第6章



 自分の部屋に戻ってからも、遊歩はよく眠れずにいた。
 専門書を読んでも、クラシック音楽を聴いても眠れない。頭の中を何かうるさいものが駆け回っているようで。耳元をちいさな蝿が飛び回っているよう。本来ならごく小さなバグ、なのにそれは、いつの間にか、もう取り返しのつかないミスになる。
 机の上、まだ青く光っているパソコンの画面の隣には、もうぬるくなってしまったハーブティが置かれている。
 パソコンの発する振動がわずかに、その表面を揺らしている。いつもならこれを一杯すするだけで、体が温まってよく眠れるのに、今日はせっかく入れた茶を飲もうとする気にさえなれない。

(このハーブティも、ハルナが教えてくれたんだっけ)
 無農薬で、まったく遺伝子操作が行われていない、昔からの伝統の味。カモミールにレモングラス、ローズヒップ、ミント。
 彼女の口からはいくらでもハーブの名前が出てきて、遊歩は驚いてしまった。中でもハルナはこの味が好きだと言った。緑がかった透明の中、ティーカップの底の花弁模様が浮かんでいる。体のどこかがなつかしく、安らげる匂い。
「これを飲めば、とてもよく眠れるの」
 はじめは、苦くて、飲みやすさもなにもあったものでないと思った。当たり前だ、味の調整も何もなされていない、そこらに生えている草そのものの味。
 けれど、ハルナにいれてもらっているうちに、いつの間にかなじんでいた。
 一日の疲れを癒してくれる、あたたかいハーブティ。まったく無機質なものばかりでうめられた部屋の中で、たった一つだけ命の匂いを発している。
 けれど、それももう冷たく冷え切ってしまった。

 早く眠りに着かなければ。わかっている。明日の仕事もきついだろう。寝不足の身ではろくな作業も出来ないはずだ。
 わかっている、それなのに今日はハーブティを飲む事すらもできない。
 頭の中で律の言葉がぐるぐると回っているのだ。

 もうじきナナは死ぬ。

 そんな、根拠も無い言葉なのに、どうしてこんなにも不安ばかり募るのだろうか。
「ナナ……僕は、君に何をしてあげられるんだろう」
 膝を抱え、ベッドの上でまるくなる。
 ナナのものとは全く違う、白くそっけない研究者用のベッド。ふかふかとしているわけでもなく、心地よい温かみがあるわけでもない。
 ここでは、今ナナが何をしているのか、想像のしようも無かった。

 遊歩は、そのときどうしようもなく一人だった。自分の手を握り締めてみても、やはり一人だった。
 (寂しい、のだろうか。長らく使っていなかった言葉だけれど)
 ハルナの思い出に浸りたくとも、彼女がもういない事を思い出した途端すべてが凍り付いてしまうようで。

 リン、ゴーン。

 ふと、聞きなれたチャイムの音がした。来客を告げるチャイム。
 まずはじめに、律の顔が浮かんだ。律の、ものごとを何もかも見透かすかのような瞳。
 すでに戦う気力も無くしている遊歩を、完膚なきまでに叩きのめすため、今ごろ訪ねてきたのだろうか。
 しかし、インターホンから流れてきた声が、その不吉な想像をかき消した。

「遊歩さん…いらっしゃいますか」
 聞き覚えのある甘いソプラノ。慌てて映像をオンにすると、そこには、かの美少女、メアリ・トーラスが映っていた。
 まったくもって迫力のある美少女、こんな夜中に見るものではない。少しばかり刺激が強すぎる。
「な、なんでしょう」
「ちょっとお話があるんです。部屋に入れてもらえませんか」
「部屋、って……」
 遊歩はすでにぼさぼさになっている頭をかいた。いくらなんでも、この時間帯に女の子を部屋にいれるのは、まずいだろう。
 そもそも、この寮では、午後十一時以降の男女の部屋の出入りは禁止されているのだ。パソコン脇の時計の表示時刻は、午前一時四十六分。立派な規則違反である。
 (もっとも、チーフである加納実由が「特例措置よ!」と言っては部屋に押しかけ、ひとしきりコンピュータをメンテナンスしたりデータを取ったりして出て行くことは多々あったので、そんな規則はなし崩しになっていたのだが。しかし、そんな特例が使えるのも、実由のような仕事一直線人間だからこそであろう)

 メアリを見やるが、形のよい唇はやはり結ばれたまま。
 その顔からは一体どんなつもりがあってここまで来たのかは読み取れない。
 しかし……遊歩は頭を抱えた。こんな美少女、部屋には入れたくない。もしも誰かに見咎められたりでもしたら、一体どんなそしりを受けるか。
「お話って、立ち話じゃいけないようなことですか」
「当たり前です。女の子をこんな所に立たせておく気ですか」
 メアリは心なしかむっとしたように(それも、本当に微量な声音の変化ではあったが)言った。
 溜め息が出る。どうしてここには、こう無頓着な女が多いのだろう。確かに、ハルナも多少そういうところがあったが……まさか、日常的に機械人形に接しているせいで、感覚が鈍っているという事はあるまい。
「メアリさん、さすがにこの時間では」
「緊急の用件です。《ゼロ・シンドローム》についてお話があるんです」
「……入って」
 《ゼロ・シンドローム》。
 その単語を聞いた瞬間、遊歩は反射的に扉を開けるスイッチに手を伸ばしていた。

 一秒もたたないうちに、すっと自動ドアがひらき、先ほどまで映像で見ていたままのメアリの姿が、遊歩の目前に現れる。
 きっちりと白衣を着込んだ、まるで仕事中と同じ彼女。まさか、今の今までデータに携わっていたのだろうか。

「夜分遅くにすみません。どうしても話しておかなければならないと思ったので」
「どうぞ、座ってください」
 扉が開くなり前口上をはじめてしまったメアリを押しとどめ、遊歩は部屋の中へと案内する。ちょうどいい具合にあつらえられたソファを指差す。
「ええと、ココアなんかでいいかな」
「お構いなく」
「いや、僕が飲みたいだけだから。とりあえず、嫌いではないね?」
 メアリの返事は無かったが、肯定として受け取っておく。
 もしも今まで仕事をしていたというのなら、おそらく疲れていることだろう。それならば、すこし甘めの濃いココアに。
 遊歩が少し手際悪くその作業をしている間、メアリは黙って椅子に腰掛けていた。それこそ、身じろぎ一つせず。
「それで、話というのは」
 暗い部屋の中。白衣を着た金髪碧眼の美少女にココアを出している男。考えてみれば奇妙な図である。しかし、そんな考えを遊歩はすぐさま振り払った。
 メアリはさっそく、といった様子で、白衣のポケットからディスクを取り出し、遊歩のパソコンのドライブに挿入した。
 起動音がして、スタンバイ状態だったシステムが立ち上がる。

「これを、見てください」
 メアリはあくまでも、淡々とした口調を崩そうとしない。遊歩は白く発光する画面を覗き込んだ。
 一体どんな複雑なプログラムが出てくるかと思いきや、初歩的な表計算ソフトで製作されたグラフである。わざわざ色使いまで考えられて見やすく仕上がっている。
 拍子抜けしたが、その内容をじっくりと眺めてみると。
「メアリ、さん、これは……これじゃまるで……」
「《ゼロ・シンドローム》の感染経路は、全く解っていません。しかし、一つ一つの患者の共通点をすべて調べてみると、すべての患者、とは言いませんが、ほとんどの患者が、自らの出生の時以外に一度以上、この生殖サポートセンターを訪れています。これは、センターの記録に残っていますから、確かです」
 メアリの声には、何の感情も込められていないかのように思われた。ただ、事実を述べているだけの声。
 ディスプレイ上のグラフの中で、一つだけ飛びぬけて大きくなっている項目は…特殊型機械人形生殖サポートセンター。遊歩たちの職場そのものである。
「そして、サポートセンターを訪れていない患者も、どこかしらで、彼らとデータ的な接触を持っています。これは、何を意味するのでしょうか」

 何を意味するのでしょうか。
 そんな事、言われなくともわかっている。解りたくなくとも解ってしまう。
 遊歩はいやいやをするように首をぶるんと横に振った。しかし、そのグラフの示すデータはまったく変わらない。変わるはずがない。
「ねえ、でもメアリさん。これは、ひょっとしたら偶然なのかもしれないよ。」
「生殖センターを訪れていない者の《ゼロ・シンドローム》発症率は五パーセント。逆に、ここを訪れた者の発症率は、五十九パーセントです。これは、有為な差だと思われますが」
 有為も有為、ここに《ゼロ・シンドローム》の謎を解く鍵が隠されているのは明らかだった。
 しかし、それでも遊歩は、そんな事、信じたくは無かったのだ。ディスプレイは、正直だ。ディスクの中にこめられたデータ以外には、何も言おうとしない。そしてまた、メアリ・トーラスも。
 メアリの整った顔が、急に憎らしく思えた。その唇は、確かに真実しか述べる事がない。しかし、それがどれだけ人を傷つける真実であっても、彼女はそれを臆することなく、伝えてしまうのだ。それこそコンピュータのように、パスワードさえ入力すれば、配慮も何もする事が無い。

「くそ……」
 律の顔が目の奥に浮かんできた。何もかもを蔑んでいるかのような瞳が、遊歩の心を捉えてはなしてくれない。
 考えたくなくても考えてしまう。彼がすべてを仕組んだのではないか? 《ゼロ・シンドローム》にまつわる現象のすべてを。
 そう考えれば、何もかもつじつまが合う。あれほど高度なウイルス、もともと特殊型機械人形のシステムを熟知していなければ、造れるはず無いのだ。あんなものが自然発生したという事も考えにくい。それならば、確かにこのコミュニティ中央管理局の関係者が、製作に関わっているとした方が話は早い。しかも、律はその中でもとびきり腕のいい技術者なのだ。

 もしも、律がすべての犯人だとしたら。
 遊歩はもう一度、首をぶるぶると振った。嫌な考えを振り払うように。
 こんなことは、加納実由には聞かせられない。彼女は、誰かを疑う事をなによりも嫌っている。それが真実から目をそらす事であったとしても。実由だけではない、同じチームで研究している人間には、誰にも聞かせられない。

 追い討ちをかけるように、メアリの淡々とした声が部屋中に響く。
「もう一つ、見ていただきたいデータがあるのですが。今度は、センター内で《ゼロ・シンドローム》発症者を担当した人間に関する統計です」
「……メアリ!」
 やめてくれ、と遊歩は言った。
 体の横に握った拳が、いつの間にか震えていた。
「もう、いいよ。ありがとう、君の言いたいことは、よくわかった」
  もういいんだ、もういいんだ、遊歩は繰り返しながら、未だキーボードから指を離さないメアリの肩に、手をかけた。
 しかし、メアリは、その手を振り払う。
「遊歩さんはわかっていません。病気の箇所は、取り替えてしまえば良いんです。そうすれば、また正常な生命体として生きていけるんです。そうしなければ、異常な部分はどんどんと、正常な部分を侵食していくんです。そこのところ、わかっていますか?」
 メアリが苛立っている。それは当たり前の事だろう。遊歩の優柔不断さが、新しい《ゼロ・シンドローム》患者を発生させる事になるかもしれないのだ。これは、個人の感情の問題ではない。それは、遊歩にもわかっている。
「わかってる、よ」
 否、理解してなどいない。メアリの言葉を理解など、してはいない。理解などしてはいけない。
「どうしてです? このまま彼を放っておけば、《ゼロ・シンドローム》の被害が増えるばかりなんですよ?」
「……なあ、メアリ、わかってくれよ。僕達の仕事は、《ゼロ・シンドローム》の黒幕を見つける事じゃない。大方、あいつ…その、うちの技術者の中の誰かだって、ただの実行犯なんだろう。けれど、それを問いただしたって、どうにもならないんだよ。僕らがすべきなのは、何よりも、《ゼロ・シンドローム》の治療法を見つける事なんだ。だから、そんな……犯人探しなんて、しないでくれ」
「本当に、おめでたい人ですね。」
 メアリは、唇を持ち上げて笑った。くすくすと、本当に愉快そうに。
「あなた、今、自分でいいましたよ。あなたには、犯人の心あたりがあるって」
「え……あ!?」

 メアリの細い指が、再びキーボードの上にかかる。
 カタカタカタ、小気味の良い音を立てたあと、ディスプレイ上のグラフはその姿を変えた。あまり変化の無い、均等なグラフに。
「こちらのグラフ……患者を担当した人間と《ゼロ・シンドローム》感染発症率の関係については、なんら有為な差は認められませんでした。残念ながら、ね」
 いつのまにか、通常の淡々とした話し方に戻っていた。先ほどまで、あれだけ感情をあらわにしていたというのに。
 それとも、あの口調すらも、演技の一部だったのだろうか。
「ねえ、メアリ……さん、君は一体」
メアリはそれに答えず、いつも以上に感情のこもらない声で言った。
「病気の部分なんて、さっさと切り捨ててしまえば良いんです。そうでなければ、個体は生き延びる事が出来ません。優れた個体を生き残らせるためには、仕方のないこと、なんです。古びた機械の部品も、すぐに交換しないと、他の部分にまで被害をもたらします」
「ああ」
 それは、そうだ。機械工学にしろ、生物学にしろ、基本中の基本だ。腐った林檎の近くに真新しい林檎を置いておけば、新しい林檎は腐ってしまうのだ。それは、事実として知っている。

 ガシャン。ディスクが飛び出して、メアリの手の中に戻ってゆく。あの中に、先ほどのデータがあるのだ。そう考えると、ふとそれを破壊してしまいたいような誘惑にかられた。
 しかし、そんな事をするだけの度胸が自分に無い事も、また、遊歩にはわかっていた。
 表示するべきディスクを失ったディスプレイは、まるでメアリの瞳の色と同じように、青い。暗い部屋の中で、ただそれだけが発光している。

「このデータが、遊歩さんのお役にたつことを、祈っています」
 メアリは、ただそれだけ口にすると、遊歩と、そして銀色のディスク一枚を残して、さっさと扉から出て行ってしまった。
 心残りなど、微塵も無いかのように、あざやかに。

 結局、遊歩の入れたココアは、一滴もメアリの口に入る事なく冷めてしまった。
 冷めたココアと、ハーブティ。遊歩は、ほとんど無意識に、二つのカップを流しにあけた。
 甘ったるい匂いと、薬くさい匂いが一度に襲ってきて、遊歩は危うくもどしそうになった。



BACK NEXT NOVELS INDEX



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送