まっ暗い森のなかを、だいすきなひとの手をとって歩いていた。森の木々が、はげしい風で揺れていて、少し怖かった。どこかの童話で読んだ、夜の森にでてくるおばけ。昼間はおだやかな時間をあたえる緑の樹が、月光をあびて豹変する。こどもをたべようと追ってくる。怖かった。けれど、つないだ手があたたかかったから。
「ねえ、ここ……」
「だいじょうぶ。ぼくがまもってあげるから」
そんな会話をかわしながら、歩みをすすめる。あのこのぬくもりが、歩く力になっていた。
どれだけ歩いただろう。遠くのほうに、ぼんやりとしたあかりが見えた。あそこまで行けばひょっとしたら休めるかもしれない。頭のなかに、こどもを手招きする悪い魔女のすがたが浮かんだけれど、それは振りはらって。
けれど、あかりがついていると思ったのは、山小屋などではなく、ひとつの池だった。池のまわりには、なにか明るくて、ふわふわとしたものが飛び回っている。このせいで、池が明るく見えたらしい。失望のいろを顔にださないようにして、つないだ手を強くにぎる。むこうも握りかえしてきてくれる。一瞬、気持ちがかよう。
ふたりは、手をつないだまま、慎重に池へと近づいてゆく。ちょうど、歩きつかれて喉がかわいていたところだった。この水をのみたい。
水面は光を強くはねかえす。反射光で射られた目がいたかった。涙がでそうになるけれど、あのこの姿を見て、がまんした。ぴしゃり、音をたてて魚が跳ねる。尻尾を水面にたたきつけて、金色の魚が跳ねる。一匹また一匹。その度に波紋ができる。ひとつ、またひとつ。
水の中をのぞきこんだ。そこには見慣れた自分の顔ではなく、どこかの風景が映っていた。
電信柱をつかってだるまさんころんだをしている子供達や、けんかしている高校生、どこともつかない砂漠、泣き暮らしている少年、パーティで莫迦騒ぎをするひとびとに、見たことのない国の町並み。うつしだされるものは、次々に変わってゆく。流れるようにかき消えては、また現れる。ゆらゆらと揺らぎながら消えてゆく。
そして、金色の魚がおよいで、さらに水面をゆらす。魚がはねるたび、あっという間に水面にうつっていたものは崩れてしまう。かきみだされて、よく見えないうちに変化してしまう。そんなことが、はてなく広がった水面のそこらじゅうで起こっている。
その光景に圧倒されて、しばし呆然としていた。
「……すごいね」
「すごいところだね」
もはや、怖いなどと考えている場合ではなかった。この池にみせられて、恐怖などはどこかに飛んでいってしまった。
膝をまげて座りこむ。手を水のなかへ差しいれ、両手をあわせ、水をすくおうとする。
きらきらとしたものが、持ちあげた手の中からこぼれた。その感触は、水ではなかった。水ではなく、たくさんの硬いもの。水晶のような、透明な鉱物だった。けれど、手のなかにあるそれは、まるで水のようにさらさらと揺れている。池の水面と同じように、さまざまな情景をうつしだしては、消える。
たくさんの石のなかから、一番大きなひとかけらをつまみだす。すかしてみると、まめつぶのような人たちがたくさん見えた。その向こうがわからは透きとおった光が差しこんでくる。見たこともないくらい綺麗な石だった。母親が持っていた水晶も、これほど美しくはなかったかもしれない。
「……きれいだね」
隣でも、おなじようにその石に見入っている。喉のかわきも、全身の疲れも、何もかも忘れさせてくれるような、きれいなきれいな石。でも、これはいったいなんだろう。
「記憶石、僕らはそう呼んでいるよ」
背後から答えるものがあった。思わず顔を見あわせて、お互いに今の声が自分でないことを確認する。それから、おそるおそると振り返ってみる。と。そこには、黒づくめの青年がひとり、たたずんでいた。衣装は夜の闇になじんで、輪郭をあいまいにしている。全身の凛としたイメージと異なって、その顔つきはあくまでも柔和だった。
「おにいさん……だれ?」
「ここの住人だよ。この水場をみまもるために、ずっとここに住んでいるんだ」
青年はにこやかに笑うと、ふたりの手をとった。
「見てごらん。たくさんのものたちがうごめいている。この石のひとつひとつに、だれかの記憶が封じこめられているんだ。ひとコマひとコマの記憶が、そうだね、記憶が結晶化したものとでも言おうか。だから、僕らはこれを、記憶石と呼んでいる」
「記憶、石……」
そのとおりに口を動かしてみると、それは思いのほか涼やかな音色をしている。
「全てのひとの記憶は、いちど、ここにやってくる。そして、ここで結晶となり、また主人のもとへ帰ってゆくんだ。けれど、この石は思っているよりももろいから、ほら、あの魚。あの魚がすこし飛び跳ねるだけでも、ゆらいで、壊れてしまう。ほら、こんな風にね」
青年は、石のひとつをすくいとると、手に力をこめた。石はあっけなく割れて、ざらざらとした粉になってしまった。
「だから、ひとはものごとを、簡単に忘れてしまえるんだよ」
「忘れたくないことがあっても?」
「そう、忘れてしまう。この石が壊れてしまえば、その記憶はどこにもなくなってしまう。壊れなくとも、これだけの石が一緒に流れているのだから、傷つくこともあるし、不透明になることもある。けれどね、記憶って、そういうものなんだよ。もしも壊れないものならば、こんなにきれいな石にはなれない」
「……?」
「ちょっと、むずかしかったかな」
青年は苦笑した。よくわからなかったけれど……。隣を見た。もしも、この石が壊れてしまったら、今隣にいる、いとしいひとのことも、簡単に忘れてしまうのだろうか。こちらを目も、不安そうにゆらいでいた。
「だいじょうぶだよ。ほんとうに大事なことなら、きっと忘れはしない。
……そうだ、きみたちに、ひとつ贈り物をしようか」
青年は、ふたりの手にひとつずつ、石をにぎらせた。比較的大きな、けれど、こどもの手の中にもすっぽりつつまれてしまうほどの、記憶石。すかしてみると、暗い中では見づらかったけれど、どこかしら桃色ががっているようだった。
「きみたちが、今日のことを忘れてしまわぬように。きみたちが、たいせつなことを覚えていられるように。きみたちが、いつかこのことを思い出せるように。」
その声は、魔法使いの呪文のように響いて。
「ちょっとしたおまじないだよ…………」
青年は、その後、暖炉のある小屋で、あたたかいミルクとクッキーとをごちそうしてくれた。
帰り道がわからなくなった、と告げると、不思議な青年は、すぐに道をおしえてくれた。あの池から流れ出ている川の下流に歩いてゆけば、そのうち街にでられると言った。
「けれどね、絶対に、上流へ向かってはいけないよ。むこうには、ぼくらにとって、いや、きみたちにとっても、大事なものがあるんだ。それをけがすようなことをしたら、きみたちに何が起こるかわからないからね」
反対に行ってはいけない。そう言ったときの青年の表情はとても真剣で、かならず守ろうと思ったけれど、向こう側になにがあるのか、それはたしかに気になった。
青年は、途中まで見送りに来てくれた。
「あのう……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なんなりと。」
「どうして、ぼくたちは、こんな場所に迷い込んだんですか?」
「……何事にも、必然性はあるんだよ。僕みたいな未熟者では、まだわからないことのほうが多いけれどね。でも、ひとつだけわかるよ。君たちは、ずっと、運命をともにする仲間だ」
運命をともにする仲間。その言葉が、妙に心に引っかかっていた。
さっきと同じように、道を歩いた。けれど、今度はやみくもにじゃない。こちらへゆけば、かならず家に帰れるという道を歩いていた。少し、強気になっていた。
「ねえ……」
「なに?」
「さっきのお兄さんがいっていたこと。向こうへ行っちゃいけないって。でも、行ってみたいと思わない?」
「だめだよ、せっかく家に帰れることになったのに。これ以上怖い目にあうのは嫌だよ」
「大丈夫だよ。だって、もう帰り道はわかってるんだよ。この道をまっすぐに行けばいいんだ。だったら、ちょっとくらい寄り道したっていいよ」
「でも、たいていのお話じゃ、行っちゃいけないところに行くと、怖い目にあうじゃないか」
「けど、それで帰ってこられるお話もあるよ。ねえ、見に行こうよ」
足をとめて、しばらく、けんかのように討論した。けれど、そのあいだも、手は離さないままだった。
結局、折れた。強情にはかなわなかった。ひきかえして、青年が行ってはいけないと示した方向へむかった。目指すは、川の上流。青年の言った、大事なものがある場所。
何度かめげそうになりながら、歩きつづけた。森の木々はやはりおどろおどろしかったし、夜風は冷たかったけれど、からだは不思議とあたたかかった。つないだ手は、なおさら。
川にそって歩き続けて、急に、ひらけた場所にでた。そこは、どこか荘厳な空気すらも感じさせるような場所だったが。
「ひっ……」
思わず、声をあげた。
ひとつの巨大な首が地面からはえていた。
闇の中、白く浮かび上がっているそれは、女の人の首のようだった。根元には、横たわって眠っている、たくさんの人間たち。その頭には、首の女の髪が巻きついていた。人々は死んだように眠っていて、ぴくりとも動かない。
大きな彼女は目を閉じて泣いていた。長いまつげを濡らしながら、涙をぽろぽろとこぼしていた。女が呼吸をするのにあわせて、次々と涙はこぼれ出た。そしてその涙は、頬をすべりおちるあいだに、細かな水晶の粒となり、それがだんだん大きくなって、やがて、ふたりでたどってきた川へと流れこんでいた。きらきらと、川。水晶の涙が流れていた。
「あ……あ………………」
たいせつなひとの手をにぎりしめた。いつも力を与えてくれるあたたかい手をにぎった。そうしないと、怖くてたまらなかった。泣いている女は、むしろやさしい顔をしていた。なのに、怖くてしかたがなかった。もしも彼女が目を開いたならば。想像するだけでおそろしかった。
来てはいけない場所に踏みこんでしまったと思った。怖かった。一刻もはやく、ここから逃げ出したかった。けれど、足は凍り付いてしまったかのように動かない。もっともっと、つよく手をにぎった。
怖い、怖い。怖いよ、ねえ怖いよ。
恐怖をおさえきれず、隣にいるたいせつな人の名を叫んだ。お守りのような名前を、力の限り叫んだ。
「シュンジぃ―――――っ!!」
"あーや"が、ぼくの名前を、呼んだ。
* * *
今のは、誰の声だった?
我にかえったぼくが思ったのは、まずそのことだった。ぼくの記憶にまちがいがなければ、今のは確かに、あーやの声だった。でも、今ぼくは、あーやの名を叫ぶつもりだったのだ。だって、ぼくの一番たいせつなひとは、あーやで。
それじゃあ、今のは一体?
ぼくの口から出た、"あーや"の声。"シュンジ"の名前。
瞬間的に、あることに思い至った。それを、確かめるためには……。
翌日、いつものように医師がたずねてきた。ぼくは、もう与えられた石を口にいれることもしなかった。
「今日はどうしたんだい、シュンジくん。ちっとも食べようとしないじゃないか」
「……お願いがあるんです」
医師は片眉をあげた。少しなりとも医師が驚きの表情を見せたのは、これがはじめてだった。
「鏡を貸していただきたいんです」
「鏡、ね……」
何かを考え込んでいるようだった。親指で顎のあたりをかいている。こんな動作を見るのもはじめてだ。ああ、ひょとしたら今日こそは、ルーティンから逃れることができるのかもしれない。
「鏡なら、この部屋から出て少しのところに、大きな姿見がある。どれ、私が連れていってあげようか」
「よろしくお願いします」
ほんとうはひとりで行きたかった。けれど、ずっとベッドの上で横になっていたせいか、ほかの原因なのか、ぼくの足はまだよく動かない。車椅子を使うのなら、しかたがなかった。
「それじゃあ、準備をしてこよう」
「はい」
この部屋での日々すべてに決着をつけるときが、近づいていた。
角をまがった瞬間に、大きな鏡にでくわした。全身がうつるようになった姿見。
そのなかには、武骨な車椅子と、それを押す医師。そして、車椅子に座った、"あーや"がいた。大きな瞳、少し気の強そうな眉、しっかりした口元。すべて、ぼくがゆめの中で見つづけた"あーや"そのものだった。
「……会いたかったよ、あーや」
ぼくと同じように口をうごかす"あーや"が、いとおしい。ぼくは、"あーや"と手を合わせた。そしてそのまま、鏡の向こうの彼女に口づけた。どれだけ、ぼくがこの日を待っていたことか。そしてシュンジが一体どれだけ、この日を待っていたことか。生きて動いている"あーや"を、もういちど目にする日を。
あーや、あーや。やっと、きみに会えた。ごめんね、ずっとひとりにしてて。だけど、僕もここに来たよ。
「本当に、会いたかったよ」
「……シュンジくん、きみは、アヤコくんではないんだよ」
医師が背後から、ぼくに話しかけてきた。せっかくの再会なのだから、水をささなくともいいだろうに。それに。
「いくらなんでもわかってますよ。ぼくにだって、ぼくが"あーや"ではないことくらい。だけど、ぼくはもう、"シュンジ"でもないんだ」
ぼくは、鏡ごしに、医師の瞳をまっすぐ見つめた。もう気圧されることがないように。ぼくはもう、ひとつの答えを手に入れているのだ。
「詳しい経過は知りません。いったい、あのころのあーやがどんな病状だったのか、シュンジがどんな風にして死にかけたのか。けれど、ほかならぬぼくのことです。大体、予想はつきました。脳を破損したあーやと、肉体をだめにしたシュンジ。
……あなたたちは、シュンジの脳を、あーやの体に、移植したんですね」
「きみの母親の頼みだったよ。どのみち、アヤコくんの脳もどんどんと後退していてね、このままでは最低限、体の生命維持も不可能になるところだった」
「なにも、ぼくは、あなたたちのした事を責めてるわけじゃありませんよ。手術がなかったら、ぼくはいま、ここにはいないんですから」
あーや。シュンジ。お願いだ、ぼくに力をわけて。
「ひとつだけ、認めてください。ぼくはぼくです。シュンジともあーやでもないんです。たしかに、シュンジの脳とあーやの体を持っているかもしれないけれど、ぼくはぼくなんです」
「きみはタカサキ・シュンジだよ。たとえ入れ物がちがっても」
予想はしていた。医師はおそらく、ぼくをタカサキ・シュンジだと言い張るだろうと。ぼくの思考している脳が、シュンジのものであるがゆえに、ぼくはタカサキ・シュンジ本人なのだと。けれど、ぼくはもう気付いてしまった。ぼくは、正確にはシュンジと違う人間であることに。
「シュンジも、あーやも、たしかにぼくの中に生きています。ぼくの思考のベースは、シュンジのものでしょう。ぼくがこうして話している、その語彙はおそらく、シュンジから来ています。けれど。
ぼくは、ピアノを弾きました。いいですか、楽器のたぐいにふれたことのないはずのシュンジは、ピアノなんて弾けるはずがないんです。なのに、ぼくはピアノを弾きました。しかも、自画自賛に聞こえるかもしれませんけど、相当なレベルのものでした。この指が、勝手に動いたんです。あーやの指が、ちゃんと音楽を、覚えていたんです。今のぼくのからだ、すみずみにあーやが息づいているんです」
だからこそ、ぼくのからだはあのとき、シュンジの名を呼んだ。
あーや。きみの体に、たしかにまだきみを感じている。指の先、その細胞ひとつひとつに、きみがあふれている。
胸に手を当てるとわかる、この力強い鼓動は、きみのものだ。きみが、いまも生きているその証だよ。シュンジだってきっとそう思ってる。ぼくもシュンジも、きみのおかげで生かされているし、……きみ自身も、シュンジの脳によって生かされている。そして、ぼくは。
ぼくは、シュンジでもあり、あーやでもあり、けれど、ふたり合わさっただけとはまったく違う人間なんだ。だから、ぼくはぼくだと、胸を張って言うよ。今なら、言えるよ。ねえ、あーや。ねえ、シュンジ。世界中のだれよりも、いとおしいひと。
「シュンジくん……」
医師が手を伸ばしてくる。ぼくはその手をふりはらった。
「もう、その名前では呼ばないで下さい。ぼくはぼくになったんです。もう、昔のシュンジでありつづけることは、できません」
「君も、相当に頑固な患者だね。けれどね、シュンジくん……」
その言葉をきいた瞬間、ぼくは車椅子を自らターンさせて、そのまま医師に体当りした。もう、ぼくをシュンジなどとは呼ばせない。
がっ、と音がして、医師はその場に倒れこむ。今がチャンスだ。ぼくは懸命に起き上がろうとしている医師を残して、車椅子を走らせた。全力でこげば、走るよりも車椅子の方が速い。起き上がってこないうちに、差をつけるんだ。そして、逃げ切ってみせる。
「まて……待つんだ! タカサキ・シュンジ!」
待つことなんてできない。ぼくはもう決めた。こんな場所からは逃げ出してやる。
同じようなドアばかりがならぶ廊下を、必死で走ってゆく。出口は必ず、どこかにあるはずだ。この長い廊下の果てには、かならずあるはずなんだ。外へでたい。こんな場所じゃなくて、青空の下で、あーやを駆けまわらせてあげたい。シュンジに森の空気をすわせてやりたい。
それに、あーや、きみの記憶をとりもどしたい。この体があるかぎり、きみは失われはしないけれど、でも、シュンジと同じように、きみの記憶もぼくはもっていたい。たいせつな人たちの記憶は、この手のなかに握り締めていたい。あそこ、あの池があった場所。あの森のなかへゆけば、きっと、あーやの記憶も見つかるはずだ。どうやって行くのかもわからない場所だけど、それでも、いつか。
そんなことを考えながら、車椅子を走らせた。
ぼくたちは、いつまでも一緒だ。シュンジ、あーや。きみたちは、どこまでも一緒だ。もう、離れてしまうことも、お互いを忘れてしまうこともない。ふと、頭のなかに、真っ白いあーやの顔が浮かんだ。体中に奇妙なケーブルをとりつけられて、かろうじて呼吸だけはしている。それをガラス越しにみつめているのが、シュンジ。これは、シュンジの中に残っていた記憶だろうか。
走れ、走るんだ。そして、見つけるんだ。この白い空間からの出口を。
ぼくらはかならず見つけ出すんだ。あーやの記憶。思い出。すべてを。
ゆめの中で、約束したね。かならずあーやを見つけ出すって。きみのからだは見つけたけれど、まだ、見つけてないものがたくさんあるよ。それにシュンジ、まだぼくの知らない、きみの記憶も、ぼくがかならず見つけ出す。そして、きみのもとへと届けるよ。
ぼく自身の記憶は、これからつくってゆく。ぼくはまだ生まれたばかりなんだ。シュンジ、あーや、手伝ってくれるよね。そのためにも、ここから出なくちゃならない。出口は、どこだ? ふつふつとみなぎってくる闘争心。大丈夫、今ならきっと空も飛べる。
目の前に大きな扉があった。ぼくは車椅子の勢いのまま、それを開け放した。
風が吹いていた。
大気が動いているのを、ぼくははじめて感じた。空は本当に青かった。あまりに強い青が、目を突き刺して、自然と涙がにじんできた。出口はここだった。
ひとつ、大きく深呼吸する。胸いっぱいに、外の空気がはいってくる。これがほんとうの呼吸。これが、空の味。シュンジやあーやにしてみれば当然のことが、ぼくにとってははじめてのことばかりで。けれど、ここで止まっているわけにはいかない。いずれ、医師たちが追ってくるだろう。急いで逃げなければ。
ドアの外を見た。地面までは距離がある。けれど、もたもたしている時間はない。
あーや、大丈夫、きみの足はもうきちんと動くんだ。あとは、シュンジにまかせて。心配いらないよ、シュンジはきみの一番大事なひとじゃないか。シュンジ、臆することはない。足をなぜた。もう立てるはずだ、この足は、きちんと立てるはずだ。
立て、立つんだ!
車椅子を降りる。まだあーやの足は使い慣れていなくて、ふらついた。壁に手をつく。けれども、怖気づいたわけじゃない。ぼくはまっすぐ前方を見据えると、いちにのさんで地面を蹴って、そのドアから飛び降りた。
ぼくの旅立ちを、青い空が祝福してくれていた。腕を広げた。大丈夫、今のぼくならきっと。
きっと、そらも、とべるよ。
* * *
いつかきっとわたしをみつけて。
降りつもるあなたの記憶のなかで、ずっとまっているから。
降りつもる呼吸の中で、いつまでもまっているから。
FIN.
BACK
NOVELS INDEX
SEO
掲示板
[PR]
爆速!無料ブログ
無料ホームページ開設
無料ライブ放送