第9章



 その日、予定されていた時間よりもずいぶん早くに、会議の時間は変更された。
 つい一昨日までは誰も知らなかった事実……ナナが、すでに教育を終えているという事実は、研究所内をゆるがした。
 それは、絶対にありえるはずのないことだった。ナナの成長を止めるため、ただ、それだけのために、彼女の教育はずっと、中断されてきたのだ。なのに、ナナはいつの間にか、勝手に成長してしまった。

 早朝会議。実由はこの言葉に、さほど強い憎悪を覚えた事は無かった。
 彼女のチームの研究者たちには夜型の人間が多かったので、朝っぱらから始まる会議など嫌われていたのだが、実由自身は朝に強かった。
 だから、早朝会議といわれても、抵抗はない。けれど、今日ばかりは。

 実由ははじめて、低血圧の人間の気持ちをかいま見た気がした。布団が重苦しくて、頭がぼんやりとしていて、外へ出ることができないのだ。
 今日行われる会議、それを思い浮かべるだけで、すべての気力がそがれてゆくような気がした。自分らしくもない、実由は自嘲した。
 目覚し時計が騒がしい。いつもならばこの音は、新しい朝の始まりを告げる鐘の音。なのに今日は、ただの電子音にしか聞こえない。自分の耳に心地よいように、カスタマイズだってしているはずなのに。快適な目覚めとはほどとおい。

 こんな風に、体を起こすのが辛い朝。少しばかり、情緒不安定な朝。
 律の顔が浮かんでくる。あの、皮肉めいた微笑み。あれは、わざとだ。実由は思う。人をある程度以上近づけないための、仮面。
 結局、実由自身も、その下の素顔を見破る事ができなかった。律は、人の領域にはずかずかと踏み込んでくるくせに、けっして、自分の中には誰もいれようとしない。
 実由は、律がこの街に嫌悪感をもっていることを知っていた。それが何故なのかは知らない。ただ、律はいつも機械人形に対して、冷ややかなまなざしをむけていた。それは、普通の機械に対する以上に。
 確かに、《コミュニティ》を薄気味悪く思う人間も多い。しかし、ここの研究者はたいてい、《特殊型機械人形》に好意を持って…いや、そこまでいかなくとも、敵視はしていない。そうでなければ、常に《特殊型機械人形》とかかわりをもつ、この仕事に耐えられるはずがないのだ。なのに、律だけは特殊だった。
 なにか、とてつもない秘密をかかえているような。

 律の視線は、いつもいつも、厳しかった。表情は、ゆるむことがなかった。
 実由はそんな律の事をずっと気にしていて、そして、いつしか。
「進藤、律……」
 すべての、元凶。
 朝がきてしまうのが憂鬱なのも、すべて、彼のせい。
「進藤、律」
 もう一度口に出してみる。
 知っている。律のイヤリングは、小型の通信装置。それも、政府から支給されたもの。
 政府……おそらくは《コミュニティ》に対して、よい感情をもっていない。《コミュニティ》は、ただでさえ赤字に近い予算を、食いつぶしてゆく存在なのだ。
 そんな装置で、律がいったい何処と連絡をとっているのか。推理は、いくらでもできる。けれど、探偵小説のように簡単にはいかない。論理的な思考を、感情が邪魔する。結論はとっくに出ているはずなのに、自分のどこかが、それを認めようとしない。

 枕にしがみついた。朝なんてこなければいいと。
 朝になるとつくように設定されたルームライトは、確かに彼女の顔を照らしていて、こんなに明るくては眠ることなどできそうにないのに。
 わかっている、自分は逃げているだけ。
 いったいいつから、自分はこんなに弱くなった。こんなにも。大切な朝に、体を起こすことができないほどに。

 もう起きなくては、時刻は午前六時半。これから、顔を洗って、朝食をとって、制服に着替えて、会議の準備をして。
 頭の中でシミュレートする。そろそろ起きなくては間に合わない。けれど、実由は夢うつつで、今自分のしたシミュレートこそが現実のように思えてしまって、そのままずるずると眠りの中に引き込まれてゆく。
 睡眠時間は充分。充分だったはず。知っている、起きられない理由。わかってる。
 ナナ。GKP-8.56。彼女を誰よりも大切に思っている研究者。的場遊歩。自分の後輩。部下。進藤律。進藤、律。

 目覚し時計はあいかわらず、けたたましく鐘をならしている。



 会議の席での実由は、あきらかにおかしかった。
 いつもの気迫がうかがえない。常に見開かれているはずの瞳は、なぜか半分ほど瞼に隠れてしまっている。動きにも、俊敏さがない。
 一体どうしたのだろう、とは思わなかった。それがあたりまえだと思った。
 なんといっても昨日は、例の提案があった日で、ナナにあらたな問題が持ち上がった日で。遊歩自身、よく眠れなかったのだ。

 メアリと共に第二研究室へ走ったあとのことは、どこか現実味を欠いていた。ただ、夢の中の出来事のよう。

 たどり着いた研究室の中はざわめいていて、もう、ナナの「成長」が判明したのだとわかった。
 中でも加納実由のあせりようは大変なものだった。チーフとしての責任感からか、できるかぎり落ち着こうとはしていたのだが、それがかえって気持ちを苛立たせているようだった。
 対照的に、律は、憎たらしくなるほどに落ち着いていた。こうなることが事前にわかってでもいたように。

「GKP-8.56は、じきに死ぬ」

 律は言っていたではないか。ナナの死を、その口で宣告したではないか。
 おそらく、律はナナの成長が進んでいることを知っていて、黙っていたのだろう。一体何故? ナナに何の罪がある?
 普段の遊歩なら怒りに任せて、律を問い詰めていたに違いない。しかし、そのときは、ナナがあの忌まわしい病を発症しかねないという事実だけで、頭が一杯になっていた。それ以上の情報は、とうてい処理しきれなかった。

 ナナ、ナナ。どうしてきみまで死ななくちゃいけない?
 母親を失ったきみが、どうして死ななくちゃいけない?

 その言葉だけで、遊歩のメモリは、すでにパンクしかけていた。どうしようもなかった。現実を認識する能力すらも、どこか壊れてしまった。悪夢のような現実を、ふらふらとただよっていた。

「それでは、昨日の進藤氏の提案について……。今、お手元の端末の方に詳細な資料をお送りします。緊急を要する件なので、審議のあと、すぐに議決に入りたいと思います」
 実由の声。昨日とは違い、ごく事務的にひびく。
「質問、意見等ある方は挙手を」
 すっ。瞬間、遊歩のとなりで、手が伸びた。まっすぐに、白くなめらかな腕。華奢な少女の腕。
 この場でただひとり、律のほうを睨みつけている。
 これはさすがに意外だったようで、会議室にざわめきが走った。
「メアリ……メアリ・トーラス氏。発言をどうぞ」
 実由も例にもれず、動揺しているようだった。
「はい」
 メアリが立ち上がる。その衣ずれの音まで、遊歩には聞こえた。

 彼女は一呼吸おいて、聴衆が落ち着くのを待つと、話し始めた。
「わたしは、この案の棄却を要求します」
 あまりに毅然とした物言いに、聴衆はまたさわがしくなった。昨日、どれだけ厭な気持ちがしても、反対できなかった律の意見に、真正面から立ち向かおうというのだ。聴衆のうち何人かの視線には、あきらかに尊敬のいろがこめられていた。

 しかし遊歩は、おそらく遊歩だけは、別の意味で目をまるくした。
 今、メアリはたしかに「わたし」と言ったのだ。「わたし」なんていう言葉は怖くて使えないとそう言った彼女が。会議の場だから、ということなのだろうか。違うだろう。
 嫌な予感がした。ナナの時と同じように、なにかが起こりそうな気がした。

「棄却、ですか? 修正ではなくて?」
「はい。わたしは、進藤氏の案に、全面的に反対します」
「それは何故?」
 実由のまなざしが、メアリをとらえた。それは、まるで救いを求める子供のような目だった。
 同時に、律が立ち上がる。椅子がかたんと鳴った。
「進藤氏の案は、倫理的に許されないものです。それに、《コミュニティ》法規にも反しています」
「《コミュニティ》法規?」
「法規…、というか原則のところですね。第一に掲げられていること。《特殊型機械人形》の人権保証のところです。」
 ディスプレイと携帯端末に、同時に文書が映し出される。
 《コミュニティ》に立ち入るものなら誰しも一度は見たことがある、有名な文書だ。《コミュニティ》法規の序文。
「『すべての機械人形は、生命活動を行う権利を保障される。その命は、奪われることがあってはならない。』当たり前の事しか書かれていませんよ。進藤氏の提案は、その当たり前の法規に反しています」
 毅然とした明朝体が、携帯端末のうえで踊る。なにかを嘲笑っているように。遊歩は眩暈を感じた。
「進藤氏、返答を」
「倫理的……ねえ。そうですね。しかし、ここで《ゼロ・シンドローム》の治療法が確立されなければ、一体どれだけの機械人形が死ぬことになるか、考えたことがありますか? 現在、《ゼロ・シンドローム》の患者数は《コミュニティ》人口の十パーセント以上である、二千体といわれています。これがそのまま広がったら、一体どうなりますか? それに、GKP-8.56、彼女は、放っておけば必ず命を落とします。それでも、治療法確立のための実験を、止めようなどと思いますか?」
 最後の言葉は、メアリに向けられたものではない。遊歩は、律の視線を痛いほどに感じた。

 わかっているよ、止めるなっていいたいんだろう。ナナを救いたいなら、自分に従えと、そう言いたいんだろう。
 わかっている、そう思いながらも、遊歩は、自分の手を固く握り締めるのをとめられなかった。

「法規の問題にしたって、そうです。ここで実験を行わないほうが、結局多くの命を奪うことになるのですよ。それに」
 律は言葉を切った。効果を期待するように、笑ってみせる。
「LIT-001は、あいにく、まだ市民としての登録をしていないんですよ。ぼくが作った人形ですからね。市民登録をしていない機械人形は、そもそも法規の対象に、ならないんです」
 残念ながらね。笑いながら続けた律に、メアリは絶句した。
 しかし、唇を噛み、必死で体勢を立て直そうとする。
 握った拳が、いつも以上に白くなり、ふるえていた。つめが手のひらにくいこんで、跡をつける。

 遊歩は思わず、その手に触れた。元気付けるつもりでもなんでもなかった。そうせずにいられなかっただけのこと。
 メアリはほんの少し落ち着きを取り戻したかのように、口元をゆるめた。
 その様子を、律が見ていたような気がして、遊歩は目をそらした。

「しかし、進藤氏、この案にはやはり無理がありませんか?」
「何故?」
「LIT-001の精神状態です。子供では発症しないことから見て、このウイルスは、教育というプログラムに非常に密接なかかわりを持っているはずです。進藤氏、あなたは、LIT-001に、正常な教育をほどこしましたか?」
「それはどういう?」
 尋ねたのは実由だった。律は余裕綽々といった様子でかまえている。
「教育、それはもちろん、《コミュニティ》の生活に適応できるように行われるものです。なかでも、重要なのが自我の確立ということ。これが教育の最終段階におかれているはずです。それに、意思があるように見せかけるプログラムはあっても自我を持たない通常の機械人形は、このウイルスに感染しません。ということは、きちんとした自我をもたない《特殊型機械人形》は、《ゼロ・シンドローム》に感染しないのではないでしょうか。
 進藤氏、あなたの話を聞いているかぎりでは、LIT-001は、まだ正しい自我をもっていないと思われます。市民登録されていないということは、《コミュニティ》で生きてゆく資格をもたないということ。それに。極秘裏に作られたという言葉。LIT-001の精神状態は、通常の《特殊型機械人形》とは、大分異なったものになっているはずです」
「ぼくがGKP-8.56の《教育》を、的場君と共に担当しているのは知っているでしょう? 助手のあなたよりも、よっぽど《教育》の理論には精通しているつもりです」
「違います! 自我! 重要なのはそこです。マスター…いいえ、父親であるあなたの命令だけを聞いて、自分の身を惜しげもなく、実験の為に差し出す。そんな《機械人形》に自我があるといえますか! 自分が一体何者なのか、その問いを発することも知らず、自分の命を慈しむことも知らない機械に、自我があると言えるんですか!」
 メアリの頬が上気している。うるんだ瞳と赤くなった頬。見るところで見れば、男の目をひきつけるかっこうの材料となっただろう。しかし、今はそれが、どこか痛々しさをあおっていた。打ち捨てられた、子供のように。

 遊歩は、言葉にならないメアリの叫びを聞いた気がした。
 わたしは、わたしであると言い切れるのか!? スペアでしかなかった自分には、自我があったと言えるのか!?
 父親の人形でしかなかったわたしは、一体誰だったのか!?
 ひょっとしたら、それは、遊歩自身の叫びだったのかもしれない。遊歩には、それを受け止めてくれたひとがいた。それだけのこと。

「『自我』は存在しますよ。LIT-001は、自分がLIT-001であることを知っています。それで、充分でしょう」
「……それは、致命的な欠陥だと思うのですが。まあ、いいでしょう。進藤氏、最後に、一つだけ問います」
 律は、メアリの叫びに気付いていないのだろうか。射るようなメアリの視線にも、ろくに反応しない。
「どうぞ」
「あなたは、一体何のために、LIT-001を造ったのですか」

 一体何のために、わたしを造ったのですか。
 いったいなんのために、ぼくをつくったのですか。

「いつか、こういった日がくることを予想していたから。……これじゃあ答えになりませんか?」
 律は動じなかった。あくまでも淡々と、言ってみせた。
「結構です。もう。加納チーフ、意見は、以上です」
 メアリが席につくと、緊迫していた空気がふと、ゆるんだ。誰かがため息をもらす。
 場に沈黙がおりた。誰もが何かを言おうとして、そして言えなくて、口を閉ざしている。そんなことがはっきりとわかってしまう沈黙。司会である実由すらも、何を言ったらよいのか、迷っているようだった。

 メアリはというと、背もたれに体をあずけ、苦しそうに息をしていた。短いサイクルで上下する胸。先ほどまで紅潮していた頬が、すっかり青ざめてしまっている。
「……ちゃんとたたかえた、かしら?」
 少し自嘲気味に、メアリは笑いかけてきた。
「充分だよ」
 遊歩には、もうそれしか言えなかった。



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