第8章



 今度は、まだあたたかいココア。やはり濃く、砂糖は多めに。遊歩が出したそれを、メアリ、今度はきちんと飲んでくれた。
「おいしい、ですね」
「少しは落ち着くだろう」
「はい。甘くて……甘くて、おいしいです」
 メアリはそう言うと、カップの中を見つめた。ココア。ミルク。交じり合う色合い。ぐるぐると眩暈がしそうなほどに回る甘い液体。その甘味に幻惑されているかのようにメアリは思った。
 いつもの自分を遠くへ運び去る、吸い込んで、とろかして、消えてゆく。
 遊歩。かれの姿に、どことなく重なるものがあった。

「メアリの話を、聞いてもらえますか?」
 唐突に、メアリは言った。今まで見せた事のない類の表情。今の自分は、いつもの自分ではない。ココアの甘味におびき出された、少しだけ、昔の自分。
 遊歩は多少困惑したようすで尋ね返してきた。
「聞いても大丈夫なのかな?」
「ええ。聞いてもらいたいんです。遊歩さんに」
 あれだけ取り乱した姿を見せたんだから、今更恥ずかしい事なんて何もありません。メアリは冗談とも本気ともとれる口調で言った。



 メアリは、隣国の旧家トーラス家の二十六人の娘の一人として生まれました。
 アルファベット順に、Aのアリア、Bのベリィ、Cのキャシィ、Dのディアナ、Eのエヴァ……そして、Mのメアリは十三番目。

 二十六人の娘達は、みな、顔立ちも、声も何もかもそっくりでした。それはあたりまえのことで、彼女たちは皆、一つの受精卵から生まれたのです。ひとつの受精卵が、二十六に分割され、そしてそれぞれ、独立して発生したのです。
 彼女たちは、同じ場所で育てられ、同じ教育を受けました。
 しかし、同じ遺伝子をもつものばかりのはずなのに、勉強にしろ運動能力にしろ、差がついてくるのです。思えば、それこそが、父親の願った事でした。二十六人の、まったく同じ遺伝子をもつ娘達の中で、最も優秀に育ったものを、自分の娘として扱う事。
 ……そしてまた彼自身も、そうやって前代に選抜された一人なのでした。

 メアリは、いつしか、何につけよい成績をおさめることが、父親をよろこばせる……自分を特別に扱ってもらうための方法だと知るようになりました。父親に愛されたかった。
 だから、彼女は誰よりも、努力しました。
 みなが遊んでいる間も、ひとり黙々と勉学に励む。そんな女の子になってゆきました。

「メアリちゃん、メアリちゃん。そんなにお勉強ばっかりしてて、疲れないの?」
「ねえねえ、メアリちゃんも、一緒に遊ぼうよ」

 二十五人の仲間達の誘いにも、メアリがのることはありませんでした。
 そのときのメアリにとって必要だったのは、父親だけでした。父親が自分をほめてくれる、特別だっていってくれる、そのことだけでした。

 けれど、メアリには、たった一人だけ、勝つことの出来ない相手がいました。
 Nのニーナ。彼女は、特別に努力しているというわけでもないのに、なんでも出来てしまう子でした。
 まさに、神様に愛でられて生まれてきた少女。メアリは、どれだけ頑張っても、頑張っても、ニーナにだけは勝てないのです。
 幾何も、文学も、工学も、はたまた運動能力においても、それに、ゲームの腕も。

 メアリは、誰よりも必死でした。毎日、夜おそくまで勉強をします。みなが、そうニーナも眠り込んでしまった後でも、一人、机に向かって。
 ただ、ニーナに勝ちたい、そして、父親に認めてもらいたい、そのためだけに、ひたすら、勉学に励みました。

 けれど、そんな努力にも関わらず、メアリがニーナに勝つ事は、かないませんでした。
 一度も、たった一度も、メアリは、ニーナから勝利をもぎとることが、できなかったのです。

 さて、その日はメアリたち二十六人の娘達の、十回目の誕生日でした。
 その日、ニーナただ一人だけが、狭苦しい部屋の中から出てゆきました。それきり、残りの二十五人の娘達は、ニーナに会う事はありませんでしたし、父親に会う事もなくなりました。
 ついでに、今まであれほど続けられてきた学習も、訓練も、何もかもなくなったのでした。

 かわり、というわけではありませんが、それからは、毎日の食事にプラスして、いくつかの錠剤が支給されるようになりました。そして、何のためだか解らない検査も。
 けれど、残された娘達の中でもっとも利口だったメアリは、だんだんと、その錠剤や検査が、一体何を目的として行われるものなのかに気付いていったのです。

 ある日、Aのアリアが、部屋の外へ出されました。
 そして、二度と帰ってきませんでした。
 
 また別のある日、Bのベリィが、部屋の外へ出てゆきました。
 そして、二度と帰ってきませんでした。
 
 そしてまた、しばらくたったある日。Cのキャシィ。

 Dのディアナが呼ばれた日、メアリは決めました。
 果たして、連れてゆかれたきょうだいたちが、どこへ行ってしまったのか。それを確かめるのです。
 メアリは彼女たちの末路を、うすうす、予感はしていたのですが、未だ、確信には至っていませんでした。
 それに、そんな恐ろしい事を、父親がしているなどとは考えたくもなかったのでした。

 メアリは、ディアナたちのあとを、そっと追いかけてゆきました。
 ディアナは、真っ白なローブ状の服を着せられて、薄暗い廊下を、何者かに手を引かれ、進んでいきました。そして、やはりうすぐらい手術室の中へと入っていきました。
 と、そこへ運ばれてきたのはニーナ。憔悴してはいましたが、あれほどライバル視していたニーナ。見間違えるはずがありません。
 けれど、ニーナの体には、左足がありませんでした。

「あ、ああ……」

 メアリの予測はあたっていました。
 メアリたち、二十六人の娘達は、遺伝子に非常に無理をさせて生まれてきているのです。
 その結果、体が人よりもほんの少しだけ、脆いのです。特に、最も頭の良かった、ニーナは。
 だから、父は考えました。AからZまで、選ばれたたった一人以外の要らない子供達を、ニーナのスペアに利用しよう、と。

 おそらくこれから、ディアナの左足は切り落とされて、そしてニーナに移植されるのでしょう。
 アリアやベリィ、キャシィもきっと、同じ運命を辿ったのでしょう。

 メアリは急いで自らの部屋へと戻り、なかまたちへ訴えました。
「早く、早く逃げよう!みんな、逃げないとニーナのために殺されちゃう、みんな殺されちゃうよっ」
 しかし、メアリの必死の訴えにも、誰も答えてくれません。
 ずっとずっと、誰と遊ぶ事もせずに勉強ばかりしていたメアリは、仲間達の中で異色な存在だったのです。そんな彼女の話を、一体誰が真面目に聞きましょうか。

「ねえ、エヴァ!聞いてるの、次はあなたなのよ! ファリス! その次はあなた! その次はジェネス!」

 誰も、メアリの話を真に受けようとはしませんでした。

「パパが、そんなひどいことするわけないじゃない」
「ねえ、そうだよ、メアリ。メアリはいっつもお勉強ばっかりしてるから、そんな変なこと考えちゃうんだよ」

 メアリは必死で反論します。必死、そうです、ここで説得できなければ、いつの日か、きょうだいたちは死んでしまうのです。あの、ニーナのために。

「ほんとだよ、見たんだ。メアリは見たんだよ! ディアナが連れて行かれるの!」
「あ、聞いたことがあるよ、そういうの。確かねえ、ゲンカクっていうんだよ」
「モウソウ、ともいうんだって、ノイローゼ、ノイローゼ!」

 メアリは愕然としました。自分のきょうだいたちは、これほどまでに、自分と離れてしまっていたのです。
 だから、メアリはただ一人、その部屋から逃げ出しました。
 たった一人で、その部屋から、逃れました。
 二十人……いいえ、二十五人の仲間たちの思い出を振り切りながら、メアリは逃げました。
 父親の微笑みを、よい成績を残した時にだけ頭をなでてくれたそのぬくもりを、振り切るように逃げました。

 メアリは逃げて、逃げて、それこそ、日々の訓練で培った足の速さを生かして逃げました。

 そして……………………




「そして、メアリは逃げ延びて、隣国の学校へ入り、とある、外界と隔絶された場所での研究職につきました」
「それが、君の生い立ち?」
「メアリ・トーラス。一人の女の子の、生い立ちです」
 それが自分の事である、とは言わなかった。
 それは、あくまでも、自分とは無関係な一人の少女の物語。
 メアリは、少なくともここ数年間、そう思って生きてきたのだ。どうして、この物語を、遊歩に聞かせようなどと思ったのだろうか。
 答えはわかりそうもなかったが、とりあえず、このあたたかく、甘ったるいココアのせいにしてしまおうかと思った。
 甘い甘いココアの魔力で、何もかもが遠い出来事になる。霧がかかったかのようにぼやけた物語にしてくれる。
「メアリはね、多分父親の事をとても、とても愛していたの。メアリだけじゃない、アリアも、ベリィもキャシィも、きっとパパを愛していたの。例え、どんな実験に使われようとも。多分、きっと、愛していたのにね……」
 メアリは堅い椅子の上で膝を抱え込んだ。
 この椅子は、不思議とあのころの事を思い出させた。皆同じ規格で作られた、全く同じ椅子。思い出す、全く同じ顔をした自分のきょうだいたち。

「だから、あの人。進藤律とかいう人は大嫌いです。」
 遊歩の手の中には、メアリのものとは違う色のカップ。それが揺れるたびに、ハーブの匂いが漂ってくる。今
 時珍しい、古典的なカモミールの香りが、メアリの鼻をくすぐる。
「あの……さ」
 遊歩は、メアリを刺激しないようにと、慎重に言葉を選んでいるようだった。無理しなくてもいいのに、とメアリは思う。けれど、その無理が、どこかいとおしかった。
 今まで、自分に向けられたことなんて数えるほどしかない、気遣いだとか、優しさだとか、そういうもの。
 STCはあくまでも冷徹に、みなが競い合うような場所だったし、それ以前は。
「いいんですよ、気をつかわなくても。これは、ただのお話なんですから」
 メアリは笑ってみせる。けれども、その微笑みには、どこか自嘲的ないろがあったのかもしれない。
 遊歩はいちど、なんともいえないような複雑な表情をして、それから、メアリの座る椅子の前に歩いてきた。
 その場に中腰になって、メアリと目の高さをあわせる。
「やだ……子ども扱い?」
 昔、児童心理を習った時に聞いた。こどもは、大事な話をするときに、目の高さをあわせると落ち着くものだって。
 けれど、遊歩はそれには答えなかった。ただ、淡々と話し始めた。

「メアリさんは、さ、今、少しでも、好きだって思えるものがある?」
「え?」
「もしも、もしも何か、出会えてうれしいって思えるものが、ひとつでもあるのなら、よかったんだよ、生まれてきて。その、きっかけをつくってくれたのは、お父さんだろう。その、お父さんが、メアリを好きじゃなかったはずはないよ」

 メアリを諭している当の遊歩も、自分のことばを、完全に信じきれてはいないようだった。自分で自分に言い聞かせるような調子に、メアリには聞こえた。
 けれど、その言葉が、メアリを思ってのものだということは、ちゃんとわかった。
 嘘だけど、やさしい嘘。根本的には役にたたないけれど、それでもやわらかいことば。

「はじめて生まれた時に、君だって、たくさんのものをもらっているはずなんだ。この世界っていう、いちばん大きなプレゼントを。もしも、そのあと、なにももらえなかったとしても、それでも、『愛情』っていう名前にたるだけのものを、きっと、もらっているはずなんだ……」

 だから、あいされてないなんてことは、ないんだよ。それが真実じゃなくても。

「実験のために、うまれても、ほんとうに自分が求められて、生まれてきたんじゃなくても。あいされてなかったなんてこと、ないんだ。そう、思っていてほしいんだ。そう、思ってて」
「遊歩さん……」
 メアリは直感していた。この人の中にも、メアリと同じようなものがあるのだと。
 いつまでも残ってなくならない、しこりがあるのだと。だから、彼はこんな風にものごとを言うのだと。

 気がつくと、メアリの手は、遊歩の頭にのびていた。
 大切に持っていたカップが落ちて、床に転がった。と同時に、甘い匂いが部屋を満たした。甘い魔法の匂い。
 それはどこか現実感を失った世界で。この大きくなった少年の髪を、たまらない気持ちでなでまわす。
「今度はそっちが子供扱いですか、メアリさん?」
 遊歩は苦笑しながらも、されるがままになっていた。立場が逆のような気は、お互いにしていたけれど。
「大丈夫ですよ、きっと。わからないけれど、きっと、大丈夫……」
「きみも、大丈夫だよ。大丈夫だから」

 他にいえることがなかった。頼りない言葉を、お互いにくりかえすほかなかった。
 けれど、それこそが、本当は自分の求めていることだった。遊歩も、メアリへと手を伸ばす。
「実験体でも、大丈夫。望まれた子じゃなくても、きっと、大丈夫だ……ぼくらは、ちゃんと生きてる。それだけは、誰にも、否定させない。だって、ほら、手を握ってみれば、わかるよ、ぼくらの中には、あったかい血が流れてるって」
 誰に向けられたものなのかわからなかったけれど、メアリはその言葉を、全身でうけとめた。

 自分が生きている、という事は誰に保証してもらえるものでもない、けれど、遊歩の言葉は心地よかったから。そのまま、身をまかせていた。

 いまは、まだ、お互いの傷をやみくもに舐めあっているだけなのかもしれない。どこにあるとも知れぬ傷に、薬を塗りたくっているだけなのかもしれない。
 それでも、流れる血さえ止めてしまえれば、もう一度、立ち上がって武器を握ることができる。




 遊歩が、ふと、体を離した。
「メアリ、さ、一度ナナに会ってみる気はない?」
「ナナ?」
「……GKP-8.56。通称、ナナ」
「え……」
 確かに、まだメアリは一度も、彼女と顔を合わせたことがなかった。そもそも、会う事が出来るなどと思ってはいなかった。
「会えるものならば」
「もちろん、きっと、メアリならナナも喜ぶ」
 律相手じゃどうか知れないけどね。笑いながら、遊歩は付け加えた。

 それが本気で言われた言葉だったのかどうか、メアリは知らない。




「今日も遅かったね、仕事忙しいの?遊歩お兄ちゃん。その女の子は?」
 部屋へと入るなり、ナナはてけてけと小さな足を動かして駆け寄ってきた。左手にくまのぬいぐるみを抱きかかえている。
「この人が、メアリさん。この間話しただろ、僕の助手になってくれたお姉さん」
「へえ、そっかあ。よろしくお願いしまーす」
「こちらこそ、よろしく」
 ナナに勢いよくおじぎをされて、どうにか微笑みらしき表情を作るメアリ。
 その様子を見て、遊歩はほっと一息ついた。メアリをここに連れてきたことは、どうやら間違いでなかったようだ。ナナの姿は、傷ついた人間をどこか癒してくれるような、ふしぎな力をもっている。

 メアリの告白は、遊歩にとって予想もつかないものだった。しかし、どこか自分の辿ってきた道と重なった。
 父が一方的に愛した機械人形。その擬似的な子供として生まれた遊歩。
 メアリよりはずっと、父親の愛を受けて育ってきたのだろう。遊歩をとおして例の機械人形に向けられていたそれを、愛と読んでいいのかは別として。
 メアリ、父親に選ばれなかったこども。きょうだいのスペアにされかけたこども。父親も、きょうだいも振り捨てて、一人で生きてこなくてはならなかったこども。まだ、ほんの少女。

 痛かった。
 自分の生が父による実験でなかったと言い切れる保証はない。
 だから、遊歩はメアリの話にうたれたし、できることならば彼女に、少しでも楽になってほしいと思った。

 あえて目をそらしてきた。つまづいて、転んでしまったらもう二度と立ち上がれそうになかったから。悩み始めたら、なにもできなくなってしまうと知っていたから、逃げつづけてきた。
 父はおそらく、自分を本当の意味では、あいしていない。

 しかし、遊歩はもう、それを気に病むことをしないように決めたのだ。
 例え、胸の奥がきりきりと痛んでも。立ち止まる代わりに歩くのだと。自分に嘘をついて、気休めばかり口にして、誰かのぬくもりにすがって、今はもうない思い出をたよりに、がむしゃらに生きていくのだと。

 それは、ハルナとの約束でもあった。
 ナナの顔が、一瞬、ハルナと重なって見えて、遊歩は目を細めた。

「今日はね、なんか新しいお友達が出来るような気がしてたの。だから、すごくうれしい」
「よかったね」
「うんっ、遊歩おにいちゃん、メアリさんを連れてきてくれて、ありがとうなの!」
 ありがとう。ナナはくまのぬいぐるみを器用にあやつって、お辞儀をさせた。
 それだけで、この部屋の空気が信じられないほどに明るくなる。これにはさすがのメアリも驚いたようで、かすかな微笑みを口元にもらした。

 ナナはぬいぐるみをかかえたまま、ピンク色のベッドに座り込んだ。いとおしそうに、テディ・ベアのふさふさした毛をかきまわす。足を伸ばしてふらふらとさせる。
「あのね、遊歩お兄ちゃん、最近、変な夢を見るのよ」
「変な夢?」
 その言葉で、遊歩の背中に悪寒が走った。聞きたくない、そう思った。
 ナナは遊歩のことなど気にもとめないかのように話を続ける。あいかわらず、くまの背中をなでまわしながら、ワンフレーズずつ、言葉をかさねてゆく。悪夢のような言葉を。
「あのね。追いかけてくるの。暗い場所で、ひとつだけ真っ白くて、まあるいものが、大きな口をあけて、食べに来るのよ。真っ白くって、大きなまあるいもの。口の中は、なんにも見えなくて、食べられてしまったらいったいどうなるのか、全然わかんないの。必死で逃げるの。いつかつかまってしまうっていうことは、知っているのに、ずっと逃げつづけるの。こんな夢、見たことがなかったの。あたしは、それにつかまってしまうのが、嫌で、つかまってしまえばもう怖くなんてないってわかってるのに、それでも逃げるの。そういう、怖い、怖あい夢なの。ねえおにいちゃん、この夢、どういう意味だかわかる?」
「ナナちゃん!?」
 瞬間、メアリが金切り声をあげた。遊歩はまず、言葉の内容を吟味する前に、彼女の声のほうに驚かされて、身をすくませた。
 メアリは何事か呟きながら、ドアの外へと出て行こうとスイッチに手をかける。わき目も振らずに。
「待って、メアリ」
 手を伸ばす遊歩。
「遊歩さん!ナナちゃんを見ててあげて。こっちは加納チーフの所へ連絡しに行きますから」
「一体何があったんだ、説明してくれよ」
 メアリは足を止めようとしない。遊歩はあせってメアリの腕を取った。瞬間、強く睨みつけられて、遊歩はひるんだ。
「緊急事態なんです。説明してる暇なんてありません」
「それじゃあ僕も、あなたと一緒に加納チーフの所へ行きます。それでいいでしょう」
「でも、ナナちゃんが……」
 躊躇するメアリにかけられる、よく通った声。
「平気だよ、あたしは。おにいちゃんたち、さっさと実由さんとこ行って来て、それから、また一緒に遊ぼう?」
 それを聞くなり、メアリは外へと駆け出した。遊歩もそれを追う。
「ごめん、ナナ! すぐ戻ってくるから!」
 言葉だけ残して。



 すうっと部屋の扉が閉まった。
 これで、部屋の中にいるのはもう、ナナと、それからくまのぬいぐるみだけになった。

 ナナは相変わらず、テディ・ベアをなでまわしていたが、その手をとめた。今度は顔と顔を合わせて、話し掛けてみる。触れ合う鼻。毛が唇をくすぐる。

「おにいちゃんたち、変なの。怖い怖い夢だけど、ほんとはそんなに、怖くなんてないのにね」
『そうだろう、ナナちゃん。怖い事なんて、なんにもないんだ。だから、ゆっくりとおやすみ』

 いつもどおり、何もしゃべらないはずのテディ・ベアは、妙にくぐもった声で答えた。それにあわせ、ナナはちょっと笑う。
「怖い事なんで、なあんにもないのにね」
 ぬいぐるみの体に顔をうずめて言ったその声は、先ほどのくまの声と同じくらいにくぐもって聞こえた。
 あたたかい毛が、ナナの頬を、ゆっくりとさすってくれて、ナナはそのまま眠りに落ちた。

 こわいことなんて、なあんにもない。



 その頃、加納実由は混乱する第二研究室の中にいた。
「もう一度、データをとりなおせ!」
「こんな事あるはずないわ! はやく、GKP-8.56のデータを」
「……どうして、こんな……こんな結果になった?」
 そこら中にディスクやプリントアウトした用紙が散乱している。ばたばたと動きまわる研究者や技術者。飛び交う怒号。しかし、現象にみられる混乱は、彼らの頭の中の混乱よりは、はるかに小規模なものだった。

 冷静になれ、冷静に。熱くなっていても、真実は見えてこない。
 実由は自分に言い聞かせたが、その効果は自分でも疑わしい。冷静になる事など、とうていできそうもなかった。
 ただ、たった一つのことが頭の中をうごめいている。
 こんなこと、あるはずがない。だって、ナナの教育は、完全にストップしている。なのに、どうして? それはおそらく、その場にいた研究者全員の思いだっただろう。

 第二研究室、ディスプレイの上に表示されているGKP-8.56のデータはすべて、途中でストップされたはずの彼女の《教育》が終了している事を示していた。



 遊歩はメアリの手を取って、第二研究室へと急いでいた。
 先ほど律が、第二研究室へナナのデータ記録を指示すると言っていたのを思い出してのことだ。ナナの基本データを取るというのなら、おそらくは加納実由もその場所に居合わせているに違いなかった。
 遊歩は走りながら、メアリに問うた。走りつづけているせいで息切れはしていたが、問わずにいられなかった。
「説明してもらえないか? ナナの言葉の一体どこが問題なのか」
「一人称です」
「え?」
 あまりにも意表をついた言葉に、遊歩の思考は一瞬止まる。
 しかし、そんな事には頓着せずに、メアリは話しつづけた。
「ナナちゃん、……『あたし』って言いました。一人称、使ってたんです。きちんと」
「それが、どういう?」
「わからないんですか? 一人称っていうのは、自我が確立しないと、使えないんですよ。特に機械人形は。三歳半以下の子供が、一人称を使ったのを、聞いたこと、ありますか?」
 そういえば、ない。
 確かに、特殊型機械人形の子供と接した事はそれほどないが、その少ない経験のなかからでも、わかる。
 でも、それは、メアリもじゃないだろうか。
 遊歩は思い当たる。メアリ自身、一度もわたしと言ったことがない。遊歩はひとりごとめかして言った。
「そう、ですね。メアリには、同じ遺伝子をもったきょうだいがたくさんいますから。『わたし』なんていう言葉は、怖くて使えません。メアリが考えた事は、ニーナが考えた事なんかじゃない。メアリが考えた事は、『わたし』なんて言葉じゃ伝えられないんです。『わたし』は複数いるんですから」
 そこまで一気に言うと、メアリは大きく息をついた。苦しげに。しかし、これだけは言ってしまいたいとでもいうように、早口で続ける。
「だからこそわかるんです。『あたし』という言葉が素直に出てきたナナちゃんが、今一体どういう発達過程にいるのか……彼女が、《教育》のほぼ終了段階にいる事は、間違いありません。自我の確立が完了する……。『おとな』に極めて近い状態に。何故だかわからないけれど、ナナちゃんは、機械による《教育》がストップされても、自動的に成長しているんです!」
「……そんな!」
 ナナが自動的に成長している。その言葉の意味が、遊歩には瞬時にわかった。
「それじゃあ、ナナは……」
「ナナちゃんは、このままだと、遅くとも一ヶ月以内に《ゼロ・シンドローム》を発症します!」



 このままでは、ナナは一ヶ月以内に《ゼロ・シンドローム》を発症する!



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