第5章



 ナナは星や動物の壁紙で彩られた部屋の中、瞳を閉じて横たわっていた。
 小さな窓から入ってくる光が、ナナの桃色の頬を彩る。その部屋には彼女のほか、誰もいない。ナナはまだ子供であり、《ゼロ・シンドローム》が発症するという事は無いのだが、万一のときのため、ここに隔離されている。

(あいも変わらず、嘘くさい部屋だ)
 遊歩は部屋に入った途端にそう思った。子供という言葉のイメージから組み立てられた部屋。ナナは普通の意味の子供とはちがうというのに。
 ピンク色のベッドの上に放り出してあるテディ・ベアが、ことさらにそれを主張している。
 ナナは、今、子供である事を強制されているのだ。生きてゆくために。

「今日は遅かったね」
 いつの間にかナナは体を起こしていた。ふかふかとしたベッドがその重みでへこんでいる。
 遊歩はその隣に腰掛けた。
 ナナの着ている簡素なパジャマに、ほんの少し、指先が触れる。
「ちょっと仕事に熱中しちゃってね。」
 仕事が一段落した後、こうして、ナナの部屋を訪ねるのが、いつしか遊歩の日課となっていた。
「ナナは今日も、お絵かきして遊んでた。今日はね、そこに転がってるくまさんの絵を描いたの」
「今日もくまさん?」
「うん、だってこの部屋、他に描きたいものが無いんだもの」
 ナナに与えられたものは、大きなスケッチブックと、いくつかのぬいぐるみたちだけだ。
 娯楽と呼べそうなものは、ほとんど部屋の中に無い。立体テレビも、ステレオも、本も、コンピュータも何も無い。それらはひょっとすると、ナナに子供が持つ以上の知識を与えてしまうかもしれなかったから。それが、《ゼロ・シンドローム》発症の引き金になってしまう事が考えられたから。
 だからナナは、この部屋に隔離されたのだ。大人が押し付ける子供のイメージそのままの、甘ったるい部屋に。

「くまさん、ナナは、くまさんが一番好きなの?」
「好きっていうか、他のぬいぐるみは、違うもの。ほかのぬいぐるみ描いてても、あんまり楽しくない。ナナにとって、くまさんは特別だから」
 ナナはそう言うと、スケッチブックをベッドの下から取り出そうとする。
 スケッチブックはナナの体一つくらい載ってしまうのではないかというほど大きい。ナナが運ぶ時には、もうほとんど抱えているといってもいいくらいだった。
 遊歩は見かねて、少し手伝ってやった。いっせーので表紙を持ち上げ、スケッチブックを開く。

 大きな画用紙の上には、小さな女の子とくまが手をつないで、空を飛んでいる絵があった。
 子供が描いたといっても信じてもらえないような、随分と整った絵だ。何かの絵本にでも使えそうな。
 描かれた青空は、この部屋のちっぽけな窓から見えるそのものだった。精密に写し取られている。大小さまざまな雲の切れ端も、わずかにのぞく太陽の色合いも、そのままに。変化の無いこの部屋の中で、唯一見られる変化。唯一の価値あるもの。青空の色。
 くまと手をつないでいる少女は、おそらくナナ自身なのだろう。
 その青空を見て、遊歩は、ハルナが好きだと言った薔薇の色を思い出した。揺れ動く青空をそのまま写し取ったという花弁の、スカイブルーコーラス。

 青空と、くまのぬいぐるみと、そしてスケッチブック。
 ナナにとっての世界は、今、たったそれだけだ。
「ナナ、空を飛びたいと思う?」
「……え?」
「こんな絵を描くんだから、空、飛んでみたいとか、思ってるのかなって」
 あの窓から空を飛んで、ここから逃げ出したいとか思ってるのかなって。
 けれど、彼女はきょとんとして遊歩を見返した。遊歩の言った意味がいまいち理解できていない様子だった。
「ナナは、空が飛びたくて、この絵を描いたんじゃないよ。ただ、くまさんと相談してこの絵を描いたの」
「そうだん?」
 あまりに意表をついた言葉に、遊歩はおどろいた。
 確かにナナはまだ教育を終えていない。しかし、ぬいぐるみがしゃべるなどという事はない事くらい、わかっているはずなのだが。
「あっ……ええとね、本当は、これ、くまさんとの秘密なのよ。でも遊歩おにいちゃんには教えてあげる。」
 ナナは少々慌てている。言い訳をするように早口になる。
「くまさんはしゃべれるの。ナナに、いろんな話を聞かせてくれるの。それで、ナナはいつも、そのお話を絵に描くのよ」
 ふかふかとしたテディ・ベア。ナナはそれを抱きかかえて、いとおしそうになでた。
 その様子は本当にただの子供のようで、小さな少女が自分の夢を語っているだけのようで。
 しかし、ナナはそういった、夢見がちにすぎる子供ではなかったはずだ。

「くまが、しゃべるだって?」
 どうしても解せない。
 しかし、よくよく考えてみれば、ナナの絵にはストーリー性のあるものが多かった。今日の空を飛ぶ絵や、ちょっと前には舞踏会の絵。本を読む事のないナナは舞踏会など、知らないはずなのに。
 (確かに、三年の教育期間中に、似たような話は聞かせたのかもしれないが、しかしそんなものを、今になって絵に描くだろうか?)
「ほんとうよ。信じてくれないの?」
「信じてあげたいけど」
「じゃあ、遊歩おにいちゃんもくまさんと話してみればいいよ」
 ずいっ、ナナは遊歩の前にテディ・ベアを突き出す。心なしか怒っているように見えた。遊歩は仕方なく、ぬいぐるみを受け取り、話しかけてみる。
「どうも、はじめまして、くまさん。僕の名前は的場遊歩です」
 声が多少投げやりなのは仕方ない。思ったとおり、ぬいぐるみからは何の反応も無かった。ただただ、つぶらな瞳で遊歩を見つめているばかりだ。

「だめ?」
「ぜんぜん駄目。何も言ってくれないよ」
「変なの。ナナが話しかければいつも答えてくれるのに。やっぱり、大人に見せちゃ駄目って言ってたからかな。遊歩おにいちゃんなら大丈夫かなって思ったのにな」
 ナナは心底残念そうに、ぬいぐるみを遊歩から受け取ると、ベッドの上に座らせた。首に巻かれた赤いリボンが、つやつやと光を反射していた。
「遊歩お兄ちゃん、内緒ね。くまさんが解剖されちゃったら、ナナはいやだから」
「……わかった。努力する」
 遊歩は諦めたように言い、座っているくまをなでてみた。思いのほか、固い感触がした。

「そうだ、今日は変わったニュースがあるよ」
「なになに?」
 ナナは遊歩を見上げ、興味津々と言った様子で瞳を輝かせた。こんな仕草はやっぱり子供だなと思う。
「僕に、助手の人がついたんだ。十五歳くらいの女の子だけど」
「助手。いいなあ、格好いいな遊歩おにいちゃん。なんか、ほんとに研究者みたい」
「こら、ナナ。僕は研究者みたいなんじゃなくて、本当に研究者なの」
 ナナをこづくと、きゃははは、と笑った。
 キャンディ・ヴォイス。それは、無邪気以外の何ものでもない。
「でも、助手かあ。いいな。ナナも遊歩おにいちゃんの助手にならなってみたい」
「そうだね。僕も、もしナナが助手になってくれたら嬉しいだろうな」
 確かに、嬉しいだろう。けれど、そんな事は無理だと解っていた。機械人形が人間の研究者の助手になれるなどという事はまず無いだろうし、それ以前に、ナナが大人になるためには、《ゼロ・シンドローム》の治療法が確立される事が必要なのだ。
 それにはおそらく、とてもとても時間のかかることだろう。ひょっとしたら、遊歩が研究職を辞するときにも、まだナナは三歳のままでいるのかもしれない。

 いつの間にか、眉をしかめていたらしい。
 ナナは遊歩をじっと見上げると、ぷくぷくとした指で頬をなでた。まるで流せない涙の後をなぞるかのように、ゆっくりと。
「患者の前で哀しい顔なんて、しちゃだめなんだよ。教わらなかった?」
 その声を聞いて、遊歩は思う。ナナは、自分の運命を知っているのだ、充分すぎるくらいに。
 成長する事が出来ないナナにとっては、どうやっても、遊歩との距離なんて縮めようが無い。子供でしかいられない自分がいくらはがゆくとも、大人になりたいなどと言ってはいけない。
 それは、とてもとても、遊歩を悲しませる言葉だから。ナナがお母さんのようになったら、遊歩はとてもとても悲しむって、知っているから。
 そう、そしてナナの思いを、遊歩は感じ取っている。
「大丈夫だよ、ナナは、ちゃんとわかってるよ。ほんとは何をしなきゃいけないのか。でも、夢見るくらい、いいでしょ?」
 ナナは、自分の運命をきちんと受け止めている。
 その点、未だに自分の生まれを引きずっているところがある遊歩よりも、ずっとおとなだった。

 ナナの母親が死んでから、もう一年にもなる。
 GKP-7.3。ハルナ。
「覚えてて、あなたは、確かに生きているのよ」
 そんな風に言っていたハルナが、《ゼロ・シンドローム》の犠牲者となるだなんて、何という皮肉だったのだろう。
 誰よりも、生きるという言葉を愛していた彼女が、こんな簡単な事で死んでしまうだなんて。生きるという意味すらも忘れながら、自分という言葉の意味すら忘れながら、真っ白な記憶の中で死んでいっただなんて。

 自分が死ぬ方が、まだマシだった。そんな風に考えなかったといえば嘘になる。
 しかし、自らの命だけでなく、他の命をも平等に慈しんだハルナにとっては、それは最大の侮辱だろう。けれど。
(もしも、僕の命を投げ出す事で、ナナが生きられるのならば)
 そう、思わなかった日はない。
 もっとも、遊歩がたとえ自分の身を省みずに仕事に励んでも、ナナを救えるとは限らないのだ。
 結局、遊歩の思考はいつもそこで止まってしまう。
 本当は、そんなことを思い悩んだりする暇があるのなら、少しでもデータの解析を進めた方がいいのだ。解っている。
 しかし、やはり遊歩は考えずにいられない。ひょっとすると、そこが自分の弱さなのかもしれない。

 加納実由や、進藤律は、おそらく今もディスプレイに向かっているのだろう。
 律は確かに鼻持ちならない人間ではあったが、仕事に対しては一途だ。実由に関しては、言わずもがな。着々とナナのデータは解析されているだろう。
 けれど遊歩は、その作業を中断してでも、ここへ来てしまう。
 遊歩たちが研究を進めている間中、ナナはずっと一人だ。母親を無くした子供が、こんな部屋に閉じ込められて、ずっと一人で助けを待っている。
 そんな情景を想像してしまったらもう駄目だった。例えそれが、《ゼロ・シンドローム》の治癒を遅らせる事になったとしても、遊歩は、ナナをほったらかしておくなんてできない。

「ナナは、大丈夫だよ。だから、遊歩おにいちゃんが泣いたりしちゃ、駄目だよ」
 遊歩はそのセリフを聞くやいなや、ナナのことを抱きしめていた。

 ナナの小さな体は、遊歩の腕の中にすっぽりと入ってしまう。その小ささが、また、いとおしくなった。
 ナナの体温。ハルナと同じぬくもり。こんなところまで、親子というのは似せられるものなのだな、遊歩は思う。
「おにいちゃん?」
「ナナ、覚えてて、ナナは、ちゃんと生きてるんだよ。僕が抱きしめているものは、確かにここに存在していて、それが全部、ナナが生きてるって教えてくれるんだ。……だから、僕は大丈夫だよ」
「おにいちゃん、なんか、あったかくてやわらかいね」
 パンヤのつめられたくまのぬいぐるみ。それだけが、ナナに与えられたやわらかいものだった。
 ぬいぐるみは、やわらかいけれどもあたたかくはならない。あたたかいとしたら、それはナナ自身の体温を蓄えてくれているだけの事。
 人の生きている温度とは、違う。

「あったかくて、やわらかくて……」

 お母さん。

 ナナは、遊歩に聞こえないくらい小さな声でつぶやいた。
 この温度は、お母さんと同じ。あったかくて、なんか、どきどきとして、ふわふわのなにか。ベッドじゃなくて、自分を包んでくれるもの。だけど、お母さんには無かった音も聞こえる。ごおおと、遠くで大きな川が流れているような音。おおきなおおきな川の流れ。

「あったかい」
「ナナ、それが、生きてるって事だよ」

 目を閉じれば、ハルナの顔が浮かんだ。
 いつか、遊歩に「生きる」という言葉を教えてくれた。誰かぬくもりが感じられるのなら、それが生きてる証なんだって。例え赤くほとばしる血が、自分の中になくたって、そのぬくもりが、生きてる証になりえるんだって。

 ハルナの記憶。二人は、互いにそれを感じていた。
 今、遊歩とナナは、その記憶によって確かにつながっていた。ハルナが生きていた、その温度の記憶。

「生きてるって事は、あったかいっていう、事だよ」

 しかし、ナナは一度目をつぶり、そして遊歩をしっかりと見上げ、言った。
「……ねえ、おにいちゃん、それじゃあ、死ぬってどういう、こと?」



 それじゃあ、しぬって、どういう、こと?




 ナナの部屋を出た遊歩は、皮肉まじりの声に迎えられた。

「今日も、機械人形の見舞いか?遊歩。お前も相当に律儀なヤツだよな」
「……律か」
 すらりとした長身に、トレードマークの白衣。それは、確かに進藤律だった。
 唇の端だけを持ち上げる嫌な笑い方。律は、神経質そうに大きめのイヤリングを触っている。今時、そんなイヤリングは流行らない。せめて、小型のピアスだろうに。そんな些細な事が気に障る。
「ほんとに、お前は馬鹿だよ。もうじき死ぬやつに向かって、あんな演説するんだから」
「何だよそれ。もうじき死ぬって。それを防ぐのが僕らの仕事だろ?」
 ナナが死ぬ。そんなことはありえない。それを防ぐために、ナナの成長は止められているのだ。
 《ゼロ・シンドローム》の発症は、確かに押さえられているはずだ。
「死ぬんだよ。機械人形は、みんな。大人はもちろん死ぬし、子供だって、いつかは大人になる。だから、死ぬ。みんなみんな、いなくなる。こんな機械たちの暮らす、欺瞞の都市はどこにもなくなる。論理的に考えれば、当然の帰結だ」
 体が勝手に動いていた。握り締めた拳が律の頬に、見事に命中する。
 ドゴッ。拳がめり込む音を、遊歩は全身で聞いた。
 律は拳をくらった勢いでよろよろと後ろの壁にもたれかかった。

 真っ白く、どこにも継ぎ目の無い壁。大きな大きなスケッチブックの中、一人の男が座り込んでいる一枚の絵。律の頬は殴られて、赤く染まっていた。生命のあるものにしか作り出せない赤。この男がそれを持っていること自体、遊歩には気に入らなかった。
「お前……お前……」
「俺は、当然のことを言ったまでだ。機械なんていう、自然に適応できないものは、所詮滅びる運命なんだよ。遊歩。あんまり肩入れしすぎると、あとで泣く事になる」
 俺、お前の涙なんて見たくも無いね。気色悪い。
 律は歯を剥き出しにして笑った。それはあいも変わらず厭味な笑い方だったが、それでも彼が歯を見せて笑うなど見たことが無かったので、遊歩は驚いた。
 その拍子に、まだ堅く握っていた拳を開く。
「いずれ、機械なんてものは、全部なくなるさ。人間と機械では、人間の方がずっと生命力が強い」
「な……律、お前、何言ってんだ?」
「人間は機械が無くとも生きていけるだろう。でも、機械は人間がいなければ滅びてしまう。いくら特殊型機械人形が人間の真似をしてみたところで、それは模倣にしかすぎない」
「だからなんなんだよ!」
「こんな街、なくなってしまえばいいって、言ってるんだよ。遊歩」
 律は言葉を吐きちらしながら、口の中に溜まった血を吐き出した。

 血は、やはり真っ白い床に赤い色をもたらす。せめてそれが、汚らしい色であればよかったのに。その血は遊歩のものと同じように鮮烈な赤だった。
「じゃあなんでお前は、ここに来たんだ? そんなに機械が嫌いなら、関わらなきゃいいだけの話だろ?」
「連れてこられたんだよ。政府のお役人サマにね。俺が今まで生きてくる事ができたのは、機械技術の腕があったからだ。けれど、それに感謝した事は一度も無いし、まして機械を少しでも好きだと思った事もないね!」
「なっ……」
 わけがわからなかった。律を良い奴だと思った事は無かったけれど、こんな、こんなことを言うだなんて信じたくはなかった。
 どれだけ律が機械人形のことを嫌っているそぶりを見せても、心の奥底では、機械人形を憎んでなどいないのだろう、そう思ってきた。そう思わないと、律の事を本当に憎んでしまいそうだった。
 しかし、律の目は真剣だ。いつもの皮肉めいた口調も影を潜めて、いつの間にか本気の声を出している。
「俺は、嘘にまみれたこの街が大っ嫌いだ」
 律を殴ったのは遊歩だった。しかし、遊歩はいまや、律以上のダメージを受けていた。
 頭の中身がぐるぐると回っている。気持ちが悪い。どうすればいいんだろう。これから、律に対してどうしたらいいんだろう。
「……お前は、もう取り返しのつかない事をしたんだよ。遊歩」
「え?」
 自分の心の中を見透かされたようで、遊歩は声をあげた。

 律は遊歩に見おろされている事を嫌うかのように、ゆっくりと立ち上がると、言った。真っ直ぐな視線と、言葉が遊歩を突き刺す。
「GKP-8.56は、じきに、死ぬ」

 お前のせいでな、という音が、遠く聞こえた。



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