第7章



 その、あわただしい一日から、数週間が過ぎて。結局、遊歩に出来たのは、ただ実由の指示に従って、データの解析に励む事だけだった。
 メアリはあれから何も言ってはこない。雑談を交わすことはあるが、《ゼロ・シンドローム》の犯人という事に関しては、何も。

 それは、つかの間の平和だった。
 豪快で仕事熱心な上司は相変わらず面倒くさい仕事を平気で押し付けてくる。ナナの健康状態にもなんら変わるところはない。まあ、律とは互いに避けあう日々が続いているが、それは仕方のない事だろう。
 絵に描いたように平和な日々。
 しかし、絵の中の平和は、あるとき急に破壊されるのだ。折られたり、落書きされたり、泥の中に突っ込まれたりして、あるとき突然に、平和な情景は全く違うものに変質してしまうのだ。

 嘘と、欺瞞とで塗り固められた平穏は、いつか、必ず終わりを告げる。その事を誰よりもわかっていたのは、ほかならぬ遊歩だった。

 その日、加納実由チーフの命で、対策班のすべての技術者が、比較的広い会議室に集められた。
「今日、みんなに集まってもらったのは、これから私たちが一体どうしてゆくのかを確認するためよ。みんなも知っている通り、このペースが続けば、来週中か、早ければ今週の終わりにナナの全データ解析が終了します」
 それは、前々から聞かされていたことだった。会場内にはどよめきすらもおこらない。
「それで……言い辛いけれども、今のところ、全データの入念なチェックにも関わらず、《ゼロ・シンドローム》の実態どころか、その痕跡すらも、つかめていません。これは、確かに由々しき事態です。」
 問題はそこだった。あれほどの時間と人手を使って、何の成果もあげられていないのだ。

 実由は聴衆の反応を確認すると、ひとつ大きな息を吸ってから続けた。
「しかし、それはつまり……この《ゼロ・シンドローム》というウイルスが、今までの常識とは全く違ったものであるという事を示しています。おそらく……人間の抗体が、何種類かの組み合わせで作られているのと同じように、《ゼロ・シンドローム》ウイルスも、見たところ全く異常のない……初めから機械人形の中に組み込まれているプログラムが、数種類組み合わせられる事によって絶大なる効果を発揮するタイプのウイルスなのでしょう。外からの進入の形跡がまるで見られない以上は、ウイルスがもとからあったプログラムによって成り立っているとしか、考えられません。それも、GKP型、PD型、UZE型、HT型、そしてCGQ型と分け隔てなく感染力を持つ事から推測する限り、どんなタイプでも特殊型機械人形ならば必ず持っているプログラムに、ウイルスは依存していると考える事が出来ます」

 遊歩は手元の携帯端末に映し出された資料に目を通した。
 特殊型機械人形のそれぞれのタイプ別人口統計と、《ゼロ・シンドローム》感染者数の統計グラフ。二つのグラフは、ほぼ重なっていた。どのタイプがより多く、《ゼロ・シンドローム》に感染するというものでもないらしい。

 グラフを見ていると、あの日の事が思い返された。メアリ・トーラスが突如、遊歩の部屋を訪ねてきた日の事が。
 遊歩は、誰にも見咎められる事がないように、そっと唇を噛み、そして進藤律を見つめた。彼はいつもと同じ白衣で、まったくいつもと変わらずに、イヤリングを触りながら何か呟いていた。
 本当に、彼が《ゼロ・シンドローム》を引き起こしたのだろうか。すべての犯人なのだろうか。
 一度沸き起こった疑念は消える事がない。忘れる事はあっても、決して消え去る事はない。
 おそらく、今、遊歩が律へと向けている視線には、疑いが色濃く出ている事だろう。そんな視線、誰にも気付かれたくはない。

「そして、そんな常識外れのウイルスに対抗する手段としては、こちらも、常識外れのアイデアで挑む事、それに尽きます……そこで、我がチームの進藤律氏から、ひとつ、提案があるそうです」

 びくん、そのセリフを聞いて、遊歩の体が跳ね上がる。まるで、実由に自分の疑念を見透かされてしまったように感じたのだ。実際には、そんな事はなかったのだが。
 よく見ると、実由は、何か汚いものでも見るかのように、律を睨みつけているようだった。

「はい」
 律の姿勢は、自分の提案に対する自信にあふれていた。
「《ゼロ・シンドローム》の解析において、最大の問題は、比較対象がないことです。すでに感染したGKP-8.56のデータ解析をいくらやったところで、正常だったころのGKP-8.56のデータが存在しないのですから、比較をする事が出来ません。今までの解析だって、通常のプログラム構造に反している場所がないだろうか、という事を頭に置いた解析だったろうと推測します。そのやりかたでは、この常識外れのウイルスに、対応は出来ません。あいつは、通常のプログラムと全く区別のつかない、人間の目から見ても区別のつかない構造をしているはずです」

 パッ、携帯端末に、資料が映し出される。てっきり、何かのグラフだろうと思われていたそれは、何故こんな所に出てくるのかわからない、少女の全身写真だった。それも、全裸の。
「おいおい律、いくらお前さんでもこれはふざけすぎだろう。」
「こちとらポルノ見に来てるわけじゃないんだぜ」
 すかさず野次が飛ぶ。しかし、律は訂正するどころか、不敵な笑みを浮かべた。目を伏せながら、携帯端末に何がしかを書き込む。
「ふざけてなんていませんよ。そうですね、その画像の、腕のところを拡大してみてください」
 遊歩は言われるままに、拡大の操作をした。とたんに、画面一杯に広がる肌色と、そこに刻まれた黒い文字。
「LIT-001……?」
 そう口に出したのは、遊歩だったのか、別の誰かだったのか。
「そいつは、ぼくが秘密裏に作っていた、特殊型機械人形です。製造番号は、LIT-001。どのタイプとも違う、僕のオリジナルですが、特殊型機械人形としての能力は存分に備えています」
「それが、この場でいったいどういう……」
 質問しようとした男は、何かに気付いたかのようにはっとして、それきり黙りこんだ。
 嫌な予感がしていた。律は、きっと恐ろしい事を言うのだろう。遊歩などには想像もつかないほどに。
「先ほど、GKP-8.56では、比較対象がないから、存分なデータの解析が出来ないといいました。それならば、比較対象を作ってやればいいだけの話です。幸い、このLIT-001のデータは、製作者であるぼくが完全に管理しています。ですから、正常な特殊型機械人形であるLIT-001を、すでに《ゼロ・シンドローム》に感染しているGKP-8.56と接触させれば……」
「おそらく、《ゼロ・シンドローム》はLIT-001にも感染する。そして、そのデータを、正常な頃と比較すれば、《ゼロ・シンドローム》の鍵となる文字列を、見つけ出す事ができるかもしれない…そういう事よね、進藤氏?」
 実由が、形の良い眉をひそめながら、律の言葉を引き取った。
「ええ。比較するデータがあるのなら、解析もずっと簡単になります。二つのデータをすべてつき合わせて、変化が見られたところにだけスポットを当てて調べればいいのです。今のやり方よりも、ずっと楽になりますよ」
「そんな!」
 途端に声があがった。遊歩は、その声を呆然と聞いていた。
 あれは、一体誰の声だ? 律は何を言っているんだ?
「そんなの、人道に反します! いくらウイルスを突き止めるためだって、それは、ひとつの命を実験台に使う事です! 機械だって、自分が生きているという事を、自覚しているんですよ!」
 しかし、律は動じない。
「いいですか、人間は今まで、新しい薬が開発される度に、さんざん動物実験を繰り返してきたんです。それで、一体どれだけの命が失われたのか、あなたは知っていますか? それどころか、動物実験が利用できない時には、人体実験すらも行われたのですよ。数百年前に起こったとある伝染病が、当時の企業の大規模な人体実験によって引き起こされたのだ、という話は聞いたことがあると思われますが」
 とうとうとした演説。あくまでも自分は正しい。そういう口調だった。反論はそれだけで押さえられてしまった。何も言い返せない。
 もちろん、遊歩自身も何も言う事が出来なかった。

 見かねて、加納実由は口を挟んだ。
「進藤氏。あなたはLIT-001をオリジナルの特殊型機械人形だ、といいましたよね? 通常街に出回っているのと違うタイプであると言う事は、調査の障害にはなりませんか?」
「ぼくのLITタイプは、GKP型、PD型、CGQ型の良いところを組み合わせて造ってあります。これらのタイプが感染するのですから、おそらくはLIT-001も同じでしょう」
「なるほど、で、感染しなかった場合は」
 くしゃり、実由は自分の黒髪をつかんだ。
「それは、別の方法を考えるしかないでしょうね。加納チーフもよくおっしゃるじゃないですか。『研究なんて、駄目でもともと』。けれど、この作戦を取った場合、もしも結果が芳しくなくとも、時間的、物質的なリスクは少ないですよ」
「ほかに、質問事項がある方は?」
 感情のこもっていない声で、実由は問いかける。それは、司会としての責任だった。

 特殊型機械人形を利用した実験のことは、実由自身もちらりと考えた事があった。それが最も手早く、《ゼロ・シンドローム》の原因を突き止める方法だろうと。
 しかし、その実験の持つ意味を考えれば、どうしても自分の方から提案する事などできそうもなかったし、したくもなかった。
 遅かれ早かれ、進藤律でも他の誰でも良い、誰かから「人体実験」をすればいいという意見がでるだろう。そう、予想はしていたけれど。
「ほかに、質問や、反論のある方は?」
 知らず知らずの内に、反論、に力がこもっていた。
 誰かに、進藤律を……そして、彼に賛同してしまいそうになる自分を止めてほしかった。

 誰も、何も言わなかった。そのまま、数分間が過ぎた。

 実由は救いを求めるように場内を見渡したが、誰もが自分と同じような瞳をしていた。
 困惑し、誰でもいい、この空気を打ち破ってくれる人間を求めていた。
「それでは、意見等ありませんようなので、一度、この会議を終了したいと思います。この続きは、明日、午後一時から行います。明日は採決に入る予定なので、遅刻しないように……閉会、します」
 ため息まじりの声だった。



 ガタガタガタっ。

 皆が一斉に席を離れた。この忌まわしい場所から早く立ち去りたい、とでもいうように。
 実由も同じ気持ちだったが、責任者である彼女は、ここに最後まで残らねばならなかった。
 全身の疲労が、一度に襲ってきたような気がして、実由はふかふかとした椅子の背もたれに体をあずけた。

 そんな彼女の隣に、何者かが歩み寄ってきた。会場の中でただ一人、晴れやかな顔をしている。
「進藤、君ね」
 気付かないうちに、吐き捨てるような調子になっていた。
「ええ、どうでした、俺の提案は」
「見事、だったわ。進藤君、昨日言っていた事は、本気だったのね。冗談なんかじゃ、なくて」
 実由が律を見上げる瞳は、まるで恋しく手の届かない人を見る少女のよう。切なさを存分にその中へと込めて。狂おしいほど、涙が出そうになるのをこらえて。
 こんな瞳を見るのは、律のほうも初めてだった。
「本気、ですよ。俺は初めから、そうすればいいと思ってたんです」
「律!」
 実由は、このとき初めて、彼の名を呼んだ。ひとり、心の中でも呼んだ事のなかったその名。
「あなたが、これまで、こそこそと……どこかと連絡を取っていたのは、この日のためだったの?」
 イヤリングに実由の指が触れる。普段、キーボードにばかり触っている実由の指。
 イヤリングは奇妙にひやりとしていた。球面に従い、なめらかに青い光を反射する。
「それ、小型の通信装置よね……外界政府の。昔、見たことがあるわ」
「なんだ、気付いてたんですか。さすがチーフ」
「ちゃかさないで。」
 目をそらす律に、ぴしゃり、一言。
「その通信機で、一体誰と話していたの? 《コミュニティ》外の人間?」
「さあ、ね……」
 律はいいながら、すたすたと歩いていった。開きっぱなしのドアをすり抜けて、真っ白な廊下へ。律の白衣がその壁の色へと溶け込む。
「あっ、進藤君ちょっと……」
 律の方へと伸ばしたその手は、決して、彼の背中に届かなかった。
 後を追わなければ、と考えたが、実由の体は、まるで椅子に縛り付けられてしまったかのように動かない。身動きが取れない。立ち上がる力は残っていない。

 実由は、このときようやく自覚した。自分には、どんな力もないのだと。
 律の行動をとめる事が出来る、どのような種類の力もないのだと。




 それと同じ頃。
 遊歩は白い壁にもたれかかって、進藤律を待っていた。なんのためかは知らない。今更彼に会ったところで、何を問いただす事が出来るのかわからない。
 おそらく、彼を目にした途端に頭の中がまっさらになって、何もいえなくなるのが関の山だ。しかし、それでも遊歩は律に会っておきたかった。

(本当は、もっと早くに、こうするべきだったんだ)
 メアリがやってきたあの翌日にでも、彼を問い詰めればよかった。それをしなかったのは、ほかに言いようもない、遊歩の逃げだった。
 嘘でもいいから、平穏な日々を送りたい。遊歩の逃げだった。しかし、もう逃げる事もできない。

「くそっ……」
 律を疑いたくはなかった。いや、信じたかった。
 皮肉ばかりで、自分とはどうしてもうまが合わないと知っていた相手であっても、遊歩はおそらく律のことが好きだった。だから。
「律……」
 言葉が出てこない。独り言ですらも。
 遊歩はなすすべもなく、拳を壁に叩きつけた。いつか、律をこうして殴ったのと同じように。あの時よりもさらに、握った手が痛んだ。じんじんと、遊歩を責めたてるように。

 そのとき。カツカツカツカツ。足音が響いてきた。
 小刻みのリズム、今までに何度も聞いた、律の足音だ。
 その足音を、これほど待ち遠しく、そして憎らしく聞いたことは今まで一度もなかった。
「よぉ、遊歩。やっぱり待っててくれたんだな」
 心の底から、嬉しそうに微笑む。嬉しそうに、楽しそうに。
「それでなきゃ、面白くない」
「律……お前……」
 やはり、言葉は遊歩の中をひたすら渦巻くだけで、形になって出てこようとはしなかった。言いたい事はたくさんあるはずなのに。音となって出てくるのは
「律……」
 ただ、その名前だけ。
「俺は、前からこうすれば良いと思ってたんだ。お前が、本当にGKP-8.56のことを救いたいのなら、そうするべきなんだよ、遊歩。ほかに、方法なんてない。お前には出来るか、GKP-8.56を救うために他の『命』を犠牲にする事が」
「……」
「そうでもなけりゃ、救いたいなんていう大上段に構えたセリフ、言うもんじゃない」
 何も言えなかった。

 本当に自分は、ナナを救うのか。
 律の問いを反芻する。もし、そのために他の誰かを犠牲にする事があっても、ナナを救いたいと願うのか。
 思い返されたのは、抱きしめたナナのぬくもり。確かにそこで生きている、それを主張する体温。
 そして、昔、父の古めかしい研究室で触った、金属のボディの手触り。その冷たさ。生命の息吹など何も感じられない、その金属的な光沢。

 ナナを、あんな風にしてしまうのは、絶対に許せなかった。
 ハルナとの想い出にかけて、それは許すべからざることだった。ナナの命だけは、救わなければならない。何よりもまず、自分のために。
 もしもハルナが生きていたならば。ナナの命を救うために他の命を犠牲にするなど、決して許しはしなかっただろう。しかし、今はもう、ハルナはいない。
 遊歩は、ナナに生きていてほしい。ナナのぬくもりを、失いたくはない。冷たくなってしまったハルナ、何もしてやれなかったハルナ。
 ……あんな思いは、二度としたくない。

 喉の奥のほうに、何かがつかえていた。それを空気とともに押し出すように、遊歩は言う。
「救い……たいさ」
「そっか。」
 あっけないほど簡単に、律は頷いた。
 にやりと笑って、遊歩の頭にポン、と手を置く。それは、何か大事なものに触れるかのように?
「本当にお前は面白い奴だよな」
「ふざけるな」
 その手を振り払う。
「俺はいつだって本気だ」
「……律、僕は、お前を許したつもりはない。それに、お前への疑いだって、晴れたわけじゃない。けれど」
 遊歩はナナを救わなくてはならないのだ。ハルナのためではなく、自分のために。
「けれど、《ゼロ・シンドローム》の治療法確立には、お前が必要だ」
 それを認めるのは、この上なく悔しかった。
「ふん、そういうこったな」
 休戦協定。
 たとえ、《ゼロ・シンドローム》のすべてを律が握っているのであっても、ナナを救うためには、彼の協力が必要なのだ。
 律が差し出した右手を、遊歩は軽く握って応えた。その手は、思いのほか熱かった。
「せっかく遊歩の賛同が得られたんだ、俺はさっそく、GKP-8.56のデータを取るように指示してくる。比較検討は、彼女のほうにも必要だろ。そうだな……第二研究室あたりが適当かな」
「ああ」
 遊歩が頷くと、律は右手をあげながら背を向け、来たときと同じ軽快な足音で去っていった。




 遊歩は先ほど律と握り合った手を見つめた。白い壁に寄りかかった。
 その姿勢のまま、大きく呼吸する。心臓がばくばくいっているのがわかる。
 はがゆかった。律に頼らなければならない自分が。
 髪の毛をぐしゃりとつかんでみる。ひっぱってみる。けれど、何も変わりやしない。

 その遊歩の腕を、なにかやわらかいものがつかんだ。
「嫌いです。あの、律って人」
「その声は、メアリさん?」
 彼女の到来は、いつでも突然だ。ふと甘いキャンディ・ヴォイスが聞こえて、いつも遊歩は驚かされる。気配を消して忍び寄るのが上手いのかもしれない。
「嫌いです。仮にも自分の娘を、実験台に差し出すなんて」
「娘……って」
 困惑する遊歩の腕に顔をうずめながら、メアリ。言葉とともに、吐き出す息は荒い。洋服をまくった腕に感じる、湿った空気。
 メアリは、感情を押し殺そうとしているようだった。けれど、その声は震えていた。
「娘、ですよ。自分の手で作り出したんだから。その、娘を、実験台に使う人なんて、嫌いです。だいきらいです」
 何か冷たいものが腕に走った気がして、遊歩はぎょっとした。冷たい液体が、腕をつたって流れる。これは、涙だろうか。あの、メアリの?
「メアリさん?」
「許せない。娘のほうは、まだ、父を愛しているのかもしれないのに。そう、愛してるの、お父さん、だから、絶えているのかもしれないのに」
 急速に、クレッシェンド。狂おしいまでのクレッシェンド。
「耐えているのに。何をされたって父親は父親だから。許せない。許せない……どれだけひどい扱いを受けても、それでもパパを愛してるのに!」
「メアリさんっ!」
 遊歩はメアリの顔を、無理やり自分の方へと向けた。
 その顔は、あふれ出る涙でぐしょぐしょに濡れていた。まるで、今まで流さなかった涙の分を、一度に放出しているかのように。次々に。それは滝か何かのよう。メアリ、か弱い少女などではおぼれてしまう。
「落ち着いて…頼むから、落ち着いて。とりあえず……どこか座って」
「アリアも、ベリィも、キャシィも、ディアナも、みんなみんな、パパのこと愛してたの。でも、パパには誰も必要なかった! メアリ、メアリも、必要としてもらえなかった!」
 叫ぶ、全身の力を込め。今までこらえていたすべての哀しみをふりしぼって。
 遊歩はたまらず、その体を抱きしめた。まるで、音叉かなにかを抱いているよう。受け止めきれないほどの音の塊が、彼女から発せられている。
「……パパ!」
 遊歩がそれに巻き込まれてしまいそうになったとき、大きな音を立てて、メアリの体が崩れ落ちた。
 白い床の上、人形のように横たわる体。無機質なほどに白い肌。すべる涙。

「メアリさん……メアリ!」
 遊歩はその体を揺さぶったが、彼女は目を開かない。
 彼女の視界を外界からさえぎっているまぶた。はえているまつげにそっと触れると、それだけで涙の雫が指先にのった。真珠のように、それともガラス珠のように、きらきらと光を跳ね返す。
「メアリ……」
 まだ、メアリはあたたかかった。その体温を確かめてから、遊歩はその体を両手に抱え、歩き始めた。
 慣れないことをしているかのように、おぼつかない足取りではあったが。



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