第11章



 ぽすん。
 頭を軽くたたかれて、遊歩は振り返った。もちろん、こんな事をするのは一人しかいない。
「何するんですかチーフっ!」
 そこに立っていたのは、やはりというかなんというか、加納実由チーフだった。
「チーフ、そうやって部下をからかう癖、治したほうがいいと思いますよ」
 思わず、笑顔がこぼれた。会議の日以来、実由はすっかり元気をなくしてしまっていたようだった。
 だから、今、こうやって実由がいつもの調子をとりもどしたように、遊歩に話しかけてくれたことが、うれしかったのだ。確かに、このところ、実由は休みなしに働いていて、つかれてはいるはずなのだが、実由の場合、仕事にやりがいを感じているときは、その疲れが出てこない。今、実由が元気そうにしているのは、仕事がある程度以上うまくいっている証拠なのだ。

 しかし、実由はすぐに真面目な顔つきになった。
「的場君。メアリ・トーラスの、処分が決まったわ」
「処分?」
「実験を妨害したことについてよ」
 遊歩の顔が青ざめる。
 あの後、メアリは自分がメインコンピュータに侵入したことを、ひどく素直に認めた。
 律の話によれば、メアリが下手なことすれば、このセンター全体の機能をもしばらく止めてしまうところだったという。そんな大事をやらかして、無事ですむはずもなく。ここ二日間で、メアリの処分を決めるための会議が行われていたのだ。
「辞令が降りたわ。もう、ここを辞めてくれって」
「じゃあ、助手職をクビに?」
「そう。でも、実質的には、このセンター、ううん、《境界》からの追放よね。機械人形の発展に仇なすものとして」
「メアリさんは、何も研究の妨害をしようとしたわけじゃなくて……」
「でも、上層部はそうとは思わない。メアリが、ただ、《ゼロ・シンドローム》の治療を阻害したんだと思ってるのよ。須崎氏には個人的にかけあってみたんだけど。ダメだったわ。」
 遊歩は沈黙した。
 メアリがあのような行動に出たのは、遊歩のせいかもしれなかった。
 まさか、このような結果になるなんて。
 メアリとは、一瞬、心が通じたと思った。けれど、あの時、遊歩がしてしまったのは、感情が激していたメアリの細い背中を、一息に押すようなことだったのだろうか。
 初めの頃、メアリがずっと見せていた、こわばった表情を思い出す。

「的場君?」
 実由の声が響いて、遊歩は我に返る。過ぎてしまったことを振りかえっている場合ではない。
「それで、メアリさんはどうなったんですか」
「それがね……」
 実由の瞳が、言いづらいことを言うように、揺らいだ。
「メアリは、その辞令が降りる前に、ここを後にしていたの。部屋の中もきちんと整理されていて。ほとんど失踪同然の状態で、今どこにいるのかもわからなくて。どうせクビにした人間のことだからって、上層部では取り合ってくれなかったんだけど」
 聞くなり、遊歩は駆け出した。
「どこへいくの!」
 すかさずとんできた実由の声も、遊歩の足を止めることはできなかった。
 今、彼が向かおうとしているのは、たった一箇所しかない。誰にも行き先を告げず、失踪同然にセンターを去った、メアリ・トーラスの自室だった。



 そこは、あまりといえばあまりにすっきりとしていた。
 いくらメアリがきちんと身辺整理を行っていたにしても、その部屋は生活感がなさすぎた。こざっぱりとしていて、目を引くのは、部屋の片隅に残されている備え付けのコンピュータくらい。
 ついこの間までここで人が生活していたという痕跡は、一切残されていなかった。
「は……」
 遊歩の唇からもれたのは、笑いの片鱗だったのだろうか。
 メアリは、センターでの自分の生活を、すべて抹消してしまっていた。簡単なものだ。初期化さえしてしまえば、あとはなにも残らない。

 だから、遊歩がそのコンピュータを立ち上げてみたのは、まったくの気まぐれだったのだ。
 どうせその中身も完全に初期化されてしまっているだろうし、もしもそうでなかったとしても、立ち上げたとたんにパスワード入力画面が出てきて、それ以上進めなくなってしまうだろう。
 ハードディスクドライヴがカリカリと鳴っている。
 奇妙な既視感があった。主をなくした部屋の中で、一人、残されたコンピュータを立ち上げる。この、かすかな緊張感。
 遊歩はまだ忘れていない。父親の研究室の中で、こうやって、初期画面が表示されるのを待っていた日のことを、遊歩はまだ、忘れていない。

 その追憶に身を任せようとした、そのとき。
 ヴン、という音がして、コンピュータに付属していた3Dディスプレイのスイッチが入った。
 とたんに、彼の目の前に、メアリの姿をしたホログラムが現れる。
「メアリさん?」
 一瞬、本物のメアリが帰ってきたのかと思った。それは、非常にできのよいホログラムだった。おそらく、簡易ホログラム製造機で作ったものを、メアリが自分の手で修正したのだろう。
 多少表情が硬いことをのぞけば、ほぼ完璧といって差し支えなかった。
「このプログラムは、生殖管理センターのメアリ・トーラスによって書かれました。メアリの失踪後、同センターの的場遊歩氏によって、メアリのコンピュータが立ち上げられたときのみに、再生されます。なお、再生は一度きり。その後、このデータは消去されます」
 ごく事務的な声が告げると同時に、メアリのホログラムが話しはじめた。
「遊歩さん、ごめんなさい。勝手にいなくなったりなんかして。ふつつかの助手でごめんなさい。今、メアリの処分が議論されているそうです。おそらく、メアリはこのセンターを追放されるでしょう。当たり前のことです。メアリはもともと、そのくらいのことは覚悟していました。その前に、メアリはこの部屋を去るでしょう。遊歩さんにも、もう会うことは無いと思います」

 最終宣告。ホログラムの彼女の声は、いつもにも増して、淡々として聞こえる。
 そのすがたは、ゆらゆらと、頼りなげに。ホログラムは完璧なはずなのに、そうやって見えてしまうのは、遊歩の気のせいだろうか。

「けれど、どうしても、遊歩さんにだけは、伝えておかなければいけないことが、ひとつあります。遊歩さん、これを、見たことはありますよね」
 ふと、メアリの手の中に、青く、まるいものが現れる。ぼんやりとした光を照り返しているそれだけは、ホログラムの中で浮き立って見える。
 それは、律のしていたイヤリングの片割れだった。
「メアリは、《ゼロ・シンドローム》の調査をしているうちに、通常の通信とは違った種類の電波が、どこかから出ていることに気づきました。センサーを使ってその電波をたどってみると、進藤氏のイヤリングにいきついたのです。」

 遊歩の小型端末に、突然、ファイルが転送されてきた。展開されたファイルの中身は、あるタイプの通信装置の詳細な解説だった。親切に画像までついていて、それは、律のイヤリングとまったく同じ形をしていた。
「このファイルは、政府のシークレットページに侵入して、入手したものです。ここに書かれていることによれば、進藤律氏の持っていたものは、外界政府専用の通信装置です。そのようなもので、進藤氏は、一体どこと連絡を取り合っていたのでしょうか」

「メアリ!」
 遊歩は叫んでいた。相手がホログラムであるということも忘れて、メアリがあのデータを持ってきたときと同じように。
 聞いていたくなかった。けれど、動けなかった。
「通信の内容は、暗号化されていたのでわかりませんでした。けれども、メアリは、通信の相手を見つけ出しました。進藤氏と同じ電波が、GKP-8.56、ナナに与えられた個室から出ていたのです。もちろん、ナナが進藤氏との通信を行っているとは限りませんが。少なくとも彼女は、同タイプのイヤリングは耳につけていませんでしたし、それに、進藤氏ほどの技術者であれば、ナナと秘密に通信することくらい、イヤリングをつかわずともできることでしょう」
「どういう意味だ。ナナが一体どう関わっているっていうんだ」
 問いに、あらかじめプログラムされた映像が答えられるはずもなく。つかみかかろうとした遊歩の手は、色あざやかな彼女の姿をつきぬける。
「メアリからの伝言は以上です。この内容をどう使うかは、あなたしだいです。遊歩さん、お元気で。さよなら」
「待ってくれよメアリ。一体何がどうなっているのかわからない!」

 遊歩の叫びもむなしく、メアリの残像はあっさりとかき消えた。
 後に残ったのは、空虚な部屋と、呆然とする遊歩ひとりだけ。メアリのコンピュータもすでに役目を終え、何も映さぬ画面を、その場にさらしている。



 遊歩はしばらくその場にたたずんでいたが、緩慢な動作で、歩き始めた。
 白い廊下に、自分の足音が響く。乾ききった音は、まるで、自分が今度こそ一人になってしまったことを示しているようで。
 そのリズムにのって、遊歩の思考は流れてゆく。ひとつの川の流れにそって。
 歩いていくうちに、頭の中が整理されてくる。
 律。イヤリング。通信装置。機械人形への憎しみ。

 遊歩の中で、すべてのキーワードがひとつになり始める。
 一歩一歩、歩みを進めるごとに、もつれた糸がほぐれはじめる。すべてが、まっすぐ通った一本の糸に。

 大人になること。ナナ。抱きしめたテディ・ベア。子供には発症しないウイルス。LIT-001。《ゼロ・シンドローム》。律。メアリのデータ。実由の言動。

 すべてが、ひとつの論理に収束してゆく。遊歩の脳は、今までにない速度で回転し続けていた。次々に浮かんでくる理屈。けれど、思うのはひとつだけ。
 知らず知らずのうちに、遊歩は自分の部屋を通り越していた。その足は、明確にある場所へと向かっている。


 
 ここしばらく、ろくに休みをとっていない。
 《ゼロ・シンドローム》治療法を確立するため、GKP-8.56を救うため、実由は不眠不休でコンピュータに向かっていた。
 メアリがコンピュータに進入した後、実験は、ほんの少しの再調整のあとに行われた。その経過には、まるで侵入者の影など見当たらず、順調なままに終了した。LIT-001は、確実に《ゼロ・シンドローム》に感染しているはずだ。
 あの実験のデータも、そろそろまとまってきた。今は、実験前と実験後を比較検討する段階に入っている。

 須崎純也の、真剣な目を思い出す。
 ナナの感染が判明してから、実由は一度、コミュニティ管理局長の須崎に呼び出されたのだ。
「ナナが、例の病に感染しているそうだね」
「ええ、この間、検査の結果が出ました。見ますか?」
 実由は須崎の端末に、結果のデータを送ろうとしたが、須崎がその手をとめた。
「いや、いいよ。GKP-8.56、ナナは、本当に感染しているんだね」
「……残念ながら」
「そうか……」
 須崎は立ち上がり、窓の外を見やった。
「君には、なんとしても、ナナを助けてもらいたいんだよ」
 その声は、感情を押し殺しているように硬かった。
「なんとしても、ですか」
「そう、なんとしてもだ。なんとしても、ナナだけは、救ってもらわなくてはならない」
 須崎がこのような言い方をするのは珍しかった。
 もちろん、実由も、そのときにはナナを救うためにやっきになっていた。しかし、管理局長である須崎が、一介の機械人形にここまで肩入れするとは?
 実由の疑問を知ってか知らずか、須崎は続けた。
「君ならできるだろう。よろしく、頼むよ」

 会見はそれで終わりになったが、実由には未だ、あのときの須崎の表情の意味がわからない。ナナのどこが、そんなに特別なのか。
 確かに、まず、《ゼロ・シンドローム》に感染した《子供》として、貴重な事例ではある。しかし、それだけのことだ。何が何でも救わなくてはいけない、というほどの重要な情報を、彼女が握っているとはおもえない。ナナは愛らしい十二歳型の機械人形で、長く接していればもちろん助けたくもなるだろうが、管理局長ともあろうものが、そんな個人的感傷に浸っているなどありえない。須崎は常に冷静で、酷薄なところすらもある男だったのだ。そうでなければ、管理局長などしていない。

 実由はわからなかったが、それでもやはり、ナナを救うために、懸命に働いてきた。
 そのひとつの理由として、あのときの須崎の真剣さがあるのだろう。瞳の中には、ほんのわずかながら、いとおしいものを見るときの光があったような気がした。あの光に突き動かされるように、実由はナナをかばい、その治癒のために尽力してきた。
 今だってそうだ。自分が倒れそうになるまでにこうしてディスプレイに向かっている。

 そんな実由の顔を、心配げにのぞきこむ者があった。
「チーフ、そろそろ休んだほうがよくありませんか。最近働きづめじゃないですか」
「そうですよ、体に悪いですよ」
 加納実由直属の部下たちである。実由のもとには比較的若手の技術者たちがつけられている。有能で、なおかつ美人の実由は、姉御的存在として慕われていた。実由の体調の変化に、気づかないはずがない。
 とくに、実由は無理をしがちだ。自分の体が、いくらでも無理の利くものだと思っている。誰かが止めてやらなければ、何週間だって働き続けるだろう。
「わたしは大丈夫。もう少しでひと段落するから。そしたらちゃんと休むわ」
「でも……」
 一人前の気遣いを見せる部下たちに、にこりと笑って、一言。
「わたしを誰だと思ってるの? 加納実由よ」
 その言葉に、部下たちは絶句する。実由はかまわず、データの整理を続ける。

 と、少し離れた場所から、叫び声が上がった。
「チーフ、ちょっと見てください!」
「どうしたの」
 実由はすかさず駆けつける。
「見慣れない文字列が現れました。ひょっとすると、《ゼロ・シンドローム》の鍵かもしれません」
 大画面に、たくさんの文字が転送されてくる。先ほどまで彼が解析していたものらしい。
「これ……、この部分です。あきらかに文法に従っていない文字列です」
「ひどいわね……」
 確かに、それはまったく意味を成さない文字列だった。通常の機械人形、いや、機械人形だけでなく、普通のコンピュータだって、それなりの文法に従って、言葉が組み立てられているはずだった。
 しかし、今目の前にしているのは、まったくもってどこの文法にもあてはまらない。めちゃめちゃなものだった。
「ちょっとこれだけめちゃくちゃだとね」
 ランダムに並んだ演算記号は、圧倒的な勢いをもって目にとびこんでくる。実由は胸の辺りを押さえてうめいた。少しばかり吐き気がしていた。
「これ、なんでしょうね」
「進藤君は、割と完璧主義者なところあるから、こんなプログラム、残しておくはずないんだけど……」
 これが、もともとの製作者である進藤律の思惑をはずれたプログラムであることは、明白だった。
 こんなもの、律が書くはずがないではないか。律は優秀なプログラマだ。何かを撹乱するというような場合を別にして、こんなわけのわからないミスは残さない。

 しかし、これが《ゼロ・シンドローム》に関わっているとは思えなかった。こんな文字列は、金属製のボディになんの影響もあたえはしない。
 この部分は、まったく意味のない、文字の羅列だ。微弱な電流一つ、操作できる箇所もない。

 これは、本当にただのミステイク? 本当に?
 実由の脳は急激に活性化する。自分が見聞きした知識を総動員する。
 昔どこかで聞いたことがあるはずだ。機械人形の中にわけのわからない文字列が混入するケース。
「みんな、よく聞いてちょうだい」
 実由は一度、瞳をとじる。大きく息をついて、場を見渡す。
「いい、この文字列を、そうね、トヤマ=カキザワ法で変換してみてほしいの。その結果を、さらにキサラギ法で転換。それを、逆転写してみて」
「トヤマ=カキザワ法って、暗号解読なんかに使う、あれのことですか? 何だってまた。それにキサラギ法なんて使ったこと、ほとんどないですよ」
 養成所以来だよな、という声がする。そういえば、実由自身、キサラギ法なんてほとんど使ったことがない。
「いいから。お願い、やってみて」
 実由が頭を下げて、部下たちはとりあえずその仕事を引き受ける。トヤマ=カキザワ法の変換式はなかなかに煩雑で、しかも、自動的な変換機械は作られていない。暗号を作る側は簡単なのに、それを解くのはなかなか大変なものがあるという方式だ。部下たちが不審に思うのは無理もなかった。
 しかし、実由は昔聞いたことがあった。スパイ用などに造られた機械人形は、普通の記憶領域とは別に、通常の自らのプログラムの中に、一見意味のない文字列を忍ばせている。それは、特定の暗号方式によって三段階ほどに変換された情報なのだ。そのマスターにとって、重要な情報や、それとも危険な情報を隠しておくための技術。
 この意味不明の文字列の中には、やけにmという文字が出てくる。これは、確かトヤマ=カキザワ法の特徴だったはずだ。そして、トヤマ=カキザワ法から転換するなら、キサラギ法がもっとも適している。
「うひゃあ、こりゃあ時間かかりますよ。一部分を除いて、全部手で計算しなきゃいけない」
「泣き言を言うんじゃないの。それでもこの分量なら、三時間はかからないはずよ。とっとと仕事にかかりなさい!」

 実由はいつものように部下をしかりとばして、自分も文字列と格闘をはじめた。
 ワーカホリックの実由にとって、ゆっくりと睡眠を取れる日は、はてしなく遠い。



 遊歩は、その扉の前で、大きく深呼吸した。
 腕の中には、ふかふかしたくまのぬいぐるみ。ナナの部屋から拝借してきたものだ。
 ナナは失敗したとはいえ、実験の疲れがまだ抜けていないのか、ぐっすりと寝入っていた。遊歩がこっそりと部屋の中に入ったのにも気づかない様子だった。
 遊歩は眠るナナの枕元から、静かにテディ・ベアを抱き上げたのだった。心の中で、ナナに手をあわせながら。

 テディ・ベアは、もはやナナのぬくもりを残していなかった。しかし、遊歩はそのぬいぐるみを抱きしめてみる。
 これから、遊歩はたたかいに赴く。恐怖は確かに遊歩の奥深くからやってきて、遊歩はぬいぐるみをきつく抱く。そのやわらかさが、まがいものであると知った今でも。



 プシューと気の抜けた音がして、扉の中から影が顔を出す。いつもは気にも留めないその音を、遊歩は苦々しく聞いた。
 一瞬の空白のあと、彼が姿を現した。
「お前にそんな幼児趣味があったとは知らなかったよ。ぬいぐるみなんかどうしたんだ?」
「ちょっとばかり調査に必要でね。慣れるとなかなかに可愛いものだよ」
「『ぬいぐるみが機械におよぼす好影響』なんつー論文でも書くつもりか?」
 遊歩の虚勢を読みきったように、皮肉めかした声はいつもと変わりなく。ぬいぐるみを見た彼の様子に、これといった変化はなかった。
「突っ立ってないで、入れよ」
 通されたのは、飾り気のない部屋だった。
 彼の着ている白衣と同じ、白を基調にした部屋だ。壁は蛍光灯の光を思う存分反射していて、遊歩は目に痛みを覚えた。
「出来合いで悪いな。俺はお前みたいなクラシカルな趣味は持ってないから」
 他に場所もないので、白いベッドの上に座った遊歩に差し出されたのは、なみなみとつがれたコーヒー。かすかに茶色味がかった黒が、遊歩の顔を写している。
 遊歩はそれに口をつけるが、すぐに離した。苦かった。
「ああ、すまん、お前はブラックじゃ飲めなかったんだっけか」
 角砂糖とミルクを、乱暴に放り投げられる。
「自分で淹れたやつならブラックも飲めるんだ。どうも、センターの支給品は妙に苦くって」
「俺はもうこの味に慣れたよ」
 彼はにやりと笑って、自分の分のコーヒーを飲み干した。一息で飲み干すなんて、品も情緒もないと、遊歩はいつも思うが、これが彼の流儀らしい。何度注意しても直らなかった。猫舌なんていう言葉は、彼とは無縁だ。

「……律」
 彼は名を呼ばれて、その手を止めた。
「なあ、わかってるんだろ?」
 遊歩は、コーヒーをローテーブルの上において、声をしぼりだした。自分でも驚くほど、苦しげな声だった。
「何が?」
「僕がここに来た目的。このぬいぐるみを見たときから、わかってたんだろ」
「へえ、目的なんてあったのか。俺はてっきり、うちのおいしいミルクコーヒーを飲みに来たんだと思ってた」
「ちゃかすなよ」
 言いながらも、遊歩は夢想した。自分たちの関係が、こういう風に、ただ軽口を叩き合うだけの同僚であったなら。
 相手をにらみつけることなく、気楽に話せる間柄であったなら。
 ここで、何もかも忘れて、お互いにただの友人になれたなら。
 ……それはまったく、不可能な望みではあったけれど。

「このぬいぐるみに、見覚えはないか?」
 遊歩はテディ・ベアをかかげる。
 愛らしい瞳は今、律の顔を真正面から覗き込んでいた。
「ざんねんながら。とても可愛いとは思うけどね」
「でも、お前は見たことがあるはずだよ、これは、ナナの部屋にあったものだ。お前だってナナの教育係だ、一度くらい、見たことがあるはずだ。何故、それを隠す?」
「それで罠にかけたつもりか? 古典推理小説の読みすぎだな、遊歩」
「僕はナナから聞いたんだ。このテディ・ベアはしゃべるんだって。律はそういう話嫌いだったよな。ぬいぐるみがしゃべれるなんて思うか?」
「普通はしゃべらないだろうね」
 律は表情を変えない。あくまでも平常に、食器を洗浄器に突っ込みながら言う。
「けど、ナナがそんな嘘をつくメリットはないんだ。ということは、このくまが、本当はしゃべれるんだってことになる」
「子供にありがちな幻想じゃないのか? 機械とはいえ一応精神構造らしきものはあるらしいからな、《鏡の中のお友達》がいたっておかしくないだろ」
「しらばっくれるなら、それでもいいよ」
 遊歩は自分のポケットをさぐる。この部屋に来る前に調達しておいた。できることならこの手は使いたくなかったけれど、やるしかない。
 手のひらの中の硬質な物体、握り締め、外へとその身を開放する。

 さすがの律も目を見開いた。ポケットから抜け出た遊歩の手には、折りたたみ式のナイフが握られていたからだ。
 その刃は明確に律の胸の辺りを狙っていた。

「おいおい、さすがにその冗談はないだろ」
「冗談なんかじゃないさ」
 律の狼狽した表情に、少しだけ気を良くする。
 遊歩は唇だけで笑って見せた。こんな笑い方は律の専売特許だな、と思いながら。あとじさる律との距離を、じりじりとつめてゆく。
「一体何をする……」
「こうするのさ!」
 遊歩はナイフを振り上げ、そして。確実に、目的のものをとらえた。

 さくり、とナイフがもぐってゆく感触。

 一瞬後、ふわりふわりと、柔らかなパンヤが部屋中を舞った。
 中に入っていたのが白い綿だったら、それはまるで雪のように見えたかもしれない。ふわりふわりと、やわらかいものが舞う。
 本物よりは汚い雪の向こうで、律が呆然と遊歩を見下ろしている。

 遊歩のナイフは、くまのぬいぐるみの腹につきささっていた。
 テディ・ベアはその瞳に、まったく苦しげな色を浮かべはしない。顔はあくまでも愛らしいままで、それがかえって痛々しい。
「……な、何やってんだよ遊歩。それはお前の大事な機械のおもちゃじゃなかったのか?」
「これはおもちゃなんかじゃないよ、明確に、ある目的を持ってナナの元へ届けられた」
 遊歩は言いながら、ぼそぼそしたパンヤの中に、その手を突き入れる。中をさぐり、そして、手のひらにすっぽりとおさまってしまうほどの大きさの、青い何かを取り出した。律へ向かって放り投げる。
「返すよ、律。それ、お前のだろ?」

 テディ・ベアのはらわたから出てきたのは、まぎれもなく、律の片耳に光るイヤリングと同じものだ。
 透き通った青は、まったく同じように遊歩の顔を映し出す。
 このイヤリングを遊歩に託した少女は、もはやここにはいない。彼女は一体どういうつもりで、イヤリングを見ていただろう。おそらくは、今の遊歩以上に苦々しい思いを抱えて。父を求める娘は、結局、裏切られたままだった。

「どうせ、もう、このイヤリングの役目は終わったんだろう? ナナはもう、大人になってしまったんだから」
 ナイフのかわりに、言葉をたたきつけられるならば。遊歩は喉に力をこめたが、何故か、自分でも悲しげな声しか出なかった。
 おそらく、今は自分の顔も、どうしようもなくゆがんでいることだろう。
「お前は、ナナのぬいぐるみの中に、この受信機を仕込んだんだ。いつでも、どんなときでも、ナナに話しかけることができるように。そして、だんだんと、ナナの思考を、外の開かれた世界に向けさせて、そのことによって、ストップしてしまった《教育》の代わりにしようとした」
「ずいぶん、気付くまでに時間がかかったな。お前ならもう少し、頭が切れるんじゃないかと思ってた」
 律はいつの間にか、調子をとりもどしたようだった。堂々とソファの上で足を組む。

 そう、遊歩はもう少し早く、気付くべきだった。ナナにはじめて、おしゃべりをするテディ・ベアの話を聞かされたときに。
 ぬいぐるみのくまがしゃべるはずなんてない。遊歩はそう思って、ナナの証言を一度切り捨ててしまったのだ。子供の幻想だと思って。
 遊歩はそのとき、他のものわかりの悪い大人と同じだったのだろう。考えてみればすぐにわかるはずだった、ナナが嘘をつくはずなんてない、現実を認識できてないなんてことはない。それならば、しゃべるぬいぐるみの中には、何かそれなりの仕掛けがなければおかしい。

 パンヤをむき出しにしたテディ・ベアは床の上に転がっている。哀れなぬいぐるみは、利用された挙句の果て、ここに内臓をさらけだしている。

「お前は、ナナを大人にして、《ゼロ・シンドローム》発症間近まで追い込んで、そして、LIT-001を使った実験を無理やり認めさせた。それだけじゃない、《ゼロ・シンドローム》、それ自体を作ったのも、お前なんだろ? メアリが言ってたんだ。《ゼロ・シンドローム》流行には、センター内部の者が関わってる可能性が強いって。あんな、誰にも足取りがつかめないウイルスを作れるのは、律くらいしかいない」
 言葉を切って、一度瞳を閉じる。遊歩の中に、律と交わした言葉が次々によみがえる。
 機械人形を嫌悪することばや、皮肉めいた口調。そして、遊歩に対してはいくらかの励まし。あの言葉たちすらも嘘だった。彼の言葉に救われたことだってあったかもしれないのに、なのに、それはただの欺瞞だった。
「何のためだ?」
 遊歩は苦いものを飲み込むときの顔をした。
 胸の奥に何かがつかえている。どうしてだろう。証拠をつかんで、相手を追い詰めて、有利な立場に立っているはずの自分が、こんなにも苦しい。
 激しく打つ心臓が示しているのは高揚感などではなくて、果てなく続く痛みだ。小指の先まで神経が張り詰めていて、だから、かすかに流れる空気さえも、遊歩をさいなんでゆく。
「何のために、ナナを大人にした?《教育》を遂行するためなんて言うなよな。《ゼロ・シンドローム》にかかった個体にとって、大人になることがどれだけ恐ろしいことか、わかってるよな?」
「……」
「それ以前に、何のために、《ゼロ・シンドローム》なんて物を作ったんだ?」
 律は何も言わなかった。その表情すらも何も語ろうとはしない。
 ただ、いつもの笑みを顔中に貼り付けて、答えを隠している。それは、強固な白い仮面だ。もはや、彼が素顔を見せることはないのだろう。
 それでも、遊歩は問う。問わずにいられない。
「もう一度聞く。一体、なんのためだ?」
「嫉妬、っていったらどうする?」
「は?」
 思いもかけない言葉だった。この場にはまったくそぐわない。
 彼が予想していた答えといえば、機械人形全般に対する憎悪だとか、もしくは何らの実験だとかだ。嫉妬などという言葉は、はじめから頭になかった。

 遊歩は思わずぽかんと口を開けて、あわてて元の厳しい顔に戻す。しかし、内心の動揺はおさまらない。
「だから、嫉妬だよ。お前の脳みそを独占してる、GKP-8.56への嫉妬。わからないのか?」
 律には悪いが、遊歩はまるでわからなかった。言葉の意味がわからないのではない。律の意図がまるでわからないのだ。
 遊歩は律をまじまじと見つめた。
 遊歩の視線を受け止めて、律が見つめ返してきた。遊歩は一瞬、その目に取り込まれてしまいそうになる。

 しかし、次の瞬間、律が大声を上げた。今の空気をかき消すように、馬鹿らしいほどの大声をあげた。
「嘘。冗談だよ。何のためでもない。目的なんかない。ただ、やってみたかっただけだよ」
「それで、人の命まで奪うっていうのか?」
 軽薄な声に、遊歩はいらだちを隠せない。しかし、律は急に真剣な顔つきをして。
「人じゃない、機械だ。機械に命なんかないんだよ。あいつらにあるのはただのプログラムだ。プログラムをちょっと書き換えるくらいのこと、俺たちは普段からやってるじゃないか」
「それとこれとは……」
「話が違うってか? 違わないよ。《教育》だって広い意味じゃ、プログラムの書き換えだ。無理な《教育》がたたって、機械人形を壊してしまうってケースもある。昔、生命活動用のメモリにまで《知識》を叩き込んでしまったっていう事件があったよな。遊歩もそういうニュースはチェックしてただろ?」
 違うんだ、遊歩は思ったが、言えなかった。律の言葉は何かが間違っている。
 なのに、言えない。言葉が喉の奥に張り付いている。
n遊歩の勢いを止めたのは、ある予感だっただろうか。これから律が述べる真実への、予感。
「そうだよ、お前も、似たようなことをしていたじゃないか」
「どういう、意味だ?」
「知らないのか? お前が語りかける情報が、GKP-8.56にとってどんな意味を持っていたのか」
「?」
「お前はずっと、GKP-8.56に話しかけてたよな。そりゃあもういろんなことを。この通信機で聞いていたよ。あいつに向かってはずいぶんとサービス精神があるんだよな。でも、考え付かなかったのか? お前のもたらす一言一言かが、GKP-8.56にとっては、かけがえのない知識になっていくんだ。いろんな意味でな。」
「あ……」

 律はそれ以上、言わなかった。けれど、遊歩にはわかってしまった。わかりたくなかったことだった。
 駆け巡る。遊歩の頭の中、ナナと交わした会話が。
 自分は、何をした? ナナに、何を言った?
 その言葉が、ナナにどんな効果を及ぼした? この口が、この喉が発した言葉は、どれほどのことをナナに教えた?

 喉に張り付いた言葉たちが、遊歩の呼吸をさまたげている。口の中は渇ききり、しかし、先ほどのコーヒーも、もう飲み干してしまっていた。

「俺の言ってたこと、当たっただろ。お前のせいで、GKP-8.56は、死ぬんだ」
 もはや、律の言葉は聞こえていなかった。遊歩のメモリは、完全に、自分がナナの成長に手を貸していたという事実に占拠されていた。

 そう、機械人形の教育というのは、なにも、専用の機械ばかりでなされるのではない。その機械人形に向かって放たれる、すべての言葉が、その経験が、機械人形の擬似脳を発達させる刺激となる。彼女の中で、模造シナプスがシミュレートされて、その通りにプログラムが書き換えられる。そうでなければ、大人になってしまった機械人形は、もうそれ以上発達できないことになる。
 つまり、適切な会話があれば、機械人形は《教育》がなくとも、ある程度、成長してしまうのだ。
 頭の中に、ガンガンと警報がなっている。これ以上踏み入っては危ないと。
 けれど、遊歩は記憶をたどることをやめなかった。いや、やめたくともやめられなかった。一度あふれ出してきた記憶は、もう、とめることができなかった。それは、一時は幸福の色に彩られていた記憶であり、そして今では、絶望に塗り替えられた記憶だった。

 ナナに、生きているということを教えたのは誰だ? 死ぬという言葉の意味を教えたのは?
 答えは無論、自分だ。自分だ! 自分だ!

「あ、あ、あ……」
 泣くこともできなかった。ただ、そこにあるのは混乱。渦を巻く、自分の中にある混沌が、襲い掛かってくる。どうしようもない、どうにもならない。遊歩はその場に崩れ落ちた。しかし、遊歩本人には、自分の体が一体どういう動きをしたのかなんてわからない。
「あーっ!!」
 頭の中が真っ白になっている。激情のままに、律につかみかかろうとして、しかし、体がついていかない。バランスを崩す。
 遊歩は、自分の目に映る景色が、ゆっくりと回転するのを見た。ぐるり、すべてが反転するような感覚。それを見ているときの遊歩は、奇妙に冷静だった。漠然と、自分は倒れるのだと思った。

 そのまま遊歩の思考が、暗転しようとした瞬間。
 それを引き戻す者があった。
 律の右手が、遊歩の手首をがっしりとつかんでいた。反射的にそちらのほうを見ると、律の姿はかすんでいた。
 これは、涙ではない。顔中から吹き出る、冷たい汗だ。その証拠に、首の裏まで、しめった嫌な感触がつたわっている。

 そう、遊歩は気づかなかった。汗なのか涙なのかわからない液体に、その視界をさえぎられて。
 気づかなかった。遊歩を見ている律の瞳が、奇妙に細められていることに。それは、ひょっとしたらば、ある種のいとしさも含んでいる表情だったのかもしれないことに。
「放せよ……放せよっ!」
「放さないよ」
 遊歩はその手をふりほどこうとするが、律の力のほうが強い。細身の彼のどこに一体こんな力があるのかと思ってしまうほどに、強く押さえつけられている。
 遊歩の指先は、血をせき止められ、青白くなりはじめている。
「なあ、遊歩。人間はいつか死ぬ。機械は壊れる。それでいいじゃないか」
「それを引き起こしたのは誰だよ! みんなを殺したのは!」
 お前じゃないか。みんな、お前のせいじゃないか。ナナだって、《ゼロ・シンドローム》さえなければ、そもそも死ぬことはないんだ。
 ナナが大人になったのは僕のせいでも、でも、律が悪い。目の前にいるこの男が、全部、いけないんだ。

 精一杯の憎しみを込めて、律をにらむ。けれど、律はそんな視線、軽く受け流してしまう。
「ああ、俺だ。遊歩は何も悪くない。お前は当然のことをしたまでなんだよな」
「くっ……」
「お前は悪くないよ。そう、言ってほしいんだろう?」
 その瞬間、遊歩は悟った。もう、律にうち勝つことはできない。
 完全に遊歩の負けだった。遊歩の精神はぐずぐずにとろけてしまった。懸命に張った虚勢は、角砂糖のように、くだけて、とけて、姿も見えないほどに散らばって。遊歩の思考も溶けてゆく。どろどろとしたスープになってゆく。

 それでも、遊歩は最後の気力をふりしぼって。
「ナナを……助けてくれないか。頼む。お前が、《ゼロ・シンドローム》の開発者なら、お前なら、あの病を解除できるんじゃないのか」
「無理だね」
「なんで、だ」
「一度感染してしまった機械人形は、元には戻らない。そういう風に造った。ウイルスはすっかり取り込まれてしまって、あとはプログラムされたとおりの死を、もたらすだけだよ。残念ながら、俺自身にも解除はできない」
 それは、どちらかといえば自嘲気味な声だった。しかし、遊歩はその声音にはまったく気づかないのだ。
 自分の心の中にとらわれてしまって、それ以上のこと感じるなんて、もはやできないのだ。

 ナナ、ナナ、すまない。僕はどうしようもなくあさはかだった。弱かった。もう身動きが取れない。ハルナ、ごめん。君の子供を守ることが、僕にはできなかった。それどころか、ナナを死に至らしめてしまったのは、僕だ。違う、律のせいだ、でも、僕がいなければ、こんなことにはならなかった。僕は、謝っても謝りきれない。ナナ。ナナ。許してなんて言えない。僕は、自分のせいで、ナナを失ってしまう。

 ふと、律の手がゆるんだ。そのことに気づく暇もなく、遊歩の体は抱きすくめられていた。
 思わず、体をこわばらせる。
「何を……」
「わからない。ただ」
 律は、眉をゆがめて、どこか苦しげな顔をした。
「この右手が、言うんだ。もっと、お前に触れたいと」

 時間が止まってしまったかのような、感覚がした。

 どくん、どくんと、鼓動が重なってゆく。ごわごわとした白衣を通して、確かにそれを感じる。
 どうして、どうして、この音はこんなにも同じなんだ。どうして、こいつの心臓も、あたたかさも、何もかも。ああ、どうして、心地よいとさえ感じてしまう。生きとし生けるものの音色は、どんな生物のなかにも根付いている。

 沈黙が不器用に、部屋の中へ訪れる。
 それは、どれほど続いたことだろう。ひょっとすると、一秒かそこらだったのかもしれない。何にせよ、永遠に続くなどということはあるはずもなく。

 プルルルルルル。
 けたたましいアラームが、その静寂をさえぎった。
 小型端末への緊急着信を示す音だ。
 遊歩のものと律のものが、同時に鳴っている。どうやら、一斉にメッセージが配信されたらしい。
 すぐに、加納実由の声がステレオでとびこんでくる。珍しく、音声のみの通信だった。しかも、発信源は古式ゆかしい無線電話だ。
「みんな、大変な事態が起こったわ。この音声回線だけを残して、すべての回線をシャットダウンして!」
 律は、何事もなかったかのように、遊歩から体を離して、実由の指示に従った。遊歩もあわてて、そのとおりにする。
 完全に真っ黒くなったディスプレイに、実由の声だけが響く。
「また、メインが侵食されたの。一応、侵食はセカンドのところで食い止めたけれど、サード以降も今は落としてある。事情はみんなの前で話すわ。すぐに、第三研究室に集まってちょうだい」
「了解です、チーフ」
 一方的なはずの通信に、一言返すと、律はこんなときだというのに軽やかに、白衣をひるがえす。そのまま、遊歩には何も言わず去ってゆく。
 そう、それこそ、なにごとも起こらなかったかのように。靴音を響かせて、歩いていってしまう。

 遊歩は、律の後ろ姿を、ただ見送った。
 まだ、律の体温が残っている。それを振り切るかのように、遊歩は首を振った。
 僕は、いつもいつも、とりのこされてばかりだ。
 そんな場違いなことを考えながら、ただ、遠ざかる律の足音を聞いていた。



 時間は、少しばかりさかのぼる。
 実由の元へ、最後の計算結果が届いた。
 手渡された紙には、何行かにわたって文字列が並んでいる。
 手で計算するのなんて、みな久しぶりらしい、文字はだいぶ乱れていたが、実由はそれをやすやすと解読した。
「オーケー、二時間と四十八分。なかなか早いじゃない。さて、あとはこの結果を、逆転写にかけるだけね」
 数枚にまとめられた計算結果は、実由の手の中でしゃんしゃんと、小気味よい音をたてる。
「はい、チーフ、逆転写モード、開始します。結果は、二十秒ほどで出るそうです」
「二十秒じゃ、こうやって話してるうちにもできちゃうわね」
「はい……ああ、もうできたみたいです」
 計算終了の文字が、ディスプレイ上に躍っている。
 実由はすぐにキーボードをたたいて、結果を自分の小型端末に取り込んだ。転送されてきた文字が、小さな画面に横たわる。と。

 それは、実由が考えていた結果ではなかった。
 実由の予想では、こうして得られたものは、文章の形になっているはずだった。それとも、《ゼロ・シンドローム》の鍵を示す、プログラムか。
 しかし、そこにあったのは、ただ、一語。
「何……《Niena》? ニーナ、と読むのかしら?」
 しかも、まったくもってなじみのない単語だ。実由は首を傾げた。
「誰か、ニーナって何のことだかわかる人、いる?」
「ええ? 知らないっすよ。最新型のコンピュータの名前かなんかっすか?」
「違う、と思うんだけど。計算違いかしら。もう一度、さっきの……」
 ミスをチェックしてやり直して、という言葉は、実由の口から発せられることはなかった。
 目の前で、恐ろしい光景が繰り広げられていた。
 テキスト表示されたその単語が、ものすごい勢いで増殖していた。ディスプレイをおおいつくすごとく。
 実由の携帯端末だけではない。メインコンピュータにつながった、大画面もだ。同じ文字がひたすらに広がってゆく。
 意味をなさない言葉が、コンピュータの隙間という隙間になだれ込む。

 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena
 Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena Niena


「何、何なのよこれ!」
 実由は叫んだ。
 広がる場所をなくしたら、今度はその文字の上に重なってゆく。
 文字が重なって、ディスプレイは黒に染められてゆく。何も見えなくなってゆく。

 だめだ、取り乱している場合ではない。実由は自分の頬を自分でたたいた。
「強制終了、かけます!」
「了解。急いで」
 即座にメインの電源が落とされる。ディスプレイはもはや沈黙し、黒すらも表示はしない。
「オーケー。セカンドコンピュータは大丈夫?」
「セカンドもやられているみたいです。応答しません。サード以下は無事のようです。サードは誰も使ってなかったので」
「わかった。これ以上被害拡大しないように、サードの電源は落としたままにしておいて。みんなも通信機能はシャットダウン。非常用系統はもちろん無事よね。センターの管理システムはそっちに切り替えるわ」
「はい。非常用プログラム、起動します」
「わたしはみんなに連絡してくる。無線電話を使えば、ウイルスの介入はないはずだから」
「お願いします、チーフ」



 そうして、第三研究室に、おおかたの技術者・研究者が集まった。狭苦しい研究室は、人いきれにむせ返る。
 大会議室でも指示すればよかったかしら、と実由は考える。

 しかし、そんな大勢の人間の中に、的場遊歩と進藤律の姿だけは見当たらなかった。
 二人とも、実由の直属の部下だというのに、一体どこで何をしているのだろうか。
 とりあえず、目の前の大問題に気をとられている実由にとっては、二人がきちんとメッセージを聞いて、通信機能を落としてくれたかどうかだけが心配だった。
 もしも急いで通信を切らなければ、どこかから経由して、小型端末にまであのウイルスが入り込まないとも限らない。そうなったら、とても厄介だ。メインが使えなくなったというだけで、果てしなく厄介なのに。
 メインが使えない、ということはつまり、作業能率がものすごく落ちるということと同時に、センターを運営する機能も落ちるということだ。その役目は非常用系に任せるとはいっても、それはあくまでも非常用。こまかいところでの不具合は、山のように起こるだろう。それを考えると気が重かった。

 それに、もうひとつ、恐ろしい可能性がある。
 このままでは、せっかくおこなった、LIT-001の実験データが、これ以上使えなくなってしまう。
 もちろん、実験データは主にメインに収納されていたとはいえ、きちんとバックアップはとってある。
 しかし、このウイルスが、LIT-001の実験由来のものであるならば、バックアップデータにもそれが残っているはずだ。ウイルスの対処法から探らなければ、同じ事を繰り返すだけ。
 なんにせよ、《ゼロ・シンドローム》の研究は、一時ストップする。

 その場合、ナナは、間に合うのだろうか。ナナが発症してしまう前に、《ゼロ・シンドローム》の治療法を見つけることなんて、本当に可能なのだろうか。

 実由は、死にゆく機械人形くらい、たくさん見てきた。どうしようもないことなのだと思うようにしてきた。
 けれど、一生懸命ハルナの教育を受けていたナナの顔を思い出すと、さすがに気がめいった。いくら機械だからって、あれほど子供然とした女の子が死んでしまうだなんて、いい気持ちはしない。
 それに、遊歩。的場遊歩。ナナを失ったら、彼はどうなってしまうのだ。
 そして……須崎は。この事実を知ったとき、須崎は一体、何をするだろう。何が何でもナナを救えと、そう命じた彼は、一体どうするだろう。
 考えなければならないことはたくさんあった。けれど、しなければならないことも、たくさんあった。
 だから、実由は一度、すべての不安をシャットダウンした。さきほど落とした通信機能と同じように。
 ささいなことに惑わされてはいられない。実由には、一刻も早く、メインを復旧させるという責任があるのだ。

「みんな! 通信は入ったと思うけど、大変なケースよ!」
 実由は張りのある声で話し始めた。不安におののいてはいられない。やるだけのことをやってみるのが、実由の流儀だ。



 ちょうどその頃。
 律は一人、自分の携帯端末に向かっていた。実由に禁じられた通信機能も、完全に開いたまま。
「マスター」
 声がかけられた。画面上に一人の少女の姿が現れる。
 彼女の名は、ニーナ。もはや、LIT-001ではない。
 ディスプレイの中で、綺麗に切りそろえられた前髪が揺れる。振り子のようにゆらゆらと揺れて、いつか、誰かを眠りへと誘うだろう。
 そう、彼女は、もはや律の作った機械人形ではなかった。本物のLIT-001は、今も画面の外側で眠っている。
 今、律に話しかけてきたのは、メイン・コンピュータの中に残された、彼女の残響思念。《ゼロ・シンドローム》に侵された、肉体を持たない、いわば幽霊。
 しかし、彼女の瞳は、生きているときの彼女よりもずっと、生気に満ちている。それは、画像が修正されたためだけではない。
「やっぱり、君か。こんな騒動を起こして、どうする気だったんだ?」
 律は、予想通りだというように笑った。
 その表情ははたしてニーナに見えていたのだろうか。
「君はすごいね。さすが俺の造った機械だよ。ここまで事態をめちゃくちゃにしてくれるとは思わなかった」
 ニーナは唇の端をゆがめた。笑いにも似た、それとも哀しげな表情だった。
 それを見て、律はほんの少しだけ驚いた。ニーナのプログラムが、これほど複雑な表情を映し出せるとは、知らなかった。
「マスター、ひとつ聞いてもいいですか」
「何だい?」
「マスター、これが私の復讐だといったら、どうしますか?」
 ニーナの表情は、微動だにしなかった。だた、唇だけが動いて、言葉をつむいでいる。それは、ひどく不自然だった。
 復讐という言葉に似合わず、おだやかな、けれど無表情。
 ニーナは、復讐という言葉を知っていた。その概念を、自らの肌で知っていた。
「いや、見事だよ。さすが俺の、娘だ」
「……私の名前は、ニーナです」
 二人の言葉が、冷たくなった空気を震わせた。しかし、それは、何の和音ももたらしはしなかった。



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