、時計がいざなう現実は、悪夢。
 反抗など無意味。ぼくはそれを知っている。
 医師の表情はかわらない。満足そうな表情など、かけらも見せやしなかった。ただ、いつものように

「薬の時間です」

 と言って、薬瓶のなかのものを取り出した。素直にそれをうけとる。
 透明なそれは、ぼくの手の中にもすっぽりと入ってしまうほどの大きさで、けれどずっしりと重い。まるで水晶のような柱状、握りしめるとその角が肌にくいこんで、痛い。水晶ごしの光は、ときどきあらぬ色に見えて、ぼくは一瞬、幻惑されてしまいそうになった。けれど、これは薬なんかじゃない。今までのぼくを、すこしずつ、そぎおとしてゆくものなのだ。
 それでもぼくは、透明な石に歯をたてた。
 粉末状にしたものも、液状にしたものも試してみたけれど、ぼくにはこの食べ方が一番合っているようだった。それを知ったとき、医師はめずらしく笑ったものだった。「石のままがいいだなんて、変わってるね」と。

「シュンジくんらしいよ。昔から、変わり者だって言われてた」
「別に変わってなんていませんよ。液状のはべたつくし、粉末だといつまでも口の中に残る」

 それだけじゃない。大きな石のままで食べるのは、自衛のためだ。薬の効果を最小限におさえるためなのだ。
 ぼくは、ぼくじゃないにんげんになんて、なりたくない。


 
 カリ…………。
 舌にざらつく食感がはしる。途端に、目の前に現れては消えてゆく、情景。

 泣き叫んでいる"母親"と、真っ白い顔をした"父親"。
 それに、"あーや"。泣いている。白いワンピースを濡らしながら、泣いている。
 もはや動かない、その腕の中のぬいぐるみ。
 ひとつひとつが、アップになって、すぐに場面が変わる。
 そして、"哀しみ"の感覚。"喪失感"。
 何がかなしいというわけではない、ただ、かなしいという感覚がぼくをおそう。
 これはけっしてぼくの感覚ではないのだと念じてみても、ただ、かなしいという感覚は消えない。
 加工されていない、生のままの哀しみ。ひとつの感情でしかないかなしみは、防ぐことができない。
 あふれる情景からは、目をつぶることができるにしても。



 かなしみ。さびしさ。おどろき。あきらめ。むねにぽっかりとあながあいたようなきもち。
 ぼくの感情ではないはずの、それ。



 必死で目を閉じて、ぼくはその情景からのがれた。タカサキ・シュンジのかなしみから、のがれた。
 けれど、いつのまにか、その中にひたりきってしまったらしい。目を開けたとき、大粒の涙がこぼれおちた。本当ならシュンジが流すはずの涙。頬にはしったすじに、つめたい風を感じる。あの石と同じ、透明ないろ。


 
「どうだい、シュンジくん、何が見えた?」
「……」

 答えない。

「何が、見えた?」医師はふたたび問うた。
「……シュンジの、"かなしい"という感覚です」
「それだけ?」
「それだけです」
「どうして、きみは悲しかったんだい?」
「シュンジのことなんて、知りません」

 医師はためいきをついてみせた。ぼくはけっして、この石から得た情報について口をわらない。それが、ぼくがぼくでありつづけるための、ひとつの手段なのだ。

「きみもまったく、強情な患者だね」

 言いながら、医師はぼくの頭に、電極をとりつける。ぼくは目を閉じて、ふたたび石をかじった。情報の奔流が、ぼくをおそう。
 そう、これもまた、ルーティン・ワーク。





*     *     *






 シュンジの話を、しておこうかと思う。
 もちろん、ぼくについて話したっていい。けれど、ぼくがぼくについて知っていることといえば、数ヶ月前にこの部屋で目をさましたということと、いっさいの記憶を失っているらしいということ。そして、医師はぼくをタカサキ・シュンジというひとりの少年にしたてあげたがっているということくらいだ。
 あの石、ぼくが毎日、薬として口にしているあの石には、どうやらタカサキ・シュンジの記憶が封じこめられているらしい。あの透明な石を食べると、ぼくの中に、シュンジの記憶がよみがえるのだ。ぼくは、その記憶を自分のものであるとは思えずにいるのだけれど、どうしても医師はぼくをシュンジにしたいらしい。けれど、そのおかげで、タカサキ・シュンジが一体どんな人間なのか、それだけはあるていど理解できた。



 タカサキ・シュンジ。十七歳。性別は男。絵本画家の父と、ピアノ教師の母のあいだに生まれる。
 まったくの健康体。よく遊び、よく食べ、よく眠る。遊んでいるときの情景は、石によって何度かみた。よっぽど楽しかったらしい。どんぐりやなにかの実をなげあったり、芝生のうえでころげまわったり。いまどき、これだけ自然がのこっているなんてめずらしいのよ、シュンジの母親はいっていた。勉強は苦手だったけれど、理科だけはすきだったようだ。シュンジがはじめて顕微鏡をつかった感動は、ぼくにもリアルにつたわってきた。
 順調に育っていったが、十歳のとき、交通事故で父を失う。母とシュンジ自身も同乗していたが、命に別状はなかった。
 ただし、その事故にあったのは、シュンジの家族だけではなかった。

 "あーや"。シュンジの幼なじみで、母にピアノを習っていた少女。二歳下。大きな瞳と、女の子にしてははっきりとしたまゆげが特徴的な顔立ち。背は比較的小さくて、そういうところもシュンジはかわいいと思っていたらしい。ピアノの腕前は、少なくともシュンジが聴いたところによると、上手かった。あんなに小さな手でどうやって弾いていたのか、と思っていた。
 彼女の名前を頭に浮かべるときにだけ、なぜかぼくの心臓が、なる。
 シュンジの記憶には、まったく実感がないのに、なぜか、"あーや"。彼女の名は特別なものにおもえる。
 "あーや"は事故のとき、車の中にいた。父親は死んだ。母親とシュンジは生き残った。
 けれど、彼女がはたしてどうなったのか、それだけはどうしてもみることができなかった。"あーや"。おそらくは、シュンジがもっとも大切におもっていた、幼なじみ。



 事故のあとのシュンジは、まったく人が変わってしまったかのようだった。
 それまでのように、気軽に外へ出ることをしなくなったし、学校にもいかなくなった。
 ぼくの目に映ったシュンジの記憶は、いつもいつも、自分の部屋の天井ばかり。寝そべっているベッドのやわらかさと、あたたかさ。なのにシュンジの心は、けっして溶けることがなく。寝ても覚めても、思うことはただひとつ、"あーや"のこと。
 正直な話、ぼくはこの時期のシュンジを追体験するのが、嫌でしかたがなかった。ぼくは、シュンジのような人間が苦手なのだ。たったひとつの過去にとらわれて繪A涙を流す、それだけで毎日が過ぎてしまう。そんなのはごめんだ。たとえどれだけ、"あーや"が彼にとって大切な存在であったとしても。

 悲しいばかりの記憶を、ぼくに見せつけなくともいいのに。



 医師ははじめて目を開けたぼくに、タカサキ・シュンジと呼びかけた。けれども、ぼくはその名を知らなかった。
 ぼくは自殺をはかり、危ないところでここに運びこまれたのだという。
 けれども、ぼくにはそんなことをした覚えがまるでなかった。それどころか、いっさいの記憶がなかった。そもそも、過去という概念を知らなかった。あの石を受けとるまで、ぼくが見ていたのは、今という瞬間だけだった。瞬間と瞬間を結びつけるすべを、ぼくは持たず、ただその時を生きていた。

 いや、ちがう。
 記憶という言葉を聞いたとき、たったひとつ、ぼくの中によみがえってくる情景がある。あまりにも非現実的な空想が、ひとつだけ。



 背景は闇。真っ暗な中、ほのかに光るものが、ゆらゆらと飛んでいる。どこからか水音が聞こえる。
 手探りでそのなかを進んでゆくと、先ほどの光るものに照らされて、大きな池がある。
 水面はぼんやりとした光を鋭角的に反射し、ときどき、驚くほど強くぼくを射る。攻撃の手をゆるめない光に臆しそうになりながらも、水面を見つめると、さまざまな情景がうつっては消えていく。その情景の合間をぬって、金色の魚が泳いでいる。水をうちならして、跳ねる。
 ぼくは水面に自分の顔をうつそうとするのだけれど、どうしても見ることができない。どれだけ目をこらしても。
 一瞬見えそうにはなるのに、そのたびに金色の魚が水面をゆらしてしまう。ぼくは悔しまぎれに水の中へ手を入れる。
 しかしその手をつつんだ感触は、水のものではない。水と同じように冷たいけれど、液体のそれではない。すくいとってみると、たしかにそれは細かな石だった。水晶、医師の与えるあの水晶とも酷似した形状。どこまでも透きとおった、手ざわりのよい石。この池はどうやら、この石でできているらしい。

「きみたちが、今日のことを忘れてしまわぬように…………」
 そして、誰かの声がする。手のなかで、透明な石がなにかを映しだしている。

「きみたちが、たいせつなことを覚えていられるように……ちょっとしたおまじないだよ」
 ――ちょっとしたおまじないだよ……。





*     *     *






 ぼくがここでしていることといったら、眠ることと、シュンジの記憶をたぐること、それくらいだ。
 一日のほとんどを寝てすごすか、そうでなくても、眠っているのと同然の状態ですごしている。この部屋には、ほかにできそうなことが何一つないのだ。せめてこの真っ白い壁に、なにか模様でもあれば、気をまぎらわすこともできるのに。この部屋は無機質すぎる。語りかけてきてくれるものがない。花すらも置かれていない。
 こういうとき、普通ならば、何か考えごとをしてすごすのだと、ぼくは知っている。けれど、そのために必要な材料というものを、持っていない。シュンジの記憶は、ぼくの記憶ではないのだ。
 ぼくは一体誰なのだろうか、疑問に思うことはある。医師の言っているとおり、ぼくはタカサキ・シュンジであるのか。それとも、ほかの誰かなのか。考えれば考えるほどにわからなくなる。ぼくはシュンジではないはずだ。シュンジという名前で呼ばれることを、この身体が拒否している。でも、おそらく、他の誰であると言われても同じことだろう。一体何が正しいのか、ぼくはシュンジではないというこの身体を信じればいいのか、医師の言葉を認めてしまえば楽になるのか、それとも、ぼくはぼくであると言い切ってしまうのか。
 ぼくにはまだ、それを言えるだけの、記憶のつみかさねがない。
 考えていても、結局いつも堂々めぐりで。だからぼくはいつも眠っている。



 このところ、奇妙なゆめを見る。"あーや"のゆめだ。
 部屋の壁から、次々に"あーや"が顔を出して、ぼくをとりかこむ。そして、口々に言うのだ。

「わたしをみつけて……」   「私を見つけて……」「わたしを見つけて……」
    「私をみつけて」「わたしを見つけて………」     「ワタシヲミツケテ……」
   「わたしを見つけて」     「…ワタシを見つけて…」

 それは、一見まともな夢のようで、でもやっぱり奇妙なゆめだった。ゆめなのだから、奇妙なのは当たり前だ。けれども、なんの意図も仕掛けもなしに、こんなゆめを続けて見るだろうか。それに、ゆめだとしたら、"あーや"は一体いつの間に、ぼくの中に巣食っていたのだろう。彼女は、シュンジの記憶のなかの、登場人物にすぎないはずだった。ぼくにとっては何の関係もないひと。なのに、どうしてこんなに、彼女が気になるのだろう。
 長い髪、白く細い腕。ぼくの方へのびてきて、からみつく。
 耳元でかさなりあう声。うつくしい調べ。



「わたしをみつけて……」   「どうか見つけて」「私を見つけて……」「わたしを見つけて……」
    「私をみつけて」「わたしを見つけて………」   「……私を」  「ワタシヲミツケテ……」
   「わたしを見つけて」     「…ワタシを見つけて…」
「みつけて」    「みつけてわたしを」 「私」        「私をみつけて」



 ぼくは彼女のことを、なにひとつ知らないはずなのに。



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