六時間目の授業も、僕は上の空で過ごし、それが終わるとすぐに鞄を抱えて席を立った。
今日はこのまま学校に残っていてもきっとろくなことがない。一刻も早く家にたどり着いて、布団をかぶって寝てしまいたい。それで何が変わるとも思えなかったが、とにかく、今はそうしたい気分だった。
僕はひとり、昨日は佐倉さんと一緒に歩いた道を歩いていた。
一体どうしてこんな事になってしまったのだろう。その疑問ばかりが渦を巻いていて、何も考えられない。ひとりの人間の名を語る者が二人いる。そんな、まるでSFのような事を、僕は簡単に受け入れられるような人間ではない。
しかも、それがよりによってあの佐倉さんだ。
佐倉さん、おそらく、僕が一番頼りにしている人。認めたくはなかったけれど、僕は彼女がいないとどうすることもできない。
まだ、佐倉さんではない、別の人が入れ替わっていたほうが、衝撃は少なかったかもしれない。ひどい言い方なのかもしれないけれども。僕と佐倉さんは三年間、学級委員会という場において、パートナーだったのだ。
それが、いつの間にか、同じ名を名乗る別の人間になっている。そして、それに誰一人として違和感を覚えていない。いくらなんでも、あんまりではないだろうか。
彼女は確かに昨日まで、僕の隣にいた。
僕の隣で確かに、笑ったり、怒ったり、しかりつけたり、励ましたり、そんなことを繰り返していた。
なのに、一体何故なのだろう。こんなにもあっけらかんと、簡単にいなくなっていい人ではなかったのはずなのに。
「秀人君」佐倉さんは、そうやって僕のことを呼んでいた。
僕をそう呼ぶのは、確か佐倉さんひとりだったと思う。他のみんなはたいてい僕の事を、「委員長」と役職名で呼んでいた。
わりと親しい人でも、苗字を呼んでくれればいいほうだ。自分の名前で呼んでくれる人は、佐倉さんだけだった。そんな事には、彼女は気付いていないようだったけれど。
今日出会った彼女は、僕の事を「委員長」と呼んだ。
もしもあの佐倉さんが僕をそんな風に呼んだらば、きっと僕は、大きなショックを受けるだろう、と思う。そんなところからも、佐倉さんと彼女との違いは分析できた。
委員長という名前の中には、それが日高秀人でなければならないという定義は含まれていないような気がしていた。
「そんなの錯覚よ」、佐倉さんは励ましてくれたけれど、それで済まされるような問題ではない。クラスや学年のみんなが頼ってくるのは、僕が委員長であるからで、決して日高秀人であるからではない。
ましてや、僕が僕であることを好いてくれる人などいない、そんな気分がどうしても拭えなくて、僕は何度も落ち込んだのだ。
そういえば、今までの佐倉さんは、「美苗ちゃん」などと親しげに呼ばれたことがあったのだろうか。
なかった、と思う。クラスの中では、誰からも頼られて、誰からも尊敬されている代わりに、誰かと特別親しい友人として付き合う事が出来なかった、といっていた。ひとつ上の世界の人間だと思われて、友達らしい友達が作れない。そんな風に言っていた事もあった。
それが彼女のうぬぼれなどではなく、事実だという事が、その視線によって僕には痛いほどわかった。
「だから、こうして秀人君に愚痴なんて言ったりするわけよ。他に愚痴も言える相手なんて、いないからね。」
佐倉さんはそう言って笑ったのだけれど、その笑顔には、若干の無理が感じられた。
あの時僕は、何も上手い事をいえなかったのだけれど、それでも佐倉さんは微笑んでくれた。
僕自身、佐倉さんのことはずっと、「佐倉さん」と呼んでいた。他の人と同じに。
女の子の名前を軽軽しく呼ぶわけにはいかない、その程度の礼儀は必要だろうと思っていたが、佐倉さんはひょっとしたら、自分の名前を呼んでもらえないことに、少し、寂しさのようなものを感じていたのかもしれない。「委員長」としか呼んでもらえない僕と同じように。
今更遅いのかもしれない、とは思った。けれど何故だか急に、佐倉さんの名前を、呼んでみたくなった。
「……美苗、さん。」
声に出してみると、それは案外響きのよい名前だった。その途端、僕の耳に、元気の良い声が飛び込んできた。
「もう、委員長ってば、いつから気付いてたの?あたしが尾行してた事。」
電柱の影から歩いて姿をあらわしたのは、彼女だった。
今日、僕が初めて出会い、自分を佐倉美苗と名乗ったその少女だった。眉をさげて、少し困ったような表情をしている。
「尾行?」
確かそんなような事を言っていたような気がするのだが、僕の聞き違いだろうか。
尾行というのは探偵小説や何かに出てくるような言葉であって、決して日常的に、それも中学三年生の平凡な日常に使われるようなものではない。しかし、そんな僕の思惑を無視するように、彼女はあっさりと自分にかけられた疑惑を認めた。
「そう、今日の委員長あんまりにもおかしかったから、後つけてみようかな、と思って。って、もしかして、気付いてなかった?あたしの尾行…。」
僕は首を横にふった。まさか尾行されているだなんて、誰も考えつかないだろう。それも、こんな少女に。
「あちゃあ…気付いてなかったのか。そりゃあ、墓穴掘っちゃったってやつだわ。でも、じゃあどうしてあたしの名前なんて呼んだのよお。」
事情の説明など、出来るはずがなかった。僕自身にも、まだよくわかっていないのだ。
ただ、この目の前にいる少女は決して佐倉美苗ではない、その事だけはわかるのだが。
「聞いたよ、理科の時間に大爆笑事件。…災難だったね、あの先生の前で大爆笑するなんてさ。」
彼女はけらけらと笑っているが、そもそもの原因は彼女にあるのだ。
そんな僕の複雑な心中を知ってか知らずか、彼女は笑いつづけている。
それにしてもこの子は、よく声をたてて笑う。佐倉さんのような、思わず漏れてしまう笑いではなくて、まるで笑いたいという明確な意思があって笑っているかのように思える、そんな豪快な笑い方だ。
豪快、などという表現をすると、彼女の外見とのギャップが大きいような気もするが。
「ねえねえ、あたし、そんなに今日変かな?委員長、いつもはこうやって話していても、すぐにばしっと的確につっこんでくれるのに、今日音沙汰もないじゃない?
あたし何か委員長に悪い事した?いつもとあんまり変わっていないつもりなんだけど。」
僕が黙り込んでいると、彼女は僕の腕にしがみついてきた。
「さっき、ていうか昼休み、なんかあたしが佐倉美苗じゃない、みたいな事言ってたでしょ?なんで?一体どういうこと?」
どういうこともなにも、君は僕の知っている佐倉美苗じゃない、一体誰なんだ?
そんなセリフが喉元まででかかったが、さすがにこの言い方は厳しすぎるような気がしたので、必死で抑えた。
と、彼女は、ますます強く、僕の腕をつかんでくる。
「ちょっと…はなせ…よ」
僕は彼女の腕をふりほどこうとしたが、一体この綿菓子のような少女のどこにこんな力が隠されていたのかと思うほどの力強さで、僕はどうにも彼女を引き剥がす事が出来なかった。
「さっさと白状しないと、この腕、放してあげないからね!」
彼女はそういって、きっ、と僕の目を見据えた。その表情は少しだけ、昨日の佐倉さんの、僕を説得しようとしていた表情と、似ているような気がした。
「わかった。」
その顔に一瞬我を忘れて、僕は口走っていた。すぐに後悔する。
しかし、彼女は満足そうに微笑むと、昨日の佐倉さんと同じように、
「よろしい。」
といった。
少しばかり複雑な話になりそうだったので、僕らは場所を移動した。学校の帰り道にある、小さな小さな公園だ。
ちょうど道と道との空いた場所に作られたような公園で、滑り台とブランコしかないような場所だった。
僕と彼女は、その二つ並んだブランコに並んで腰掛けた。さすがにもうこの歳になると、幼児用に作られたらしいブランコに座るのは、苦しいものがある。
僕は少し中途半端な姿勢になったが、彼女のほうは体が小さいせいか、わりとすっぽりとブランコの中におさまっている。僕はそんな中で、彼女に全ての事情を話した。
昨日の佐倉さんのこと、そして今日の彼女自身のこと、自分の事、一体どうしてこんな事になってしまったのかが全くわからないという事。今日の帰りに考えたことも話した。
話しているうちに、彼女は少しずつ、顔をうつむけていった。僕は話している途中に何度も、話すのをやめようと思った。こんなところでまで、佐倉美苗に辛い思いをさせる事になるのはいやだった。この人は佐倉さんではないのだが、それでもやはり、つらそうな表情を見せられるのは痛い。
けれども、僕が言葉を切る度に、彼女は僕の制服の袖をつかみ、
「続けて。」
といったので、続けざるをえなかった。
その彼女の声は、まるで何かを押し殺しているかのようなものだった。僕はその声に背中をおされるようにして話を続けた。
そして、ようやく僕がとぎれとぎれに話を終えた時、彼女は言った。
「…だから、あたしの事、佐倉美苗じゃないって、言ったの?」
彼女の声は、完全に震えていた。
まるで泣き出すのをどうにかしてこらえているかのように、彼女は握りこぶしをひざの上で固くしていた。それは、彼女の意志の固さの証明であるかのように見えた。
「あたしは…佐倉美苗だ。委員長の言っている佐倉さんとは違うかもしれないけれど、あたしは確かに佐倉美苗だよ!
生まれてからこのかたずっと、ずっと佐倉美苗として生きてきた!委員長とだってずっと、三年間一緒に学級委員会をやってきた。あたしは佐倉美苗だよ!!」
最後のほうは、すでに叫びだった。彼女は立ち上がって、僕に向かって叫んでいた。勢いをつけて降りたために、ブランコがキイと鳴って揺れ、彼女のひざにぶつかる。
しかし彼女は、そんな事は気にもしていないように、僕を見つめていた。
そして僕は、彼女が叫ぶのを黙って聞いていた。
彼女は彼女なりに、自分が「佐倉美苗」だと信じていきている。けれど、僕の知っている佐倉美苗は、彼女ではない。
「でも、佐倉さんは…君のような人じゃなかったんだ。」
佐倉さんは、彼女とは全く違う人だった。それは、どうにも動かせない事実だ。
「じゃあ、あたしは、佐倉美苗ではないの?じゃあ、あたしは誰なのよ!?
委員長の言っている佐倉さんのほうが、あたしのニセモノなんじゃないの!?」
ぽろり。彼女の瞳から、とうとう液体が流れ出た。
その透明な液体は、すっと、彼女の頬にすじを描く。
そして僕は思わず、その頬を軽く叩いてしまっていた。彼女が、小さな手で頬を抑える。
「ニセモノって…どうしてそんな事がいえるんだ!?佐倉さんだって、僕の知っている佐倉さんだって、きちんと、ここで生きてたんだよ。
どうしてお前にニセモノだなんて残酷な事を言われなくちゃならないんだ……。」
僕の言葉は、だんだんとしぼんでいった。彼女がもの凄い瞳で、僕の事をにらんでいたからだ。
その瞳は、涙を浮かべていながらも、僕の言葉などたやすく押さえ込んでしまうほど強く光っていた。
「委員長は勝手だよ!あたしが『佐倉さん』と違うから、佐倉美苗じゃないって言うんなら…委員長の方こそ、あたしを『佐倉さん』のニセモノだって言ってるようなものじゃない!!
あたしはあたしだもの!あたしがたとえ佐倉美苗でなかったとしても、あたしはあたしだもの!あたしは誰かのニセモノなんかじゃないよ!!」
その言葉は、確かに僕の心を突き刺した。
今でもまだ、彼女を佐倉さんだとは思えない。それでも確かに、その言葉は僕の心に突き刺さった。
「僕はっ…そんなつもりで言ったんじゃ…。」
必死で弁解しようとする。彼女を傷つけたくて言ったセリフではない。
「じゃあ、どんなつもりなのよ。委員長が言いたいのって、つまりはあたしが『佐倉さん』じゃないってことでしょう!そんなの、ずるいよ。それじゃあたしには、あたしにはどうしたって勝ち目がないじゃないの!
あたしは、委員長の言っている佐倉さんじゃないんだもん…。」
彼女は、そう言うと、ブランコに再び座り込み、今度は完全に泣き出した。
僕は、こんな事を話して、一体何がしたかったのだろう。
彼女の存在を佐倉さんの偽者だと決め付けてまで、僕の中の佐倉さんを守りたいのだろうか。僕の知っている佐倉さんだけを佐倉美苗だと言い張って、一体どうしたいのだろう。
僕の佐倉さんは偽者などではない。そう断言できる。でも、それはこうして彼女を泣かせてまで守らなくてはならない事なのか?
僕は、こんなときでも優しい言葉一つ掛けてあげる事ができない。ただ、彼女の顔を見ていると、不思議と胸が痛んでたまらなかった。
彼女は、たったひとり、僕が、「佐倉美苗」だと認めてやれないせいで泣いている。今の彼女を泣かせているのは僕なのだ。
僕さえ彼女のことを佐倉さんだと認めてしまえば、彼女はもう、誰にも疑いをもたれることなく「佐倉美苗」として生活してゆく事が出来るのだ。
でも、そうすると、一体、僕の知っていた、今まで僕の隣にいてくれた佐倉さんは、どうなってしまうのだろうか。全く、存在を打ち消されてしまう事になるのだろうか。
「わかったよ。委員長は、その佐倉さんのほうが、あたしの事よりも…大切なんだね。だから、そんな事を言うんだね。」
否定できなかった。
佐倉さんは僕にとって、何よりも大切なパートナーであり、そして彼女のほうは今日出会ったばかりの、言ってしまえば他人なのだ。
僕が今、どちらかを選べと問われたとしたら、まず間違いなく、佐倉さんを取るのだろう。
「佐倉さんは、僕の…きっと一番大切なひとなんだよ。」
「だからあたしが佐倉さんじゃ駄目なんだね…。あたしは、佐倉さんとは違う人間だから。」
彼女は泣きながら、何かを呟いているようだった。
僕はその言葉を聞き取ろうとして立ち上がり、彼女の隣へ立った。
「あたしは、佐倉美苗だ。泣いてなんかあげない。泣いてなんかあげない。」
彼女は、そうぼそぼそとくりかえしていた。
けれども、彼女のまあるい瞳からは、次々と涙の雫が出てくる。彼女は一生懸命に、それを出てくるそばから服で拭っている。
「泣いてなんか…あげないんだから。ねえ委員長、佐倉さんは、こんな事で泣くような人じゃないんでしょ?だったら、あたしも泣いてなんかやるものか。
あたしだって佐倉美苗だ。佐倉さんも佐倉美苗かもしれないけど、あたしだって絶対に、佐倉美苗なんだ…。」
そういうと、彼女は涙を完全にぬぐい、僕を見上げて、微笑んで見せた。
その微笑みは、どこからみても、完全に無理をして作り上げたもので、そして、あの時の、「愚痴を言える相手もいない」といった佐倉さんの表情にそっくりだった。
僕は、その顔を見て、完全に何もいえなくなってしまった。この僕の反応も、あの時とちょうど同じだ。
「『佐倉さん』だって生きているんだよね…委員長の言っている『佐倉さん』だって、どこかにいるんだよね
…だけど、あたしだって生きてるよ…『佐倉さん』みたいに完璧な人間にはなれないけれど、あたしだって、生きてるよ……。」
その言葉を聞いて、僕はまたしても衝動的に、彼女の頬を右手でそっと拭っていた。
涙のあとをたどるように、そおっと指を動かす。彼女の頬は、なんだかとても温かかった。その温かみに、僕はなんと言ったらいいのかわからないような気分に襲われる。
彼女は今までで一番に、その目をまあるく見開いた。
「あ…えーと…その…。」
自分でも予想のつかなかった行動だったのだから、彼女が戸惑うのも当たり前だ。この僕自身が、自分のした事にすっかり慌ててしまっている。
「委員長?」
「ご、ごめん…つい。」
彼女はさっき殴られた時と同じ位置に、自分の手を持っていった。しかし、今度ははるかにやさしげに。
その手の表情は、僕の知っている佐倉さんには見られないものだった。けれども、僕はその手の動きを、不思議と綺麗だと感じた。
さんざん彼女のことを泣かせておいて、今更そんな事を感じるだなんて、自分は何というひどい人間だ、と思ったけれど。
「本当に、ごめん。」
彼女はまだ、きょとんとした表情を続けている。僕には、これ以上何もいえなかった。
僕は、おそらく彼女に対して、とてつもなくひどい事を言ったのだろう。考えてみればよくわかる。
突然、自分が自分であることを、他人によって否定されたらば、一体どうする?僕が日高秀人である、こんなに一番当然で、全ての前提であることを、誰かに否定されたらどうする?日高秀人を認めてもらえなかったとしたら、お前は一体どうする?
僕はおそらく、今までにないほど動揺し、叫ぶだろう。
今まで信じてきた物事が、全て崩れ去ってしまうような、そんな感覚を味わう事になるだろう。
僕はその残酷な仕打ちを、目の前にいる少女に対しておこなってしまったのだ。
何か苦いものを噛み潰してしまったように、後悔が僕を襲う。
「ごめん…美苗…さん。」
彼女を、『佐倉さん』とだけは、呼ぶわけにはいかなかった。
僕にとっての『佐倉さん』はただひとりであり、それだけはどうしても、覆す事は出来なかった。けれども、僕は、ここにいる佐倉美苗を否定する事も、もう二度とできそうになかった。
僕の知っているどちらの佐倉美苗も、否定する事はできなかった。
「ごめん、美苗さん。」
僕はもう一度、今度はさっきよりも、さらにはっきりと聞こえるように言った。
そして、美苗さんはその言葉をしっかりと受け止めるように、一度目をつぶると、完全に、嬉しそうな笑顔をつくってみせた。
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