*DOUBLE+YOU*



 今日の帰り道は少しだけ憂鬱だ。隣にいる彼女が悪いわけではない。ただ、あまりにも情けない自分に腹が立っているだけだ。

「秀人君のせいじゃないわ。」

 佐倉さんはそう言って微笑んだ。だけど、僕には充分すぎるほどにわかっている。僕がもっとしゃんとしていれば、あんな事態を引き起こさずにすんだ。
 町並みはすでに、オレンジ色に染まる時刻を過ぎて、暗い闇の中に溶け込んでいた。
 本当ならば、僕も彼女も、もう少し早い時間に、夕日が沈んでしまわないうちに、この道をたどっていたはずだったのに。

「ごめんなさい、佐倉さん。こんな時間まで…。」
「何を言ってるの。副委員長としては当然でしょう?それに私、夜の帰り道も、好きよ。」

 佐倉さんの答えはわかっていた。彼女が僕を責めるような言葉は言わないだろう、という事は、とっくに予想がついていた。だけど、僕はむしろ、責めたてるような言葉を望んでいた。

 罪悪感。彼女のやわらかい微笑みが、よけいにそれをかきたてた。
 すべてのものが暗闇ににじんでいるなか、街灯に照らされている佐倉さんの顔だけが、僕の視界に確固としたものとして映る。

「私、なんだかんだいってこの仕事、好きだしね。苦労するほど燃えるのかな。文化祭とか、ずっと、夜遅くまで学校に残って作業するの、大好きだった。」

 励まそうとする言葉は逆効果だという事に、彼女は気付いているんだろうか。おそらく、気付いていないのだろう。佐倉さんは、少しそういうところがある。純粋だとか、まっすぐだとか、そんな言葉が良く似合う。



 今日の放課後に、臨時の学級委員会があった。僕と佐倉さんは、その委員長と副委員長だ。
 僕は学級委員長などできる器ではないと思っていたけれど、一年の一学期にそう決まってしまってから、今まで、ずっとこの役割を務めてきた。引き受けてしまった以上、途中で放り投げるわけにはいかない、そう思ってやってきた。
 何か特別にできる事があるわけではない僕なのに、責任感だけは強かった。

 三年間、僕は「委員長」と呼ばれ、色々な事をしてきたと思う。
 クラスメイトたちは、頼りがいのないはずの僕を、それでも慕ってくれた。数学の問題の解き方を教えてくれだとか、筆記用具を忘れてしまったから貸してくれだとか、細かい事を挙げればきりがない。時々、いいように利用されているのではないかと、疑ってしまう事もあったが、そんな疑念はすぐに忘れるようにしてきた。
 利用されているのでもかまわない、僕は僕のやるべき事をやっている、やりたい事をやっているのだ、そう考えると、少しだけ楽になった。

 だけど僕自身は、決してリーダーに向いている人間ではなかった。
 どちらかといえば内気なほうで、小学生の頃などは人の影に隠れるようにして毎日を過ごしてきたし、何かの委員に選ばれた事など一度もなかった。
 その僕がなぜ学級委員などに選ばれてしまったのだろうと友人に聞いたら、その眼鏡が真面目そうに見えたんじゃないの?との答えが返ってきた。本気なのか冗談なのかよくわからない。
 そんな僕がどうにか委員長などという大役をこなしてくる事が出来たとするならば、それはおそらく、いや、ほぼ、この佐倉さん…学級副委員長、佐倉美苗さんのおかげだろう。

 佐倉さんは、はきはきと話す人だ。誰よりも、自分の仕事を理解し、すぐに動ける人だ。みんなをまとめる事のできる、力を持った人だ。僕などよりもずっと、委員長に向いている人間だ。
 そんな事を言ったらば、佐倉さんは

「私はサポートするほうが好きなんだけどね」

 と苦笑していたけれど、それは僕に遠慮しているだけなのか、それとも本心なのかはわからない。
 ただ、僕は何度も佐倉さんに助けられた。だから、僕が委員長としての信頼を得ているとしたら、それは、佐倉さんが副委員長でいてくれたからだと思っている。



 今日だって、そうだ。卒業式の企画を話し合っていて、会議がこじれにこじれた。原因は、3―Aの、ひとつの提案。
 「卒業式の、三年生側からのメッセージくらい、形に縛られずにやりたい」
 それは、僕だって考えた。クラス中から集められたアンケートを元に、言葉をこねくり回してメッセージを作り上げても、決して本当に言いたい事は伝わらないのではないか、そう思った。
 学校行事なんて、基本的にそういうものだ。先生の顔色をうかがって、脱線しそうになると僕たちのような「委員会」が修復させる。
 「生徒の自主性」?そんなもの、高校ではどうだか知らないけれど、中学の間は、言葉だけのものだった。学級委員や生徒会の人間は、「生徒」を表看板にして、先生たちがいいように僕らを操るのを知っている。裏でうごめくどろどろとしたものを、少しばかり垣間見ている。
 「形に縛られたくない」それは、一言で言ってしまえば、先生たちへの反抗だった。少なくとも、彼らはそう受け取ったと思う。

 僕は、その小さな反乱を、止める事が出来なかった。
 いや、むしろ、心のどこかで、とめたくなかったのだと思う。卒業式、それは僕たちにとって最後のチャンスだ。先生たちの手のひらの上から抜け出す、最後のチャンスだ。
 そんな考えがどこかにあっただろうことは、正直な話、否定できない。

 けれども僕は、個人的な意見はさておき、それが「反乱」になるまえに、静めるべきだったのだ。
 「反乱」ではなく「意見」として、先生方に提案できるように、まとめるべきだったのだ。
 なのに、僕にはそれが出来なかった。僕はただうろたえているだけしか出来なかった。先生たちと生徒達、どちらの言っている事が正しいのか、全くわからなくなっていたのだ。「正しい」その言葉は、学校の規範に合致するもの、そういったイメージがある。だから、彼らの提案した事は、決して「正しく」はないはずなのだ。それが、「中学校」という枠の中での規則。
 でも、僕は、A組の提案を、魅力的に感じた。卒業式を自分の手で作る、言葉にするだけでわくわくしてくるじゃないか。
 反乱は、小さなものだった。少なくとも、提案された直後は。
 けれど、一度ついた火種は、すぐに燃え上がり…まるで、一学期にあった飯盒炊爨の、かまどの中の火みたいだ。ちょっとした火種が新聞紙に燃え移り、広がり、一瞬で終わってしまうはずだった火が、薪を取り囲み、燃え移り、そして、生半可なことでは消えない、れっきとした炎へと変わってゆく。
 そして、混乱。炎の中で、薪たちは燃える。火の番をしている人間は、すでにコントロールを失った。もう、かまどの中だけで燃えているのは限界。炎が全てを包み込む。

 舵が失われた学級委員会は、さんざんなものだった。
 調子に乗って、ふざけているとしか思えない提案を連発する生徒、「伝統」「前例」を壊れたおもちゃか何かのように繰り返す先生、早く帰りたい面倒くさいどうでもいいとぼやく生徒、どうして私たちの気持ちをわかってくれないのと泣き出す先生、真剣に先生方と討論をしようとして止められる生徒、そして、どうしていいのかどうする事も出来ないでいる司会のはずの僕。
 一度燃え上がった炎はなかなか消えない。これだけの燃料が一体何処にあったというのだろう。
 中学校生活、ずっと先生に従ってきた僕たちの奥底に、少しづつ、しめ方の悪い水道からぽつりぽつりと落ちる水滴のように、いつの間にか溜まっていった液体燃料。これだけ強力なら、バケツの水一杯では足りないね。二十五メートルプールくらいは欲しい。だけどホースを握らなくてはならない僕自身が、新たな燃料を抱え込んでいる状態で、どうやって消火作業をすればいい?
 すでに議題となるべきことは、宙に浮かんでしまっていた。目的は完全に、卒業式のことから離れて、生徒と先生との論争が、その場の中心となっていた。
 些細な規則について、生徒が文句を言う。先生がそれに反論する。そして反論の反論。今となっては全く意味のない言葉の羅列。
 消防士の助けを待っているのは一体誰?炎の中でもがいているのは一体誰?
 それはひょっとしたら、すっかり忘れ去られてしまった形になる、この臨時委員会の目的、というやつだろうか。

 バンッ!!

 そんな月並みな音が響いた。
 大分大きな音だったので、大半の人間が議論をやめて、音源の方を向いた。音源は僕の隣、佐倉さんが発したものだった。机の上に載せられた右手が、少し赤くなっている。と、いう事は、あの音は、彼女が机をたたいて出したものなのか。

「皆さん、静かにして下さい。会議中です。何か発言のある方は、議長に指名されてからにして下さい。」

 そういうと、佐倉さんは、その場にいた全員に向かって、微笑みを振りまいた。「天使の微笑み」などと、割とありがちな名前を付けられたその微笑は、ざわついていた群集を圧倒した。
 佐倉さんは、この中学のミスにも数えられた事のあるほどの美少女だ。こういった表現は自分でも使っていて恥ずかしいのだが、実際に美少女としか呼べないような容姿をしているのだからしかたがない。本人は、どうしても目立ってしまう自分の容姿を、決して気に入ってはいないようだったが。とにかく、そのような美少女が、机をたたき、とうとうと述べ、微笑む姿というのは、一種迫力がある。

「3―Aの提案に関して、何か意見のある方は?」

 佐倉さんは問うた。このときも、彼女は微笑を崩さずに、ゆっくりと部屋を二周分だけ見回した。

「誰か、意見は?つい先ほどまであれほど活発に意見の交換をしていたのだから、何かあるでしょう?」

 佐倉さんは再び問う。誰も答えない。佐倉さんは一度首を振ると、僕に向かって言った。

「議長、あとは、よろしくおねがいします。」


 その後、僕に出来たのは議決を取ることだけだった。A組の意見を元にして、新たな案を作り、先生方に提出するかどうか。
 そして、その議決で得られた結論が、次回の委員会までに、その「自由な言葉」の形式を、各自考えてくる、というものだった。ある程度のものを作り上げてから、先生たちとの交渉に臨まなければ、「実現不可能だ」などと言われ、没になってしまうだろう、という意見が出たところから、そんな風になった。
 今日の委員会は一応のところ、それで終わり、僕らは今ようやく、後始末を終えて学校を出てきたところだ。



 僕は僕のふがいなさというものを、今日存分に実感してしまった。
 僕さえもう少ししっかりしていれば、もっと早く、委員会を終わらせる事が出来たかもしれない。大体からして、佐倉さんがあそこで一喝した事…あれは本来、議長である僕の役目のはずだったのだ。なのに、副委員長の佐倉さんが、うろたえる僕を見かねて、あんなふうに声を張り上げる事になってしまった。

「結果オーライよ、結果。」

 佐倉さんはそういったけれど、僕が、僕自身が一番納得がいかないのだ。
 どうしてあの場で、何もいえなかったのだろうか。議長として、何か手を打つことはできなかったのだろうか。


 「…ねえ、まだ落ち込んでるの?」

 うつむきながらただ歩いていた僕の視界が、急に暗くなった。佐倉さんが僕の目の前に立ったのだ。少し前へかがみ、僕の瞳を覗き込む。佐倉さんの黒髪がゆらゆら、端を街灯の光に彩られて揺れている。

「そんなに落ち込んでると…なんだか私が責任感じるじゃない。」
「え?」
「私が副委員長として上手くサポートできなかったから悪いんじゃないかっていう気がしちゃってさ。」

 わざと言っているわけではない、わかっている。佐倉さんは、こんな事をわざと言うような人ではない。
 けれど、ここまでいわれてしまうと、さすがの僕も、どうしていいのかわからなくなる。少しだけ、彼女に対して意地悪な事を、言ってしまいたくなる。

「佐倉さんがいなければ、この委員会は成り立たなかったよ。終わりすらしなかっただろうね。僕ひとりの力では、どうしようもなかったよ。」

 そう、佐倉さんがいなければ、僕は何も出来なかっただろう。それは事実だ。事実だろうけれど、あまり、こんな風にとげとげしい気持ちで言いたくはなかった。

「佐倉さんは、何でも出来るからね。僕とは違ってさ。」

 こんな事を言いたいのではない。僕はただ自分を責めてしまいたいだけで、佐倉さんにあたりたいわけではないのだ。
 けれど、自分の感情とは関係なしに言葉が流れ出ていってしまう事は、確かに良くある事なのだ。よくあるからといって納得していい類のものではないのだけれど。

「佐倉さんは、いいね。」

 僕は、ずっとそう思ってきたのだ。
 僕は、佐倉さんのことがうらやましかった。誰よりも毅然として、誰よりも優雅に物事をこなす人。おどおどと、人の陰に隠れている事ばかりだった僕には、余計にきれいに見えた人。
 学級委員の委員長と副委員長。そのせいか僕は、いつも、佐倉さんの隣に立っていた。
 僕はその間ずっと、佐倉さんの隣にいる僕が、どんな風に見えるのかを気にしていた。いつも比べられているように思えて、いや、比較の対象にすらなれないような気がして、ずっと、彼女のほうを向かないようにしてきた。自覚してしまったら辛い。それがわかっていたから、僕は隣にいる彼女の姿を、極力きれいだと思わないようにしてきたのだ。
 楽しく話しているように見えるときでも、隣の彼女と比べてしまうと、余計に汚くみじめに見える自分が、ずっと、頭の奥のほうにちらついていた。
 自分はしょせん、彼女とは違う人種の人間なのだ、そう思わなければ、やっていられなかった。
 けれど、やっぱり瞳に映ってしまう佐倉さんは、誰よりもきれいだった。

「佐倉さんは、いろんなものを持っているんだ。僕にはないものばかり。」


 その時、佐倉さんの動きが止まった。さらさらとその身体をなぜるように動いていた彼女の髪の毛が、動きを止めた。
 僕は、それを見た途端に、今言った事を後悔し始めた。なにも、ここで、こんな風にして言わなくてもよかったのに。そう思った。
 ただ、佐倉さんは僕など及びもつかないような人で、僕は彼女を尊敬している、そんな事を思えばよかった。
 尊敬の中にある嫉妬などという気持ちは、完全に無くして、灰にでも何でもしてしまって。今更そんな事を考えても仕方がないだろうけれど。

「秀人君も、そう、思ってるの?」

 彼女の声は、確かにいつものように、鈴のなるような、という表現がしっくりくるほどに澄み切っていた。けれど、僕には何故か、少しだけ震えているように感じられた。
 その震えが、怒りから来たものなのか、それとも悲しみから、あるいはもっと別のものからきたものだったのか、そこまでは僕には推測もつかなかったけれど。

「佐倉、さん?」

 やはり僕は、情けない人間だ。まだこんな事を考えているなんて馬鹿だ、自分が自分をそうあざ笑っているのがわかる。
 けれど、僕がこんなにも情けない人間であることは、今、誰にも否定できないはずだ。僕の思考回路は、いまだこんなところでとどまっていて、佐倉さんに満足な言葉一つかける事ができないのだから。

「秀人君も、秀人君も、私がなんだってできるって、そう思ってるんだ?」

 佐倉さんはうつむいたままで言った。僕は、そこまで言われても、何一ついう事が出来なかった。佐倉さんが一体どのような言葉を求めているのか、それとも言葉ではない何か違うものを求めているのか、僕にはわからずに、ただ、その場に立ち尽くしていた。
 僕の目の焦点は、何故かちょうど佐倉さんのつむじのところであっていた。僕の背が、中学三年生の男にしては少し低めで、佐倉さんが割と長身だからだろうか。
 そして、僕は奇妙にも、そこから目を離すことが出来なかった。彼女のつむじは左巻きで、…つむじまで、綺麗な形をしている。

 それは、一瞬だったのだろうか。僕には、時が止まってしまったかのように感じられた。
 何も動きがなくなってしまった中、急に冷たい風が吹き、そして、その途端に、佐倉さんが顔を上げた。


「やだなあ、秀人君、…そのとおりよ?」

 佐倉さんはそう言うと、ふふっ、と笑った。

「なに?私が傷ついたとでも思った?」

 そのとおりだった。僕は、完全にあっけにとられていて、何もいえなかったけれど。

「駄目よ、そんなに簡単に騙されたりしちゃ。それに、心配しなくても、私、人の前に立ったり、誰かに頼られたりするの、好きだもの。…秀人君とは、違ってね。」

 彼女が言ったその言葉には、何故か嫌味たらしいものが感じられなかった。僕が言ったのとほとんど同じセリフにも関わらず。いや、それよりも

「佐倉さん、気付いていたんだ…」
「三年間も一緒に仕事していればね。」

 頼られる事、それ自体は、決して悪い気分ではない。けれど、自分がそれに耐えられるだけの技量をもっていなければ、責任の重みでつぶれてしまう。
 僕は、少しだけそれを辛いと思ってきていた。自分には、人から頼られるだけの力が無いと思っていた。でも、それを、佐倉さんにだけは悟られないようにしてきたつもりだったのに。
 これ以上自分をみじめにするのは嫌だったから、彼女にだけは、それを気付かれないようにとふるまってきていたのに。

「見抜かれてたって事か」

 さすが、何でもできる佐倉美苗だ。僕の思惑なんてお構いなしで、全ての事をこなしてしまう。
 なんだかこうなってくると、むしろ負けてしまう事がすがすがしいような気さえしてくるのが、不思議だ。

「でも、秀人君は、すごいと思うよ。三年間、私みたいな物好きのパートナーだったわけでしょう。そのくらいの自信は、もってもいいと思うんだけど。何も、自信家にならなくてもいいからさ。」
「僕はすごくなんてないよ。」
 
 それは、僕の実感だ。誰がなんと言おうとも変わらない。自信なんていうものは、どうしてももてそうもない自分の実感だ。
 佐倉さんと比べてしまったら自分はあまりにも情けない。その思いは変わらない。

「それに、秀人君。私、今まで学級委員としていろいろな仕事をしてきたけれど、秀人君が委員長でいてくれたから、自分のやり方でやれたんだと思うよ。
 なんだか不思議なのだけど、秀人君がいるのといないのとじゃ、仕事の進みがやけに違った
 …ほら、秀人君一度、風邪をこじらして入院したでしょう?」

 そういえば、そんな事もあった。
 あの頃は、ちょうど移動教室の前で、やらなくてはならなかったことを大分人任せにしてしまったのだけれど。

「あの時は苦労したなあ。何でだかわからないけれど、委員のみんなの士気が全く違うのよ。秀人君がいるのといないのとでは。
 一度だけ私、叫んじゃったわよ。そんなに私より秀人君のほうがいいの!ってさ。」

 佐倉さんは、本当に楽しそうにくすくすと笑った。僕はとてもではないけれど、佐倉さんの言った事が信じられずに、彼女の顔を眺め回したのだけれど、嘘をついているようなようすはみられなかった。

「秀人君のいないときのことだもの。知らないはずよね。何?疑ってるの?」
「いや、そういうわけじゃないけど。」
「私の言っている事でも、信じられない?」

 にこり、誰よりもきれいな微笑が、僕の前にあった。
 こんな風に言われてしまったら、僕は信じることしか出来ない。
 僕自身を信じることはできそうになくとも、佐倉さんを信じることはできる。

「少なくとも私は、秀人君がいてくれたほうがずっと、仕事だってしやすいのよ。…了解?了解しないと、前からどいてあげないからね?」
「…わかった。もう、あんな事は、言わないようにするよ。」

 ずいぶんと素直な言葉が出てきてしまった、と、少し自分で自分にあきれた。
 佐倉さんに対しては結構複雑な気持ちを抱いていたのだけれども、こんなに簡単に、やけにあっさりと納得させられてしまった。

「よろしい。」

 けれども、佐倉さんになら騙されるのでもいいか、とちらりと思った。
 どういう意図があって僕を励まそうとしているのか、佐倉さんに関しては、そんな深い事を考えなくともいいのかもしれない。



 交差点の信号が見えてきた。僕と佐倉さんが別れる地点だ。
 何度かこうして二人で帰ったときには、佐倉さんはいつも信号の前で手をふった。

「それじゃあ、私、こっちだから。」

 佐倉さんはいつもと全く同じように、胸の前で手をふる。
 それはとても自然な動作で、やけにその場の風景に溶け込んでいるように見えた。夜の信号、点滅している青い光、いつの間にか汚れた歩道のアスファルト、横断歩道。

「また明日ね。」

 そう言って佐倉さんは、僕とは逆方向に駆け出した。僕はしばらく、その場から動けなかった。遠ざかってゆく佐倉さんの後姿に手を振る事すら出来なかった。

 佐倉さんの最後の言葉、「また明日」が、やけに心にかかってはなれなかった。



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