第10章



 メアリが研究者たちの前で律を問い詰めてから、丸一日の冷却期間がおかれた。
 本来なら、このような重要事項は何日にもわたり討議されるのだが、ナナの発症が今にも起こりかねない現状では、できるだけ早い決断が必要だった。

 結論は、ひどくあっさりと出た。
 実由によって採決がとられた。結果は、律の勝利だった。メアリの反駁が功を奏したのか、ほんとうに僅差ではあったが、それでも過半数は超えた。
 たとえ何を犠牲にしても、《ゼロ・シンドローム》の治療法を見つけることのほうが先決ではないのか、いつの間にか、そういった意見が主流になった。
 それはおそらく、ナナが発症しかけているということがひとつの大きな要因だったのだろう。たった一人の、三歳未満の感染者であるナナが発症してしまえば、《ゼロ・シンドローム》の研究は大幅に遅れることになる。
 それに、対外的な問題もあった。このまま、だらだらと研究を続けて何の結果も出なければ、外界政府からの予算が大幅にカットされるかもしれない。
 メリットとデメリットを、ただ純粋に考えれば、律の提案はすばらしかった。たった一人の機械人形さえ実験に使えばいいのだ。ヒトのクローンさえも人体実験に使われているというこのご時世に、だれが、それを止められる?
 心理的な抵抗は、誰しもの心にあった。けれどこういったケースでは、心情よりも実益をとらなくてはならないのだ。

「……何もかも、あなたの思惑通りね」
 実由は会議の直後、律の部屋を訪れた。何度かこの部屋を訪ねたことはあった。
 だいたいは、どうしようもなく仕事が煮詰まってしまったときにだ。遊歩やほかの研究者のところへは、先輩面してからかいにゆくのだが、律だけは、実由よりもずっと能力があった。手も足も出なくなったときに、着想をもらったことも少なくない。律の指摘は、常に的確だった。
 しかし、この日は。
「わたしには、あなたの考えてることなんてわからないわ。でも、今の進藤君、とてもとても満足そうな顔をしてる。ねえ、これが目的だったの? あなたの造ったLIT-001を、実験台として世に送り出すことが?」
 律は苦笑した。
「チーフ、違いますよ、これからが長いんです。なんていっても、これから、《ゼロ・シンドローム》の治療法を見つけなくてはならないんですからね」
 律の右手が、手近にあったペーパーウェイトをもてあそんでいる。手のひらに入るほどのガラス球のなかには、コスモスの花がくるくると回る。それは強固なガラス球であるはずなのに、今にも彼に握りつぶされ、砕けてしまいそうだった。封じ込められたコスモスは、外界では生きてゆけない。
「わたし、考えてみたのよ、何故、あなたがそんなにまでして、LIT-001を実験に使いたがるのか。《ゼロ・シンドローム》の治療のためなんて、嘘よね」
 律は眉を少しあげてみせる。おどけたような顔つきにむかって、実由は早口で述べたてる。
「生殖可能なほどに近く、けれど違った生物との交配が進めば、いやがおうにも現状は変わるわ。昔の怪談によくあったでしょう、地球外の生命体との交配によって、新たな、人間に危害をなす生物が生まれるっていうパターン。もちろん、博識な進藤君なら知っているわよね。新しい生物との交配は、下手をすれば、進化の氾濫が起きる…進藤君は、機械人形を使って、それを起こそうとしているんじゃない?」
「進化、ねえ……」
 おどけたような、いや、人を小ばかにしたような目で、律は微笑む。
「チーフらしい、ユニークな意見ですね。参考にさせてもらいますよ」
「ふざけないでもらえるかしら? わたしは真面目に聞いているの」
「進化も何も、俺はただ、《ゼロ・シンドローム》の事しか考えてませんよ。チーフと同じです。俺を探ってみたって、なんにも現れてきやしません」
 ほら、ね。手を広げてみせる。
「じゃあ、その通信機は? 一体どことつながっているのかしら?」
「とある女の子のとこですよ。ちょっとしたガールフレンドってやつですか。彼女、俺と離れてるとさびしがるんでね」
「嘘ばっかり……」
「嘘じゃないですよ。俺がいつ嘘を言いました?」
 目をどれだけ凝らしても、彼の真実は見えない。イヤリングの向こうにある少女の姿も、さらにその向こうにあるはずの、彼の思惑も。
「嘘つきじゃないの……心にもないことばっかり」
「俺がいつ、嘘をついたっていうんです」
「いつもよ、いつも、嘘ばっかりでしょう……」
 いつしか、実由の唇は、微笑みに似た表情をつくっていた。それは本当のところ、笑みとはかけ離れたものだったのだが。
「チーフ、俺のどこが嘘つきなんですか?」
 それはもはや、本来の意味を失った、言葉の戯れでしかない。
 コスモスのペーパーウェイトが、転がって床に落ちた。
 けれど、やわらかなカーペットの敷かれた床は、その衝撃を素直にうけとめ、コスモスが空気にさらされることはなかった。




 その日の気候は、また二十日ぶりの雨だった。
 気候調整に必要なこととはいえ、二十日にいっぺんやってくる雨の日は、やはり憂鬱になる。
 じめじめとした空気は、空調のついた研究室の中をもむしばんでゆく。雨の日特有のこの空気の重さは、一体何なのだろうと遊歩は考える。じめじめとした空気が胸に覆いかぶさってくる。

 この日、LIT-001…被検体の機械人形と、ナナとのチャットが行われようとしていた。




 許されていいはずのない実験だ、と遊歩は今でも思っていた。
 会議の結論が出た後でも、その考えは変わらなかった。メアリの話を聞いたからというわけではない。ちょっと立ち止まって、普通に考えてみれば、人体実験など否定されてしかるべきものなのだ。
 けれど、ひょっとしたら。遊歩の頭の中をその考えがかすめる。
 ひょっとしたら、LIT-001との対照実験によって、ナナは助かるかもしれないのだ。
 恐ろしく傲慢な考えではあるけれど、これで、《ゼロ・シンドローム》の治療法が確立されるならば。そう思ってしまったから、遊歩は律に抵抗できなかったのだし、今も、何をするでもなく実験の準備を眺めている。
 本来なら、ナナの教育担当である遊歩には、たくさんの仕事がまわってくるはずだったのだが、そのほとんどは律が一人で片付けてしまったし、それをとめようとも思わなかった。

 結局彼には、その世紀の実験を、見ていることしかできなかったのだ。



 ちょうどその頃。自室でひとりコンピュータに向かっている少女がいた。
 一大実験が始まるというので、人はセンターの居住棟から、すっかり出払っていた。彼女の姿を見咎めるものはいなかった。
 もしも、誰かが、今の彼女を見たとしたら、鬼気迫るものを覚えていただろう。髪の毛は乱れ、唇は噛みしめられて色をなくしている。一心不乱にキーボードを叩き続ける少女が、一体何をしようとしているのか。
 それは、誰も知らない。



 遊歩の目の前で、実験は始まった。

 ガラスに隔てられて、ナナがいる。瞳を閉じて、動かない。動くはずはない、この実験のために、ナナの電源は落とされ、すべてのプログラムが凍結されている。
 彼女の首筋からは、幾本ものケーブルがのびており、それが隣の小部屋へとつながっている。
 《教育》の時に何度も使ったはずの施設なのに、今日は何故だか、痛々しく見えた。
 ハルナとつながっているときは、それはあたかも知識を運ぶへその緒のように感じられたのに。

 そのケーブルの先にいるのは、LIT-001、律の製作した機械人形である。肩のあたりできっちりと切られた黒髪が、アンティーク・ドールを思い起こさせた。
 それでなくとも、色がおそろしく白く、顔立ちが整っていて、ほんとうに動かぬ人形のようだった。一般に怖いと言われるような人形の姿、しかし、遊歩は彼女の姿を見たとき、どことなく懐かしい気分になった。
 アンティーク・ドールというのは、この民族特有のノスタルジアを刺激する。

 何を意図して、律はこのような機械人形を作ったのだろうか。遊歩は疑問に思う。
 律ならば確かに、機械人形のプログラムを組み立てることくらい簡単だろう。けれど、ボディはそういうわけにはいかない。そちらの専門の技師の手を借りなければ、さすがの律でも機械人形のボディは造れまい。
 そうまでして造った機械人形を、実験などに提供する理由がわからない。
 それに、彼への疑いは、まだ晴れていないのだ。《ゼロ・シンドローム》の治療法を見つけるなんていう、機械人形の利益にしかならないことを、律がしでかすだろうか。
 一体、彼は何を考えているんだろうか。
 律の姿はいつもと同じように隙がなく、遊歩の推測などはおよばない。

「準備はいいようですね。それでは、はじめましょうか」
 その声は朗々と、部屋の中に響き渡る。
 いくつもの視線が、動かないナナの上で交差する。
 その中に、実由のものもあった。彼女はどこか疲れたような表情をしている。頬にはいつものみずみずしさがない。
 確かに、ここのところ、チーフは実験の準備でかけまわっていた。もちろん実験それ自体のプログラミングもあったが、それ以上に、政府への連絡などの煩雑な事務手続きが、実由の睡眠時間を奪っていた。
 しかし、彼女はもともと、そのくらいの事でまいるような、やわな人間ではなかったはずだ。その実由がここまで、疲れをあらわにしている。

 そういえば、メアリの姿が見当たらない。
 LIT-001を実験体にするのに、あれだけ反対していたメアリのことだ。この実験をボイコットするつもりなのかもしれなかった。
 もっとも、センターのほぼ全てのセクションが関わるような実験だ。人手はいくらでもある。新人の助手が一人いないくらいのことで、がたがたと騒ぐ者はいなかった。

 遊歩の身長ほどもある大きなモニターに、文字列が浮かんでは上に流れてゆく。律が中心となって組み立てた実験プログラムは、正常に動作しているようだった。
 一度、ナナとLIT-001の全データを取り込み、バックアップを取ったのち、研究室のコンピュータ上で二人の意識を邂逅させるのだ。はじめての試みではあったが、この分なら心配はいらないだろう。誰もがそう思った。

 その瞬間。先ほどの律の声をもかき消すくらいの大きさで、ビープ音が鳴り響いた。
 遊歩は今まで、何度か聞いたことがある。重大なエラーを示す音だ。
「エラーだって?」
 律が携帯端末に手をかけた。彼の端末は、この部屋のメインコンピュータとつながっている。即座にチェックをかけていく。その表情から読み取れるものは、何よりもまず驚きだった。チーフの加納実由らと、何度もプログラムは試運転させていたのだ。本番になって間違いが起こるはずがない。
 律の指先が、遊歩などには思い浮かびもしないような構文を打ち込んでゆく。エラーは解体されて、その本質を表そうとしている。たん、と律が最後のキーを鳴らした。
「エラー《stranger》……。侵入者か!」
 律が舌打ちをする。遊歩は複雑な気分になった。
 ここ最近、律のこのような表情を見たことがなかった。彼はいつも余裕の笑みを浮かべていた。それがあっけなく崩れてしまったことが、意外で、また、少しばかり腹立たしくもあった。
「侵入者? 誰がこのコンピュータに侵入できるっていうの。プロテクトは何重にもかかっているはずよ。あなただって、チェックしたでしょう」
「理論上はあるはずのない侵入者だ。そもそも、普通の人間なら、センターのコンピュータに接続することもできない。けれど、接続自体は、ここの技術者なら簡単だ。あとは、万全に組まれたはずのプログラムを破壊できるような腕をもった奴がいるのかどうか」
 言いながら、律は遊歩のほうを見る。遊歩は硬直した。
 遊歩にはまるで身に覚えの無いことだ。大体、律や実由が万全を期したプログラムに、自分が侵入できるはずもないのだ。チーフにはいつも機械オンチ呼ばわりされている。
 けれど、それならば、律のあの目は何だ? 遊歩の何を疑っている?

 そのとき、遊歩の脳裏に、ひとつの名前が浮かんだ。メアリ・トーラス。
 彼女ならば、律の目をあざむくこともできるかもしれない。STCを最年少で卒業し、ここへやってきた彼女ならば。
 そういえば彼女は今、何をしている。

「あいつだな」
 遊歩の考えを読み取ったかのように、律は言う。
「この間の会議のときに、実験に猛反対した女がいたはずだ」
「メアリのこと?」
「加納チーフ、メアリ・トーラスの個人端末のIDは?」
 実由がすばやく検索をかける。
「R-189.75。でも、待って。駄目。向こうもプロテクトをかけてるわ。今すぐ解くのは難しそうよ」
 遊歩も確認した。見ただけで頭が痛くなるような複雑な文字列。これをクリアしない限り、メアリの端末を止めることはできないらしい。
 いくら律や実由でも、これを解くにはしばらくかかることだろう。しかし、律は断言する。
「プロテクト、ね。俺に破れないプロテクトなんてないよ」
 だんだん落ち着きを取り戻してきたらしい。目尻にはいつもの自信が戻ってきている。そういえば、律はいつもそうだった。困難な命題を与えられたときほど、楽しそうに事を進める。それが「天才」ゆえのことなのかはわからないが。
「すぐに、打ち破ってみせるさ。そうしたら、実験の続きだ。加納チーフ、みんなを指揮して、メインコンピュータの方の復旧をおねがいします」
「了解。ほら、みんな、さっさとメインと接続して」
 実由と目が合った。遊歩が何かを言いかけたとたん。
「ほらほら、的場君もさっさと手伝う。君みたいな機械オンチでも、いないよりはましだからね」
 いつもの調子で口をふさがれてしまった。取り繕ったかのような明るさではあったが、少しだけほっとする。
 そこで安心してしまったせいなのか、遊歩自身、自分が今何を言おうとしていたのか、もうわからない。とにかく、今はチーフの指示にしたがうしかないのだ。
 遊歩はディスプレイ上の文字列と、格闘をはじめた。



 思いのほか、上手くいっていた。もっとずっと複雑なセキュリティが組まれているかと思ったが、やはり、身内には甘いらしい。
 一度、センターのサブコンピュータに接続してから、実験で使われているコンピュータへハックしたら、あっさりとロックが解かれた。
 今、メアリには、チャットを控えているGKP-8.56とLIT-001のデータすべてにアクセスすることができる。この分なら、実験を中止に持ち込むことも簡単だろう。

 しかし、律はすぐに侵入者の存在に気づき、それなりの処置をとるだろう。こちらも対策はしてあるが、すぐに破られてしまうに違いない。
 その前に。急がなくてはならない。彼女はさっそく手元の端末へ指令を出し、今は眠っているはずのLIT-001のプログラムを、コンピュータ上でたたき起こしにかかった。
 この実験の鍵を握っているのは、彼女の自我だ。彼女にきちんとした自我が生まれてしまいさえすれば、計画のようにはいかない。LIT-001は、自分がウイルスの被検体になることに抵抗するはずだし、今回の場合、心理的な抵抗が、もっとも実験のじゃまになるはずだ。

 彼女は、LIT-007の覚醒に必要な、最後のキーワードを入力した。キーワードは事前に調べてある。
《insider》――内にあるもの。
 律が何を意図して、この言葉を選んだのかは知らないが、彼女にとって、そんなのはどうでもよいことだ。唇のはしを、ふと持ち上げる。
 見ていてください、遊歩さん。これが自分なりの、戦い方です。
 ディスクの読み取り音を背景に、その微笑みは、これ以上ないほどに美しかった。

「LIT-001、起きなさい」
 魔法の呪文のようにつぶやくと、タイミングよく、ディスプレイに女の姿が現れる。
 この間の会議で垣間見た、LIT-001の少女然とした姿。彼女よりも若干年下といったくらいか。神秘的な黒髪が、肩のあたりで揺れている。
 少女は目を開く。それは黒目がちで丸っこく、全体の大人びた印象のなかで、そこだけが子供っぽい。
 どことなく、遊歩の目を思い出した。

『あいされてなかったなんてこと、ないんだ。そう、思ってて』

 それは、傷ついた子供の目。愛されてなかっただなんてことはない、そう、きっと。
 ……LIT-001、あなただって。

 ディスプレイに映った少女は、LIT-001のプログラムから合成された映像だ。
 《特殊型機械人形》のプログラム中には、その精神構造だけでなく、外見の情報までもが内包されているのだ。肉体を持たない今のLIT-001は、精神体、幽霊といってもいいかもしれない。
「あなたが、LIT-001ね」
 メアリは問いかけた。カメラを接続しておいたので、向こうにも自分の姿が見えているはずだ。
「はい。確かに私はLIT-001です。あなたが、GKP-8.56ですか? GKP-8.56は十二歳ほどの外見をしていると聞きましたが」
「違うわ、ここにいるのはメアリよ」
「メアリ? その名前は聞いたことがありません。製造番号は?」
「メアリ・トーラスは人間よ。機械人形じゃなくて」
 言いながら、メアリは確信を深めていた。やはり、LIT-001は成長しきっていない。このぎこちない話し方は何だ。普通の《特殊型機械人形》なら。いや、ごく一般的な機械人形ですら、もう少しまともな言語能力をもっているだろう。
 進藤律の、機械に関する才能を見る限りでは、彼の力が足りなくてこうなったというわけではないだろう。
 ある程度の言語プログラムなら、遊歩にだって組めるはずだ。律がやってできないはずはない。ということはつまり、律は、彼女の言語能力を意図的に削っている。もしくは彼女の思考能力こそを、削っている。

 メアリの中に熱く、どす黒いものがこみあげてくる。それを悟られないように、無表情をつくった。こんな演技には慣れている。
「あなたは機械人形ではないのですか? 実験は機械人形との接触によって行われるはずです」
「メアリは、その実験を中止させるために来たの。あなたを……」
 あなたを救うために。メアリはそう言いかけて、やめた。
「LIT-001、あなたは、この実験を承諾したの?」
「はい」
「どうして? この実験の意味がわかってる?」
「この実験の意義、の事ですね。《ゼロ・シンドローム》の元凶をつきとめるために、未感染者の私を、《ゼロ・シンドローム》に感染させて、プログラムを比較検討するそうです。闇雲にデータを調べているよりも、ずっと効率のいい方法ではないでしょうか」
 LIT-001は無邪気に笑っていた。それは、どこかつくりものめいていた。きっと、どのような時でも笑みを絶やすことがないようにと、教育されているのだろう。
 無性に腹が立った。主に、そんな風に彼女を《教育》した、進藤律に対して。
「どうして笑っていられるのよ。《ゼロ・シンドローム》がどんな病なのか、知っているの?」
 メアリはまだこのセンターに来て日が浅い。しかし、何人かの患者は《境界》の病院で見かけた。
 日に日に口数が少なくなり、最終的には簡単な演算すらもできなくなってしまう。記憶は失われ、間で生きてきた全てが白紙になってしまう、恐ろしい病気だ。人間に近づくことを至上命題にしてきた《特殊型機械人形》たちにとっては、なによりも恐ろしい病気。それは、精神をおかすのだ。
「わかってる? あなたの体がだんだんと動かなくなってゆくの。自分の思い通りにいかなくなって、そして、意思すらも鈍ってゆく。自分がいったい何者だったのか、わからなくなってくる。あなたの意識がまだあるうちに、どんどん、自分というものが削られて、失われてゆくのよ」
「自分?」
 その時、一瞬、LIT-001が表情を変えた。どきり、とした。
 無垢な機械人形は、生きる事の苦味をすべて悟りきったかのような、複雑な顔をした。しかし、それは本当に、ただ一瞬の出来事で、彼女はすぐにもとの笑みに立ち返った。メアリは自分の目を疑った。
「自分なんて、本当に、存在するんですか?」
「え?」
「あなたは、確かに『自分』というものが存在していると、いえるのですか?」
 言葉に詰まった。一番痛いところをつかれてしまった。メアリには、まだわからないのだ。自分というものが。
 ニーナの複製品としてしか扱ってもらえなかったわたしたちに、本当に、自分などというものがあると言えるのか。本当は、メアリにだってわからないのだ。思わず、髪の毛をいじる。ふわふわとした髪は、細い指先に軽くまきつく。
「わたしのマスターは、進藤律氏です。だから、わたしは彼の言葉に従います。それが、わたしという存在です」
「そのマスターが、あなたを実験体に差し出したのよ」
 痛い、胸が痛い。口の中が奇妙に渇いていて、声がなかなか出てこない。
 こんな非道が認められて良いはずがないのに、どうして、彼女は何も言わない? どうして抵抗しない?
 わたしたちは、どうして、パパに抵抗できなかった。アリアも、ベリィも、キャシィもディアナも、どうしてそんなに簡単に殺されていった。

「ねえ、LIT-001、あなたは本当に、それでいいの? そんなに簡単に殺されてしまって、本当にいいの?」
「マスターの命令は、絶対です」
 おかしい。そんなのは《特殊型機械人形》ではない。
 《特殊型機械人形》は、人間と同じか、それ以上に我の強い種だ。そう、人間に対して反乱を起こすほどに、意志力の強い種族。
 それがこんなにもあっさりと、あきらめてしまうなんて、ありえることだろうか。これではまるで、メアリのきょうだいたちと同じだ。

 メアリは気づいた。LIT-001。彼女は元から何も持っていないのだ。父親からは何も与えられなかったのだから。もともと白紙だから、何を失うことも怖くない。そうして、父親の思い通りになってしまう。自分の命を投げ出すことすらも、いとわない。
 ディスプレイに移った彼女の平面的な姿は、余計に空虚に見える。
 これがホログラムならば、いや、せめてこのような小型端末のモニタではなく、メインコンピュータの大画面だったならば、これほど寂しくみえはしなかったかもしれないのに。
 まったくの白紙、純白の少女、それは。
「それは、幸せなことなのかな」
 独り言めかしてつぶやいた言葉を、LIT-001の機械の耳は聞き逃さない。
「しあわせ? その言葉は、習っていません。学習の必要がありますか。必要ならば、定義を述べてください」
 メアリは答えなかった。答えられなかった。
 幸せの定義など、誰にだって、答えることは不可能だろう。
 それよりは、進藤律が、「幸せ」という言葉を、まるで教えていないということのほうが気にかかった。たとえ、明確な定義を教えていなくとも、その言葉を彼女の前で一度でも使ったのだとしたら、彼女はそのニュアンスを覚えているはずだ。
 進藤律は、彼女に対して一度も、「幸せ」という言葉を発したことがないのだろうか。

 どちらにしろ、LIT-001は、「しあわせ」という言葉とは遠い場所で成長してきたということなのだろう。
 メアリは瞳を閉じた。彼女に対して、自分ができることはあるだろうか。
 この分だと、実験をやめるように説得することは無理だろう。律のプロテクトを破ってから、すでに三十分以上がたっている。そろそろメインコンピュータも復旧する頃だ。もう時間がない。
 けれど、せめて。なにかできることはないだろうか。彼女が「自分」という言葉を、「幸せ」という言葉を、実感の元で使えるようになったとしたら。その時、メアリは救われるのかもしれない。
 LIT-001。メアリは口に出し、ふと、気づいた。
「そういえば、あなたの、名前は?」
「私はLIT-001です」
「違うわ。それは製造番号でしょう。そうじゃなくって、名前。あなたには名前がないの? ナナだとか、ハルナみたいに」
「私に、名前ですか?」
 LIT-001は、考え込むそぶりを見せた。この、機械人形らしくないプログラムとしては、珍しいことだった。
 律の様子を見ている限り、彼は機械人形に名前など必要ないと思っているようだった。ナナのことだって、常に製造番号、GKP-8.56と呼んでいる。LIT-001に名前がないのも、しかたないことかもしれなかった。
「わかりません。そのような名で呼ばれたことはありません」
「あなたに、名前をプレゼントしたいの」
 名前というのは、単なる識別番号ではない。アイデンティティの基礎にもなるものだ。それがないのでは、自我の確立も何も、難しいだろう。製造番号では、その役割を果たさない。

 メアリだって、メアリという名前がなければ、「自分」ということなど思いもしなかったに違いない。
 たとえば、メアリに「M」という十三番目のアルファベットしか与えられていなかったならば。同じ遺伝子を持ったきょうだいたちとの類似性はますます深まり、一体どこからがメアリなのか、どこからが他者の考えなのかがわからなくなってしまうことだろう。
 今だってメアリは、「私」という一人称を使わない。境界があいまいな「私」などではなく、「メアリ」が考えているのだと主張せずにはいられない。メアリの自我は、そういう意味で、その名前に依存している。
 LIT-001の場合も同じかもしれない。自分の名前があれば。進藤律に製造された「LIT-001」としての自分だけでなく、特定の、誰かとしての自分を見つける手助けになるかもしれない。

「どうかしら。あなたに名前をつけても」
「かまいません。私をどう呼ぶかを決める権利は、あなたにあります」
「それじゃあ……」
 メアリは一度言葉を切った。フロルなんて素敵な名前だし。ヴィオラなんてどうだろう。カリア、ルル、マーヤ、シリル……。メアリの中に、たくさんの名が浮かんでは消えてゆく。
 しかし、次の瞬間、彼女の唇から出てきたのは、メアリ本人にとっても意外な名前だった。
「ニーナ、なんてどうかしら?」
「ニーナ、ニーナ……。いい、名前ですね」
 彼女はその名を、口の中で転がしている。彼女の口から出てくる「ニーナ」の名前は、何の含みもなく、ただ美しい音色として響いた。
 メアリの中で、ひと時も忘れられることがなかったその名前。
 ニーナ。二十六人の娘たちの中でただ一人、父親に愛された。
 何故いまさら、この名を持ち出したのだろう、メアリは自問する。忘れたくて、忘れられなかった過去を、その名前はありありと思い出させる。
 メアリはニーナが嫌いだった、多分、憎んでいた。それなのに、どうして今更、彼女の名前が出てくるのだろう。
「メアリさん、ありがとうございます」
 メアリにはわからなかった。けれど、ニーナの笑顔が、メアリの心を軽くした。ディスプレイ上の笑顔は、先ほどとほとんど変わらないものなのに。
「ニーナ、まだ、実験を受けるつもり?」
「ええ。私はそのために造られたんですから。私の身勝手で、マスターを困らせるわけにはいきません。メアリさん、私は、マスターに従います」

 その瞬間、ニーナの姿がゆがんだ。小刻みに揺れて、やがて画面は、ただの砂嵐へと変わる。
 メアリは唇をかんだ。
 時間切れ、だ。おそらく律が、メアリのかけたプロテクトを破って、小型端末に侵入してきたのだろう。四十分と少し。なかなかの記録だ。
「さようなら、メアリさん。私はGKP-8.56に会います」
 砂嵐の中、ニーナは言い放った。
 メアリには、そのときの彼女の表情までもが、見えるような気がした。

 さようなら、ニーナ。もう二度と、会うことはないでしょう。



 遊歩は、そのこじんまりとした部屋の中へ駆け込んだ。
 もしも自分が、この実験を阻止したいと思うならば、人がすっかり出払ってしまっているはずの居住棟からの、遠隔操作を選ぶだろう。
 そう思ったから、遊歩はこの部屋に目をつけた。居住棟、二階の隅の小会議室。
 実由に言われた作業も途中で打ち捨てて、遊歩はやってきた。そしてそこで、すっかり虚脱状態になったメアリを見つけた。
 壁に背をもたせかけ、肩の力をすっかり抜いて。虚脱状態……いや、彼女は、目を開けたまま、ほとんど眠っているようだった。かたわらに、メアリのものとおぼしき小型端末が転がっている。

 待機状態になっているそのディスプレイを見て、遊歩は確信した。
 あの侵入者は、やはりこの、メアリ・トーラスだったのだと。
「メアリさん」
 遊歩は、なるだけやさしい声で、彼女に声をかけた。それが、できるかぎりやすらかな目覚めを、彼女にもたらすように。
 メアリは、うつろなままのその瞳を、遊歩へと向けた。
「……ニーナ。ニーナ」
 か細い声で繰り返されたそれは、《選ばれた》少女の名だっただろうか。メアリの視線は、遊歩を通り越して、中空をさまよっていた。
 何故ここで彼女の名前がでてくるのか、まるでわからなかったが、とりあえず、遊歩は横たわる少女の手を握った。しばらく眠っていたせいか、その手は思いのほか、冷たい。
「大丈夫ですか、メアリさん」
 メアリの瞳には次第に生気が戻ってくる。頬に赤みがさし、手のひらの温度も変わる。
「遊歩、さん」
 メアリは言った。
「できるだけのことは、全部、やりました」
「何も言わなくていい。大丈夫。」
 しかし、メアリは遊歩のセリフなど、まるで耳に入ってもいないという調子で続けた。
「メアリは、きちんと戦いました。もう何も、恐れるものなんてありません。後悔なんてしてません。遊歩さん、心配なんてしないでください。メアリは、やるべきことをやっただけなんです」
 メアリは、遊歩の手などにはすがらず、一人で立ち上がり、どこへともなく歩き始めた。
 足取りは確かにかろやかで、とても今まで眠っていた人のものとは思えない。

 遊歩は呆然として、メアリを見送った。
 そのときのメアリの表情。それは、今までにないほどにすがすがしい笑顔だった。



BACK NEXT NOVELS INDEX



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送