翌日の昼休みの時間に、僕は隣のクラスを訪ねる事になっていた。もちろん、昨日やりのこした議題について、少しばかり話し合いを持つためにだ。
 一応、自分なりのプランは考えて、議案書の形にしてきた。佐倉さんに見せる用意もしてある。
 けれど、少しだけ、不安なところもあった。まあ、これは所詮たたき台なわけだから、そこまできちんとしたものを作ってゆかなければならないという事は無いのだけれど。

 昨日の佐倉さんの言葉が気にかかる。
 佐倉さんは、こんな僕のことを信頼してくれている、というのだろうか。僕がいたほうが会議がやりやすい、と言っていたが、僕がいるのといないのとでは、皆の士気が違うと言っていたが、それは本当なのだろうか。
 佐倉さんは、たとえ人を慰めるためにでも、無責任な嘘はつかない人だ。だから、その言葉は本当なのだろうが、やっぱり心のどこかが信じきれない。

 佐倉さんのクラス、三年六組の扉の前で、漠然とそんなような事を考えていた。
 クラスの中のざわめきが、ドア越しにも伝わってくる。六組は、学級委員の関係上、割と入り慣れたクラスなのだが、今日は何故か、緊張していた。何かが普段と違うような気がしていた。昨日の佐倉さんの態度のせいだろうか。どうにも、今日は調子が狂っている。

「誰か待ってるんですか、委員長?」

 そうしてしばらく六組の前でたっていると、誰かが後ろから声をかけてきた。
 一瞬、小学生かと思ってしまうような、舌足らずで甘い声。振り返ってみると、そこには僕たちの中学校の制服を着た、見慣れない少女が立っていた。
 ぱっちりと開いてくりくりした目に、茶色い猫っ毛。全体的に幼い感じだ。可愛いというのが、一番しっくりきて、よく伝わる表現かもしれない。

 二年生か何かが訪ねてきたのだろうか、と思ったが、胸元の校章を見てみると、青。現在の三年生の学年色だ。
 第一、この子は今僕のことを、「委員長」と呼んだ。僕は三年のみんなから、確かに「委員長」と呼ばれているが、二年や一年からは、そんな風に呼ばれたことは無い。ということは、やはり彼女は三年生なのだろうか。それにしては、見たことの無い顔だけれども。
 最近来たばかりの転入生だとか、そういう子かもしれない。

「呼んできてあげようか?」

 わざわざ彼女の手を借りなくとも、佐倉さんを呼び出すことくらいはできる。
 けれども、こういわれてしまうと、断るのもせっかくの好意を無駄にするようでわるいような気がした。

「じゃあ、ちょっと…佐倉美苗さんを呼んでもらえないかな。昨日の学級委員会のことで話があるんだ。」

 僕がそう言うと、彼女はきょとん、といった感じの表情をした。もともと大きくて丸い目が見開かれて、さらに大きく、真ん丸くなった。
 そして、ほんの一瞬、顔をその表情のまま固定させると、今度は弾かれたように笑い出した。

「はははっ、あははははは…。」

 今度は、僕のほうがきょとんとする番だ。僕はその時、完全にあっけにとられていた。

「やだっ、委員長、そういうキャラだと思わなかった。ははっ、何?ギャグに転向したの?面白すぎるー!」

 きゃらきゃらきゃら、彼女は笑いつづけていた。
 僕には何がどうなっているのやら、さっぱりわからない。一体何を彼女はこんなに笑っているのか。
 僕の発言が、そんなにおかしかったのだろうか?

「えっと…その…僕、何かまずい事言ったのかな?」
「ううん!全然まずくない。委員長面白いよ!」

 どうやら僕が、彼女にとって非常に面白いことを言ったのだ、という事だけはわかった。
 けれど、僕はとりあえず、佐倉さんを呼んでくれと頼んだだけだったはずなのだが。そこに一体どんな面白い語句が含まれていたと言うのだろう。

「とりあえず、佐倉さんを呼んでもらえると嬉しいんだけど。」

 僕はまだくすくすと笑っている彼女に、恐る恐る尋ねてみた。
 買ってもらったばかりの黒い腕時計を見ると、昼休みの時間はあと十五分ちょっとしかない。出来るだけ早く、佐倉さんを呼んだほうがいいのだが。

「まだとぼけてるの、委員長。ギャグもね、あんまり続けすぎると受けなくなるよ?まだまだ慣れてないなあ。」

 別にとぼけているつもりなどない。むしろ、僕のほうから見れば、彼女のほうこそとぼけているとしか思えない。僕と佐倉さんを会わせたくないのではないか、と疑うことも出来そうだ。
 だけどそれは、一体何故?わからないことばかりでは、どうしようもない。

「その…僕は、ただ佐倉さんに会わなくちゃいけないんだけど。何処にいるかわかる?」

 そう言うと、僕は彼女の瞳を見つめた。少し茶色がかった、可愛らしい瞳。それをほんの少しだけ、疑念の色がかすめる。

「だから、同じギャグじゃ面白くもなんともないってば。」

 彼女のセリフは、ついさっきのものとほとんど同じだったが、今回は、声がかすかに震えていた。唇が引きつっている。

「やだ…委員長…まさか本気なの?とぼけてるだけじゃないの?ちょっと、わるい冗談はやめてよ、熱でもあるの?それとも、さっき頭を打ってしまった衝撃で記憶喪失になったとか、そういう事なの?」

 彼女は見るからにあせった様子で、僕の額に手をやった。
 さほど背丈の高くない僕だが、それでも彼女はかかとを上げて、前のめりになっている。しかし、初対面の人間に、平気でこんな事が出来るなんて、一体どういう少女なのだろう。

「熱は…ない、か。じゃあ、やっぱり記憶喪失…大変だ!」

 いつの間にか僕は記憶喪失にされてしまった。そんな事めったに起こる話でもないのに。
 彼女はひょっとしたら、割と空想家なのかもしれない。
 それとも、僕は以前にこの子と出会っていて、それを本当に忘れてしまっているとか。

 昼休み終了まで後十分ほど。本当に、いい加減に佐倉さんに会わせてもらえないと困るのだが。明日の放課後にはもう、学級委員会が開かれてしまう。

「だから、佐倉さんは…」
「ここ。」

 言いかけた僕の言葉を、目の前の彼女がさえぎった。

「佐倉美苗、三年六組女子八番、学級委員会の副委員長…あたしの顔、忘れちゃったの?委員長…。」
「え?」

  今、何かとんでもない事を聞いたような気がした。

「あなたのお探しの佐倉美苗はここにいるよ…なんで、わかんないの?」




 しばらくの間、沈黙。その間も、クラス内のざわめきが背景に響いている。
 僕の頭の中は完全に混乱していた。一体佐倉さんは、どこにいったというのだろう。そして、この目の前の彼女は、一体誰なんだ?

「あたしが、佐倉美苗だよ。委員長。」

 彼女が、まるで駄目押しに、とでもいったようなようすで、きっぱりと言い切った瞬間。
 とてつもなく大きな、けれど、教室のざわめきにかき消されてしまいがちな、そんな中途半端な音量で、予鈴のチャイムが鳴った。





 その後の五分間、本鈴がなる前に、僕は六組や七組のみんな、そして、それだけでは皆が共謀して僕を騙そうとしているという疑いが晴れなかったので、職員室の前にいた先生にも、彼女が本当に佐倉美苗であるのかを尋ねてまわった。
 結果は、というと、僕にとっては非常に納得がいかないのだが、この彼女は、間違いなく副委員長の佐倉さんである、と皆が口をそろえて言ったのだ。

 そんな風にしている間に、本鈴が鳴ってしまった。
 僕たちはそれぞれ教室に駆け込んだのだが、今日の五時間目がよりによって理科だ、という事を忘れていた。
 先生は出席簿を持って、入り口にたたずみ、ニヤニヤと笑いながら、

「一歩遅かったなあ、日高。お前でもこういう事あるんだな。」

 といって、そのまま出席簿で僕の頭をこづいた。そして、ようやく中にいれてくれた。
 たとえそれが一分一秒でも、この「出席簿」が、遅刻者に対する、この先生の恒例だ。
 確か六組はこの時間、国語の授業だったはずだ。あの先生ならば、多少の遅刻は多めに見てくれるだろう、と、僕は国語教師のやわらかい笑顔を想像しながら考えた。
 さっきの女の子は、それほどしかられずにすんだはずだ、と思うと、少しだけ安心した。

 その日の理科の授業は、散々だった。ともすれば彼女のことを考え始めてしまう。浮かんでは消えてゆくのは、ただのクエスチョンマークばかり。
 先生方が嘘をつくはずがない、とは思うのだが、彼女が佐倉美苗である、というのも、また同等に信じられないことだ。

 考えてみると、佐倉さんと、今日会った少女とは、見事なまでに違いがある。佐倉さんの髪の毛は、さらさらとして、よく風になびくストレートの黒髪。佐倉さんの目は、物事を正面から見つめているような、はっきりとした黒い目だ。
 佐倉さんの声は、万人受けしそうな、落ち着いた声。佐倉さんの話し方は、ものごとがきちんと整理されていて、聞くほうを混乱させる事がない。考えれば考えるほど似ていないのだ。
 むしろ、彼女はまるで、佐倉さんとは正反対に…いや、どちらかといえば、完全な対称形になるように作られたような少女だった。
 ふわふわとして、茶色い猫っ毛に、まんまるい瞳、甘く可愛いキャンディボイス、舌足らずな話し方。
 総合すると、可愛らしい、つい手を差し伸べたくなるような印象の彼女。毅然とひとりで歩いているように見える、それどころか逆にこちらが助けを求めてしまいたくなるような、佐倉さんとは全く逆だ。

 けれど、みんなは一体何故、ここまで違う少女が、確実に「佐倉美苗」だと言いはるのだろう。違っているからこそ、僕の反応が面白い、とか。いや、そんな、先生たちまで巻き込んだ嘘なんて考えられない。
 もしもこれが、この間の学級委員会でひそかに決まった、「卒業記念企画」だったとしても、やはり、先生方を納得させるのは無理があると思う。

「ほら、教科書の四十三ページを開いて……」

 先生の、よく通るはずの声が、まるで遠くから聞こえる。
 今、僕の目の前にあるのは二人の佐倉美苗の姿だけであり、そして、その二つの幻は、決して重なる事がないのだ。もう、どうしていいのかわからない。

 僕がそうして考え込んでいると、急に、教科書がかげったような気がした。気のせいではないようだ。誰かが僕のノートを覗き込んでいる。

「日高…お前なあ、せっかく遅刻者様に教科書を読み上げるという大役を指名してやったのに、反応がないってどういうことだ?しかもノートも全く取っていないどころか…女の名前が書いてえるじゃないか。」

 影の正体は、今僕が授業を受けている理科の先生だった。
 どっ、と教室内で笑い声が起こる。

「せんせー、誰の名前だったの?」「あははははっ」「そうだな、よし、知りたい奴は個人的に理科室へ質問に来い。そうしたら、おれの地学特別講習つきで、その名前教えてやろう。」「えー、なにそれー」「名前だけでいーよー」「んなことでぶうたれるな。授業再開するぞー。日高、今度はちゃんと聞いておけよ。ここ、テストで狙うからなあ。」

 教室のざわめきは、やはり遠くのものにしか聞こえなかった。
 今、僕の理科のノートの中心には、佐倉美苗という名前が書かれていた。いつの間に書いていたのだろう。確かに僕の筆跡なのだが記憶にない。直線的な自分の文字が、やけに気になる。
 おそらく、佐倉さんのことを考えているうちに、ついつい手が動いてしまったのだろうと思うが、よりによって、名前が二つ分書かれているというのは、まるで自分に対する皮肉のようにしか見えなかった。


 と、その時、後ろから僕の背中をつつくものがあった。
 この独特の感触は、後ろの席のクラスメートが使っている、バスケットボールのキャラクターつきのシャープペンシルの頭だ。僕は少し先生を気にしながら、身体を横向きにした。
 やはり、予想通り。彼の手にはそのシャープペンシルが握られている。こんなところまで通常どおりだというのに、どうして佐倉さんだけ、あんな事になっているのだろう。

「何?」
「委員長さ、今、美苗ちゃんのこと考えていたんだろ。」

 図星だった。

「はっはっは。手の動きを後ろから見ていれば、なんとなく何を書いているのかくらいわかってしまうのだよ。」

 彼は高笑いをした。高笑いといっても、もちろん先生の目線を気にしつつのものなので、無声音のみの会話だったが、雰囲気は充分に伝わってきた。お調子者の気がある彼らしいといえば、彼らしい。

「確かになー、美苗ちゃん可愛いもんなあ。ついつい抱きしめたくなる感じ?」

 その様子に、演技らしいところは微塵もなかった。という事はやはり、彼女は佐倉美苗として、周りの人間に認知されている、という事なのか。

「ちょっとおっちょこちょいなとこあるけど、あんな可愛い子と委員会でパートナーくんでるなんて、委員長の幸せ者がー。」

 うりうり、そんな感じの擬態語がぴったりといったようすで、彼がシャープペンの頭をわき腹に押し当ててきた。
 さすがにこれは、少し、…かなりくすぐったい。

「ちょ…やめろよっ。」

 僕は笑いをこらえて言った。しかし、逆にその姿が面白かったらしく、彼はやめようとしない。
 だめだ。昔からここは弱点なのだ。もう耐え切れない。

「うわはははははははは…はっはっはっはははっは……」

 僕はとうとう、お腹を抱えて笑い出してしまった。そんなことしている場合じゃない事はわかっているのだが、どうにも止まらない。笑いすぎて苦しいくらいだ。
 笑うのは確か腹筋を使う。明日はひょっとしたら筋肉痛になっているかもしれない、と、笑いながら奇妙なことを考えている僕に、先生が言った。

「今日のお前、変だぞ?遅刻してきてぼけらっとしているかと思ったら今度は笑い転げて、いつもの日高らしくないな…普段だったらおれも『廊下にたってやがれ!』とか言うんだが…ここまでおかしいと、保健室にでも送ってやったほうがいいかもしれんな。」

 腕を組んでいる先生の目は、いぶかしんではいるが、あまり怒っているようには見えなかった。
 ひょっとしたら、怒る気もうせてしまったのかもしれない。

「保健委員、日高をつれてってやれ、なんかおかしいのでつれてきましたって言ってな。」
「いいえっ、結構です!保健室の手を煩わす必要はありません!」

 僕は慌てて立ち上がると、先生の申し出を丁重に辞退した。先生は納得のいかない表情をしていたが、まあいい。
 それよりも、僕は着席する時に、後ろをにらんでやった。彼は、両手を合わせてウインクをしていた。おそらく、「委員長、ごめん!」とでも言いたいのだろう。
 僕は快く許してやったわけではないが、一応、気にするなというようなつもりで、彼のほうを見てやった。

 本当に、今日は何故か、調子が狂いっぱなしだ。



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