第12章
的場遊歩は、それからしばらく、実由の元へ姿を現さなかった。
とりあえず、最優先で復旧させた通信システムをつかって話しかけてみても、何の応答もかえさない。
《特例措置》で部屋まで訪ねていっても、その扉があくことはない。
一日くらいなら、多少、鬱になることもあるだろう。変わり者の多い技術者の中で、遊歩は特に繊細なところがある。しかし、こう何日もだと、不安になる。
実際、実由は最悪の想像もした。
たとえば、遊歩が部屋の中で人知れず倒れて、そのまま誰も助けに来なかった。たとえば、メアリと同じように出奔した。たとえば、欝が昂じて早まったことをした。ナナがいる以上、遊歩がそんなことをするはずもないとは思いながらも、やっぱり悪い予感というものはかき消すことができない。
メイン・コンピュータの復旧は、着々と進んでいた。しかし、まだまだ先は長かった。
実由や律や、他の研究員たちもフル稼働で働いていたが、なかなか終わりが見えない。例の文字列は、コンピュータの細部まで侵食していた。修正プログラムを起動する領域まで侵されていたので、まず、そこを手で修正しなければならなかった。その作業が、思ったよりも時間を食っている。
それに、メイン・セカンドが壊されていることが拍車をかけていた。サード以下のコンピュータの処理速度は、メインに比べて数段落ちる。
もちろん、それでも通常の市民には手が出ないようなスーパーコンピュータではあるのだが。
このままでは、すべてのコンピュータを復旧するには、あと数週間かかりそうだった。
「チーフ、政府のほうに援軍とか頼めないんですか?」
実由は何度か言われたが、無理だと首を振った。
外界政府は、そもそも《コミュニティ》をこころよくは思っていない。救援依頼をしたところで、無視されるのが関の山だ。
最悪の場合だと、援軍にかこつけて、さらにこちら側に痛手を与えるような、スパイだとか、クラッカーを送り込んでくるかもしれない。
ただ、猫の手も借りたいというのは本当だった。せめて、遊歩ができるだけ早く復帰してくれたら、と実由は思う。
遊歩一人いたところで、作業能率自体はそれほど変わらない。しかし、彼がいないことは、黒々とした不安になって、みなの心に巣食っている。せめて、この不安を打ち消すことができればいいのに。
足元がふらついた。今までは、どれほど忙しくとも、こんなことなかった。そろそろ、体力も限界に来ているのかもしれない。
誰にも見られなかっただろうかと、あたりを見渡した。
そこへ、緊急通信が入った。見ると、須崎純也からだった。
実由はいぶかしんだ。コミュニティ管理局長が、一体何の用だろう。やはり、ナナのことだろうか。
通信を開始するのは気が重かったが、無視するわけにもいかない。
瞬時に映像が割り込んでくる。画面の向こう側の須崎は、奇妙に平面的だ。今は通信のデータ量を制限しているので、画像が荒いのは仕方のないことなのだが、薄っぺらい人間を見ていると、吐き気がする。実由も向こう側ではこんな風に映っているのだろうか。
「加納君、ちょっといいかな」
「なんでしょう、管理局長?」
声はこわばって、臨戦態勢。実由は、この管理局長が少しばかり苦手だった。
部下を人間扱いしないで、仕事の能率だけを求める姿勢を、実由は好かなかった。何度か、意見を対立させたことすらある。
もっとも、立場が余りに違いすぎるので、実由がかなう相手でもなかったが。
「メインの調子はどうだね?」
この声を聞くと、空気が張り詰めたような気がする。
「今、必死でメインの復旧をしているところです。あと二週間近くはかかるでしょうね」
本当は、二週間でも終わらないかもしれない。
「そうか、《ゼロ・シンドローム》はどうなった?」
「あれに関する調査は、いったん中断しています。この間の実験データが使えなくなってしまったので、今、進藤君が代案を練ってくれています」
「どのくらいで解決しそうかね?」
「それは……」
実由は言いよどんだ。まったく見当がつかなかった。
律の実験を行う前に、打つ手はすべて使い果たしてしまっていたのだ。《ゼロ・シンドローム》の研究は、完全に行き詰っていた。そうでなければ、あんな人体実験など、行われるはずがなかった。その実験が駄目になった以上、この先、なにをどうしていけばいいのか、実由にはわからない。
そのうち、律が、驚くような解決法を見つけるかもしれないが、今は、なにもわからない。
「二週間以内に、《ゼロ・シンドローム》を根絶できるか?」
「は?」
二ヶ月以内の間違いだろうか、と実由は思った。けれど、そこの部分の会話をプレイバックさせてみても、やはり、彼は二週間といっていた。
「二週間、ですか?」
無理だ。実由は心の中で即答した。
計算するまでもない。あと二週間では、ぎりぎり、コンピュータが復旧できるかどうかといったところだ。
そのうえに《ゼロ・シンドローム》を根絶するなど、できるはずがない。
けれど、実由はそれをなかなか口に出せなかった。ここで無理だといってしまったら、何か、負けたような気がするではないか。
「二週間以内に、終わるのか否か。聞かせてくれるだけでいい」
しかし、須崎の目は、いつになく真剣だった。荒い画像のもとでも、それははっきりとわかった。
「加納くん。どうなんだ?」
「正直な話、厳しいと思います。やはり、二ヶ月、いえ、せめて一ヶ月は見ていただかないと」
「そうか……」
須崎は、一瞬何か考え込むそぶりを見せたあと、こう言った。
「君のところの、ナナの教育を担当してくれた、あいつらはなんといったっけ?」
「的場君と、進藤君ですか?」
「そう、彼らのところにつないでもらえないかな。ちょっと相談したいことがあるのでね」
「何を、です?」
須崎は答えなかった。
平面の薄ら笑いが不気味に感じられた。この人が、一体何を考えているのか、わからない。
仕方なく、実由は、今彼らが何をしているのかチェックした。
進藤律は、第四研究室でなんらかの作業をしているようだった。ただし、忙しいらしく、通信はシャットアウトされている。
的場遊歩はといえば、今は自室にいるようだ。そこで何をしているのかは、よくわからないが。とりあえず、通信装置は起動させているらしい。
そういえば、ここのところ、進藤律も少しばかり、調子が悪いようだった。タイピングにもいつものキレがない。けれど、そんなことに気づいていたのは、ひょっとすると実由だけだったのかもしれない。
「進藤君はちょっと忙しいみたいですね。的場君は、大丈夫みたいですが」
「じゃあ、今すぐ頼む。一刻を争う事態なのでね」
わかりました、実由は言って、遊歩を呼び出しにかかった。また居留守を使われるかもしれないなと思いながら。
何回目かの呼び出し音が、狭い部屋に響き渡った。
遊歩の寝転がっている白いベッドは、汗でじっとりとしめっている。
室内の空調は正常に作動している。汗をかくはずなどないのだが、遊歩は、このところ、ずっと汗だくになって目覚めている。
十数時間眠り続けていた。まぶたがはれぼったくなっていた。
ずっと、悪夢を見ていた。真っ黒い空間の中に、だんだんと溶けてゆくナナの夢。手をつかんでひきとめようとしても、その手は雪のようにやわらかく、ぐずぐずに溶けてしまうのだ。
けれど、それはまだ良いほうだった。ナナの小さな体を、谷底に突き落とす夢だって、何度も見た。現実ではないはずなのに、手の中に、その感触は、あくまでリアルに残っているのだ。何度瞳を閉じたって、それはけっして消えてくれない。目覚めたって、同じこと。現実すらも遊歩を苛み続けているのだから。
ナナは死ぬ。遊歩のために死んでしまう。
今は生きて動いている彼女だけれども、そのうち必ず、死んでしまう。
刻一刻と、ナナの記憶領域は侵されてゆき、真っ白になって死んでしまう。刻一刻と。もうそのカウントは始まっているのかもしれない。
ナナ、僕には何ができるだろう。どうしたらいいんだろう。
君を守れなかった、君の手を離してしまった、君を死へ追いやってしまった僕に、一体何ができるっていうんだろう。
このまま、君と同じように、何もかもを失ってゆく以外、何ができるっていうんだろう。
それはもはや、つぐないですらない。
呼び出し音は未だ鳴り続けている。大方、加納チーフか誰かだろう。今日も無視してしまおうと思った。
しかし、それは緊急通信の音色だった。しばらく答えずにいると、勝手に端末のほうが応答して、向こうの音声が流れ始める。
「的場遊歩君……いるのかい?」
予想とは違っていた。それは男の声だった。律のものとも違う、比較的低い声だ。どこかで聞いたことがあるような気もするが、どうにも思い出せない。
「的場君、聞こえているかな。ナナのことで少しばかり、話したいことがあるんだ。今すぐ、コミュニティ中央管理局長室まで来てもらえないか」
管理局長室? 思いもよらない単語だった。
中央管理局は、文字通り、コミュニティ境界内の技術センターすべてを、統合する場所である。機械人形に運営されるコミュニティ政府にも、意見を提出することができる唯一の機関だ。かの地にはここ以上に優秀な人材がそろっているという。
遊歩や、他の職員も、めったに生殖サポートセンターから出てゆかない。
最低限の生活用品は、センター内でとりよせることができるし、他の部署と共同で仕事をすることもあまりない。もちろん、実由のようなチーフであれば、他部署との連携も必要になってくるのだが。
下っ端の遊歩にとっては、管理局など、はてしなく遠い場所だった。
「どうだい、的場君?」
聞き覚えがあるはずだ。コミュニティ管理局長の声。境界発行の公報などで、何度かその声を聞いた。
深みがある、そのせいで少しばかり眠気を誘う声。確かにそれは、須崎純也のものだった。
けれど、何故? ナナのことで、遊歩を責めようとでもいうのだろうか。もしもそうなら、遊歩は、それを甘んじて受け入れなければならない。
遊歩はのっそりと起き上がる。かれこれ何日ぶりかに、地に足をつけた。床の固さを素足に感じる。
「局長……?」
小型端末に向かう。そこには、本当に、須崎の顔が表示されていた。ほりの深い顔立ちが、データ制限のせいでのっぺりしたものになっている。
「どうしても一度、君と話しておきたくてね。ナナについて。コーヒーかお茶くらいご馳走するよ」
「いえ……それは結構です」
苦味が舌の上によみがえってくる。あの時、律が出してきた味を思いだす。
つい、眉がゆがんでしまったが、須崎はそれに気づいただろうか。そんな微妙な表情の変化は、圧縮されたデータにまぎれて、見えなかったかもしれない。
「それで、来てもらえるのかな?」
「はい、今すぐ、行かせていただきます」
管理局までは、比較的遠い。向こうに着くまでに数十分かかるかもしれない。
遊歩はそのまま部屋を出た。服はしわくちゃ、目は曇ったままだったが、そんなことは気にならなかった。
中央管理局までの道は、ちょっとした散歩道になっている。
今ではめったにお目にかかれない、生の土と、うっそうと茂った草木たち。
その合間からいい風が流れてくる。じめじめした遊歩の体を乾かそうとしてくれる。
しかし、その風も、実際はつくりものだ。風だけじゃない、草花だって、それに空だって、コミュニティ政府によって、厳重に管理されている。
傍らにある大きな葉の上、転がる朝露も、全部全部予定通りに動いている。雨が降るのはきっかり二十日おきだ。曇天は十日に一度。二ヵ月おきには虹が出る。
気象コントロールシステムが狂ったことは、今までに一度もない。
今現在、空は真っ青で、わたあめの雲がワルツを踊っている。でも、遊歩はその雲が決して甘くなんてないことを知っている。
管理局長室に入るのなんて初めてだった。
「今日のことは秘密にしておいてもらいたいんでね」
そう言って、須崎は片目をつぶった。まだ茶目っ気を残した瞳だった。
局長室は、思ったよりもずっと簡素だった。
シンプルなデザインのローテーブルがひとつ。一人がけのソファ三脚。名前も知らない、おそらくは新種の観葉植物。壁からスライドするタイプのコンピュータが二台。照明はシャンデリアなどではなく、そっけないライトがひとつきり。
それこそおどろくほどにそっけない部屋だった。
そんなそっけない部屋の中、須崎純也は悠然とソファに腰掛けていた。
「落ち着かないかな?」
この部屋は、妙だ。そわそわとしている遊歩を見て、須崎は声をかけた。
「そんなことないですけど」
「ああ、お茶がまだだったね」
「あ、いえ、結構です」
「遠慮しなくていいよ。やり方はプログラムしてあるから」
須崎は立ち上がり、備え付けの調理機に何事かを指示した。調理機は即座に反応し、いくつかのランプを明滅させる。
二分ほどして、ティーセットが二組現れた。シンプルな調理機にはそぐわない、派手な花柄模様だ。その中には緑がかった茶が、なみなみとつがれている。古風な香りがたつ。
「カモミールティー?」
遊歩は、須崎に聞こえないほどの声でつぶやいた。
遊歩の鼻をくすぐる、ほのかな香りは、まさしくカモミールだった。それも、遊歩が好んで飲む銘柄の、今では珍しい葉だ。
「遺伝子操作とかされてないけれどね、それはそれでなかなかおいしいものだよ」
「そう、ですか」
遊歩はカップに口をつけた。あたたかさが口の中へ流れ込んできた。
このハーブティは、ハルナから教わったものとまるで同じだった。懐かしい味に、遊歩はふと癒されたような気分になる。
そういえば、最近は、ゆっくりとお茶を飲むこともしなかった。切り取られてとがった心が、すこしずつ、まあるくなってゆく。
遊歩が口元をゆるめたとたん、須崎は本題に入った。
「GKP-8.56、ナナを、凍結しようと思う」
不意打ちだった。遊歩は手を止めて、須崎の顔をまじまじ見てしまう。
「とうけつ……?」
意味がよくわからなくて、遊歩は聞き返した。とうけつ。漢字変換の候補はひとつしかない。けれど。
「人間でいうところの、冷凍睡眠だね。肉体の代謝を完全に抑えて、未来で復活させる。機械人形なら、そもそも電源を落として、封じ込めてしまえばいいだけだから、遺伝子操作が必要な人間よりもずっと簡単だろう」
凍結という言葉からは、それしか考えられない。壊れかけた機械を救う最後の手段だ。けれど。
「どうして……」
どうして、そんなことをするんですか。遊歩が言う前に、須崎が口を開いた。
「君たちは、ナナを救えないんだろう。今の状態では、《ゼロ・シンドローム》の治療法が見つかる前に、ナナが死んでしまうと言ったのは、君のところのチーフだ。バックアップだって取れない。それなら、未来へ望みを託すしかないじゃないか」
確かにそうなのだ。今の段階では、ナナを治療することはできない。でも、彼女の電源を落としてしまえば、病の進行は止められる。
けれど、それは前例のないことだった。特殊型機械人形の中には、寿命をまっとうするという概念が染み付いており、電源を切ったときはすなわち死ぬときだと、そう思われていた。
だから、基本的に、機械人形個人のバックアップを取ることも、禁止されているのだ。主に、精神的な理由において。
遊歩は口をぱくぱくとさせた。どう答えたらいいのかわからなかった。
須崎の言うとおりにすれば、ナナは助かるのかもしれない。
未来の、一体いつになるかわからないけれど未来で、ナナは大人になったまま、元気に生活してゆけるのかもしれない。そう、けれど、釈然としないこの思いはなんだろう。
ひょっとしたら、それは。
遊歩は気づかなかったことだけれど、須崎の提案を受け入れるということは、永遠に、ナナを手放してしまうということだ。凍結状態になってしまえば、ナナはきっと、中央管理局の手に渡る。そして、そこでケアを受ける。
遊歩には、もう出る幕なんてない。ハルナとの約束も、最悪な形で破られたままになる。
それに、凍結させるということは、あとで復活するにしろ、一度、ナナを殺してしまうことに等しい。
ナナは動かなくなり、精神活動すらやめて、死んだように眠り続けるのだ。棺の中のハルナと同じ、綺麗なままの姿で、仮死状態になるのだ。それは、その状況を想像することは、遊歩にとって痛すぎた。
答えられずにいる遊歩に向かって、須崎はたたみかけてくる。
「いつになるかわからないけど、ナナはきっと救われる。一ヵ月後かもしれない、一年後、それとも数年かかるかもわからない。でも、いつか、《ゼロ・シンドローム》なんてなかったかのように、ナナは復活する。元気に動き回って、笑顔を見せてくれるだろう。的場君、君は、そんなナナを見たいと思わないか?」
「それは……」
それは思う、ナナには元気になってほしい。ナナは、こんなところで死んでいい存在ではない。でも。
「私は、ナナを失うわけにはいかないんだよ」
須崎の声は真剣だった。こうまでして、須崎はナナを助けようとしている。
けれど、何が彼を突き動かしているのか、遊歩は疑問に思う。
ナナは、遊歩にとってはかけがえのない機械人形だ。でも、そこまで優秀なわけでも、特に容姿が整っているわけでもない、ごく普通の十二歳型機械人形。
須崎がこうもナナにこだわる理由がわからない。他にも、《ゼロ・シンドローム》に感染している機械人形は、いくらでもいるのだ。
「どうして、ですか?」
遊歩は口に出した。
「どうして、そんなに、ナナだけを、助けたいと、思うんですか」
一文節ずつ、はっきりと発音する。須崎は苦笑いした。
「それは……」
須崎は一瞬、どこか遠くを見るような目をして。
「ナナが、私の娘だからだよ」
「む……すめ?」
どういう意味だ。ナナは機械人形だ。人間の子供であるはずがない。
それ以前に、ナナは確実に、ハルナの子供だ。須崎の娘でなんて、あるはずがない。
いや、ひとつだけ、可能性がある。けれど、そんなことって。
頭の中がぐるぐるとしていた。カモミールの香りが漂ってくる。ハルナの顔がぐるぐると、その中へ溶けてゆく。
須崎が口を開く。それが、遊歩にはまるでスローモーションに見えた。
「ナナは、私と……ハルナの、大事な娘なんだよ」
最後通告は、ゆっくりと、穏やかな声に乗っておとずれた。
須崎のそれは、ひとつの思い出話。
「私と彼女が出会ったのは、ちょうど、今から十五年ほど前だ。まだ技術養成所を出たばかりの頃だね。私が就職のために、境界の医療セクションへ来た、そのときだよ。そのとき、偶然腕を怪我して、医療セクションで治療をうけていたハルナに出会った。ハルナは確か、四歳だったかな。大人の仲間入りをして、けれど、まだどこか初々しさを残していた。
私はハルナを担当していた技師の元につけられて、彼女とよく話したよ。
ハルナは、とても綺麗だったよ。君も知っているだろうけどね、今と少しも変わらない、当たり前か。背なんか男の私よりも高くてね。いつも見下ろされていた。あれはちょっと悔しかったよ。いつだって、姿勢を正して、毅然とした女だった」
須崎は、もはや遊歩のほうなど見ていなかった。顔は確かに遊歩のほうを向いていたが、目は、そのずっと向こうを見ていた。
遊歩はその視線に押されてしまいながらも、そこに、父親の幻影を見ていた。愛する機械人形に気をとられて、自分のことなんか見向きもしなかった、父をそこに見ていた。
「私は、ハルナに夢中になった。彼女は完璧だと思った。ハルナは美しいだけの人形なんかじゃなかった。
何がきっかけってわけじゃない。けれど、私たちはいつしか、恋に落ちたんだ」
ハルナ。遊歩が出会った頃には、すでに須崎と恋に落ちていた。そんなこと、遊歩は知らなかった。知らなかったのだ。
「幸せだった、よ。ここでの生活は、なかなか苦労も多かったけど、ハルナがいてくれたことは、私にとってとても大きなことだった。いつもそばにいてくれる人がいるというのは、やはり生活に活気を与えてくれるものだよ。ハルナはいつも、私を待ってくれていた」
聞きたくないと思った。けれど、耳をふさぐことすら、遊歩にはできなかった。
「けれど……機械人形は歳をとらない。もちろん、年齢というものは、毎年加算されてゆくよ。けれど、彼女の外見はまるで変わらないんだ。ハルナの外見は、いつまでも十五歳のままだ。私だけが老いてゆく。私だってそのころはまだ、若いといっていい年齢だった。けれども、いつか、ハルナを置いてゆくことになるだろう。私にはわかっていた」
遠くを見ながら話し続ける須崎の声は、奇妙に淡々としていた。夢物語を語るような口調だった。
それは、本当に、いつかユーナのことを語った父にそっくりで。
言葉は、聞いたそばから消えてゆく。なのに、遊歩の中にはずっと、しこりのようにたまっていく。
「だから、ナナを造った。私とハルナの間の子供を造りたかった。私の遺伝子を、Xチップに写し取ってもらった。時間はかかったけれどね。それを、ハルナのXチップと組み合わせて、ナナを造ってもらった。だから、ナナは、まちがいなく、私の子供なんだよ」
機械人形と人間の間に生まれた子供。
ナナが、そうだというのか。ナナが、ハルナと、目の前にいる男との子供だというのか。
自分自身の子供時代が、フラッシュバックする。ずっといじめられていた。お前は機械だっていわれて、いじめられてきた。お父さんはいつも研究室にこもりきりで、ほとんど顔をあわせなかった。ずっと、歯をくいしばってたえているだけだった。他にできることなんてなくって、やさしい言葉なんて、誰もかけてくれなくって。
なのに、どうしてナナは笑っていられる。同じ、機械と人間の子供なのに。
唯一、遊歩を救ってくれたハルナは、ナナを生んだ。遊歩と同じ運命を持つ子供を生んだ。
ハルナが生きているって言ってくれたから、遊歩はここまでこれた。恋焦がれてたハルナ、なのに彼女には須崎純也がいる。人間の恋人がいる。分け入ることなんてできない。ハルナは、須崎のことを話してさえくれなかった。
ナナのことは、ほんとに、いとしいって思ってた。でも、それは自分とおなじ境遇だからなのかもしれなかった。心のどこかで、それを感じ取っていたからなのかもしれなかった。メアリのことだってそう。同情と、共感と、自分の思いは、それだけだったのかもしれない。
もし、そうじゃなくっても、どちらにしろ、遊歩はもうじき、ナナを失う。けれど、ナナを死に追いやったのは、遊歩自身で。
いろんなことがぐちゃぐちゃになって、遊歩に襲い掛かってきた。
目が熱い。目頭がどうしようもなく熱い。
どうして自分は、こんなにも、泣きそうになっているんだろう。
「私は、ナナを失いたくないんだよ」
その気持ちは遊歩だって同じだ。でも。
須崎の姿が、父親とかぶって見えた。なかなか会えなかったから、ぼんやりとした記憶、それは完全に、須崎と重なる。
そして、父だといって渡された、白い球体の感触すらも、遊歩のもとへよみがえってくる。どうしようもない、大馬鹿者。ただの道化。
今の自分ともそっくりだ。笑いがこみ上げてくる。大嫌いだった。なのに、自分のやっていることといったら、彼と少しも変わらない。
ハルナの幻影を追い求めて、ハルナを失って、壊れかけて、でも何かにすがろうとして。全然、変わらないじゃないか。
「的場君、君にもわかるだろう」
「僕はっ……」
声がでてこない。無理やりにふりしぼる。
父さん。
「僕は、機械人形に本気で惚れるほど、馬鹿じゃありませんから」
挑戦的な表情をした、と思ったのは遊歩だけだったかもしれない。とにかく、言い捨てて遊歩は駆け出した。走って、局長室を飛び出した。
……否、逃げ出したのだ。振り切ってもいつまでも追ってくる、父親の幻影から。
須崎は、それを止めることさえしなかった。ただ、ゆったりと、ソファに沈み込んだ。
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