第13章



 遊歩は走った。あてなんてなかった。とにかく、何もかもから逃げ出したくって、懸命に走った。
 たまっていた涙が、走る勢いで後ろへと流れ出す。耳をもぬらしてゆく。走ることによって生まれる向かい風、空気の抵抗が、遊歩の頬をなぜて、涙をつめたく乾かしてゆく。
 けれど流れる液体はとめどなく、遊歩はますます冷えていく。走っているというのに、こんなにも寒い。夕暮れの冷え切った空気は、それをさらに加速させる。
 オレンジと青の入り混じった空は、炎が燃えているようでもあり、あんなに暖かそうなのに。
 つくりものの自然の中を走ってゆく。あたたかいものがほしい。なにか、この冷え切った体をあたためてくれるものがほしい。
 どこをどう走ったのか、どのくらい走ったのかわからない。気がつくと、遊歩はその部屋の前に立っていた。無意識のなせるわざだったのだろうか。子供っぽいルームプレートがかかった扉は、間違いなく、ナナの暮らす部屋を示している。

 もう二度と会えないと思っていた。
 いまさらナナに会いに行くなんて、許されないことだと思っていた。けれど、きてしまった。恋しさに、負けてしまった。

 遊歩は無言で扉を開けた。
 ふわふわしたベッドの上で、ナナはかわいい寝顔を見せている。
 部屋の中はあいも変わらず、子供らしい装飾でごてごてしていて、なんだか切なかった。
 ナナはもう子供じゃないはずなのに、部屋だけが置いてけぼりをくったかのようにそのままで。
 ナナの寝顔は、それこそ天使のような。やわらかそうな髪の毛がまぶたにかかっている。目を開いた瞬間に、翼を広げて、空へ飛んでいってしまいそうな寝顔だった。いや、ナナはいずれ、空をのぼってゆくのだろう。
「ナナ……」
 救いを求めるような声に、自分でも驚く。いつの間に、自分はこんなに弱くなってしまったのだろうかと、自嘲気味に笑う。
「ナナ、ごめんね」

「遊歩おにいちゃん?」
 ナナが目を開いて、ゆっくりと起き上がった。緩慢な動きに連動して、衣擦れの音が心地よい。
「起こしちゃった?」
「おにいちゃんが入ってきたときから、起きてたよ」
 ナナは思い切りよく伸びをする。
 猫みたいだな、と遊歩は思う。猫なんて、最近はなかなか見かけないけれど。甘ったるい部屋の中に暮らす子猫が一匹、自由に外へ出ることもできずに。
「なんか、久しぶりだね。お兄ちゃん、元気ないの?」
 まっすぐにナナがみつめてくる。その瞳を真正面で受け止めて、遊歩はどぎまぎとしてしまった。
「何で?」
「ん。むずかしそうな顔してるから」
 ふっくらと、指が遊歩の両頬に伸びてくる。そのまま頬の肉をつかんで、うにょーんと引き伸ばす。
「!?」
 遊歩の口から出た音声は、もはや言葉になっていなかった。両頬が引っ張られているのだから当然だ。
 ナナは十二歳型とはいえ、機械人形なので、力は強い。引っ張られているほっぺたは意外なほど痛かった。
 そのまま、ナナはうにょうにょうにょーんと遊びながら
「元気ださなきゃダメだよ。おにいちゃんは、絶対。元気でなきゃダメ。あたし、おにいちゃんの元気な顔が見たかったんだから」
 遊歩を笑わせてくれようとしているのは痛いほどわかる。けれど、遊歩にはそもそも、ナナに慰めてもらえるような人間ではないのだ。
 やはり、来なければよかったかもしれないと思う。ナナが明るくふるまうほど、遊歩の罪は重くのしかかってくるようで。
 窓によって切り取られた空は、暗くて、星々がかすかな光を散らしている。それは、ナナが手を広げた幅よりも狭いほどの空間で。ナナの世界は、こんなに小さな窓でしかない。
 なのにナナは今、それすらも失おうとしているのだ。
「ナナ……ごめん」
 意識する前に、手が動いていた。ナナを、自分の胸に押し付けた。ふわりと、ナナの髪が遊歩の首筋にかかった。

 遊歩の手の中にあるのは、あまりにもちいさな体、腕の中にもすっぽりと入ってしまう。なのに、こんなにもあたたかくて。
 遊歩は、その心地よさを、できるかぎり感じないようにする。
 できることならば。
 僕の体にある熱を、すべて彼女に。僕の体中のあたたかさを、全部彼女に。僕は、冷たくなったってかまわないから。
 できることならば、ナナを、いつまでもあたたかいままで。

 生きている証を、その熱を、失わないままでいてほしい。

「ごめん、ナナ。ほんとに、ごめん」
 遊歩はただ、口の中で繰り返していた。それはまるで魔法の呪文のようで、本当にこの呪文が効いて、ナナが元気になってくれるならいいと思った。
「ごめんね、ごめん、ナナ……」
「どうしてあやまるの?」
 答えられなかった。ただ、ナナを抱きしめる腕に力を込めた。
「わかった、くまさんを勝手に取って行っちゃったことでしょ。平気だよ。あたしはもう、くまさんがいなくても、いろんなことがわかるんだもん」
 ナナが話していたくまさんは、律による細工の賜物だった。
 遊歩自身が切り裂いた、テディ・ベアのお腹。ふわりふわりと、雪のようにパンヤが舞っていた。ナナを大人にしたくまさんは、真っ二つに引き裂かれた。ならば、遊歩は、一体どうなるのだろう。その片割れを担った遊歩には、一体どんな裁きがくだるのだろう。

「ねえ、おにいちゃん。あたしは、怖くなんてないよ」
「え?」
 ナナのセリフはあまりに唐突で、遊歩は一瞬、聞き逃したかと思った。
「あのね、あたしは知ってるの。あたしが、これからどうなっていくのかとか、知ってるの」
「ナナ……」
 遊歩は口元をゆがめて、ナナにすがりつく。少しでも、ナナをこちら側につなぎとめておけるように。
「でも、怖くなんてないのよ。夢を見たの。真っ白いものが、あたしを食べにおいかけてくるの。大きな大きなゼロがね、あたしを食べようと襲ってくるのよ。でも、それは、怖いことじゃないの。うれしいことでもないけれど、でも、全然怖いことじゃないのよ」
 そういったナナの表情は、不気味なほどに穏やかで、遊歩はふと、怖くなる。このまま、体を離してしまったら、ナナは完全に、生きるのをやめてしまうのではないかと、怖くなる。
「でも……ナナがそんな風になったのは」
 僕のせいだ、言いかけた口は、ナナの手でふさがれる。唇に、じかにナナの鼓動が伝わってくる。
「遊歩おにいちゃんのおかげ、だよ。あたしは、おにいちゃんのおかげで大人になれたの」
「どういう、意味?」
「ねえ、おにいちゃん、あたしは、いろんなものが見たかった。いろんなお話をしてもらいたかったし、いろんなお勉強がしたかった。大人になったのは、あたしだよ。おにいちゃんがいくら、お話をしてくれても、あたしが聴かなかったら、全然意味ないもの。あたしが、大人になりたいって思ったから、がんばって、おにいちゃんたちみたいに一人前になりたいって思ったから、あたしは、成長したの」
「いいんだよ、僕を責めてくれても」
 いたたまれなかった。ナナが死ぬのは遊歩にも責任があるのに、ナナはこうやって穏やかに笑って、遊歩を包もうとする。
 思い切り罵倒されるほうが楽だったかもしれない。このままでは、完全に、ナナのやさしさによりかかってしまいそうだった。それは許されることなんかじゃないって、わかっているはずなのに。

 ナナは、遊歩の手を緩やかにほどいた。背伸びをして、遊歩の頬を両手で包む。
 外見にそぐわない、大人っぽい動作だった。
「違うの。あたしはね、ずっと、おにいちゃんに追いつきたかった。おにいちゃんたちと一緒に、いろんなところへ行きたかったの。あたし、子供のまま、生きていくなんていやだった。子供のままじゃ、なんにもできない。同じところで止まったまま生きてくんなら、死んでるのと同じだよ。止まってるのなんて嫌だった。前に進みたかったの。あたし、生きたかったんだもん。ちゃんと、生きてるよって胸張って言えるようになりたかったんだもん」
「ナナ……」
 何を言ったらいいのかわからなかった。
 だから、遊歩はその名前を呼んだ。ナナ、と一言呼んだ。精一杯のいとおしさをこめて。万感の思いを込めて。

 ナナは、一体いつの間に、こんなにも強くなっていたんだろう。どうして、自分はこんなにも弱いのだろう。どうしようもなく弱いんだろう。
 まっすぐな瞳が、遊歩の胸を射る。ハルナの目を思い出す。親子だから、当然なのかもしれないけれど、その目に宿る光は、今のナナとそっくりだった。
「だから、おにいちゃんに言わなきゃいけないの。遊歩おにいちゃん、ありがとう。ナナを大人にしてくれて」

 ありがとう、ナナをおとなにしてくれて。

 ナナの姿が輝いて見えたのは、遊歩の目にたまった涙のせいだったのかもしれない。
「おにいちゃん、ありがとう」
 言われると同時に、遊歩の目から大粒の涙が零れ落ちた。
 一度こぼれてしまった涙は、とめどなく流れ続ける。今まで遊歩が苦しんできたことすべてを、洗い流してしまうかのように、ただただ、あふれ出す。
 遊歩は今、ようやく、わかったような気がした。
 ナナのために、遊歩がしてあげられること。たった一つの答えが、ようやく見えたような気がした。

「ナナ、ナナは、たとえ死んでしまうことになっても、前に進みたいって思ったんだね」
「うん!」
 こんなシリアスな場面には似つかわしくない、元気のよい返事だった。けれど、遊歩はその返事を、このうえなくナナらしいと思った。
「それなら……ナナ、僕と一緒に行こう」
「どこへ?」
「どこでもいいんだ。とにかく、ここじゃない場所。もっとずっと、広い世界を見にいくんだ」

 遊歩の役目、それは、ナナをこの狭い籠から出してあげること。それに違いない。
 ナナと二人で、《コミュニティ》を抜け出す。そして、どこまでもゆく。
 《コミュニティ》にいても、ナナは凍結されてしまう。死んだのと同じ状態になって、いつくるかもわからない目覚めをただ待っているだけ。それよりは、ナナにもっと大きな世界を見せてあげたい。綺麗なものじゃないかもしれないけど、ナナの進みたがってる方角へ、どこまでも進ませてやりたい。たとえ、残り時間がわずかしかなくても。それが、ナナの教育者たる遊歩の役目だ。

 なあ、ハルナ、これでいいんだろう? これで、よかったんだろう?



 実由は手に持っていた書類を置くと、思い切り伸びをした。
 んー、と鼻を鳴らす。と。
 絶好のタイミングで、夜勤の助手がコーヒーを持ってきてくれる。センター支給の即席ものではなく、きちんと手で入れたものらしい。匂いが全然違う。
「ありがとう」
「チーフ、こんな時間にコーヒーだなんて、まだ働く気ですか? せっかくメンテナンスでコンピュータ使えないんだから、ちょっとくらい休めば良いじゃないですか」
 時は夜中の三時。
 毎日の一斉メンテナンスは、メインが使えない今も、普段どおりに行われている。メンテナンス中はどのコンピュータも使えないので、実由はプリントアウトされた書類を見ながら、これからの計画を練っているのだった。
「ここのところ全然寝てないの、知ってるんですよ」
「仕方ないじゃない、最近、トラブルが解決しないうちに次のトラブルが起こるんだもの」
 ドミノ倒しみたいよね、と実由は思う。
 一度崩れだすと、ドミノはばたばた倒れていって、それをあせってとめようとしても、事態はますますひどくなるだけ。最悪のパターンに陥っている。
 実由にはそれがわかるから、だからこそ少しでも状況を好転させておきたい。
「それに、昨日は四時間寝たわよ、今日は気分がいいの」
「チーフ、次にコーヒーを要求したら、中に睡眠薬入れておきますからね」
「はあい」
 実由はしぶしぶ返事をすると、ちびちびとコーヒーを飲み始めた。飲みながら、何百枚にもわたる書類をめくる。

「今日はなんの書類ですか」
「ん、《ゼロ・シンドローム》感染者に、何か共通項がないかなと思って。ナナたちのデータが使えない以上、ローカルな推理力を駆使するしかないでしょう」
 そんなことでも、やってみるしかない。
 須崎に言われた二週間で、《ゼロ・シンドローム》を根絶するには、通常の方法なんて使っていられない。それこそ、動物的な勘にでも頼らなければ。一秒だって時間がもったいない。
「何か見つかりましたか?」
「これといったことはないわね。男女差もないし、子供以外は年齢差もない。どうやら、このセンターであいつに感染したケースが多いみたいだけど……ここだけで使う、何か特別なシステムってあったかしら」
「教育、くらいでしょうね」
「そう。でも、教育のシステムは、子供が発症しないってわかったときに、なんどもチェックしたわ。でも異常らしい異常は見つからなかった……」
 実由は思い切りコーヒーをあおった。愛用のカップに半分ほどになったのを見て、少しばかり後悔する。最後の一杯だから、大事に飲もうかと思っていたのに。
 相当いらだっているな、と自分でも思う。

「あの、ぼく、考えたんですけどね」
 もじもじと指を動かしながら、助手が言う。
「なあに?」
「素人考えだって笑わないでほしいんですけど、あの、この《ゼロ・シンドローム》って呼ばれてるウイルスを作った奴は、一体なんだって、そんなもの作ってみたんでしょうね」
「そうね、機械人形に何か恨みがあるか、それとも造ってみたかっただけなのか、もしくは、もともとあった何らかのプログラムが、ミスコピーされて思いもかけない効果を持ったのかもしれない」
「大きな声じゃいえませんけど、あの、外界政府とかは?」
「外界政府?」
 とたんに、律の横顔がよみがえってくる。
 彼のしていた青いイヤリング。時には蒼といってもいいくらいに薄く輝く、外界政府の通信装置、それをつけていた律の右耳。時折ふれる、長い指。皮肉にゆがんだ口元。
 実由はその幻影を振り払うかのように言った。
「わたしもその可能性は考えたわ。でもね、外界政府が本当に《コミュニティ》を、特殊型機械人形を滅ぼすつもりならば、爆弾の一つや二つ、コミュニティに投げ込んだほうがずっと安上がりなのよ。《ゼロ・シンドローム》なんていうウイルスを開発するには、お金だってかかるでしょう。それでいて、わたしたちにウイルスの仕掛けを見抜かれてしまったら、そこで終わりなのよ」
 それに、たとえ不治の病で、機械人形の死亡率が多少あがったとして、こちら側には、出生率を増やすという選択がある。機械人形の人口を一時に減らすのは困難だろう。
 実際、《ゼロ・シンドローム》の蔓延以来、子供を望む機械人形の数は増加する一方なのだ。それだけでも実由たち生殖センターの人間はおおわらわなのだが。
 やはり、血筋を絶やさんがための本能は、機械人形にも備わっているのだろう、と実由は思っていた。

 けれど、何かがひっかかった。
「本能……人口調節……」
 実由は口に出してみる。やはり、どこかで聞いたことがある言葉だ。
 何かが、実由の頭の中に引っかかっている。それをとりだそうと、もがく。
「チーフ? どうしたんですか?」
 口の中でぶつぶつ言い続ける実由に、助手は声をかける。しかし、実由は反応ひとつしない。
 と。突然顔を上げ、実由は言い放った。
「今は三時すぎ、個人端末の簡易メンテナンスはそろそろ終わる頃よね。お願い、メンテナンス班に至急連絡して、わたしの端末だけでも立ち上げて良いかどうか、聞いてもらえない?」
「いいですけど」
 助手は何がなんだかわからないといった様子で、実由の指示に従う。

 すぐに、許可が下りた。
 実由はすかさず、腕の端末の電源を入れ、GKP型、PD型の基本プログラムを呼び出す。
 個々の機械人形のプログラムはコピーできなくとも、汎用のものならば自由にコピーできる。自分の端末にも保存しておいてよかったと実由は思う。
「チーフ、何をするつもりですか?」
「《ゼロ・シンドローム》の鍵を見つけたかもしれないのよ!」
「何ですって! 僕も手伝いますよ」
 助手は興奮した面持ちで言う。それはそうだろう。今まであれほど手を焼いていた病の手がかりが見つかるというのだから。当たり前だ。
 けれど、実由の顔色は冴えない。冷たい汗までも流れている。もしも、実由の予想が完全に当たっていたのならば、《ゼロ・シンドローム》は、治療不可能な病であるかもしれなかったから。
「……大丈夫、手伝わなくても良いから。今、プロジェクタでそこのスクリーンに映すから、一緒に、見てて」
 実由の指が、小さなキーボードの上を踊る。ステップを踏む。
「本能の領域、表示。もうちょっと深くまでいってみるわ。それから検索……そうね、確かThanatos……あった」
 そこに現れたのは、コンピュータの素養がない人間には、何がなにやらまるでわからない文字の大群で、しかし、助手は瞬時にその意味を読み取ったようだった。顔色が変わる。
「そんな、チーフ、冗談きついですよ、これが原因だっていうんなら、なら……《ゼロ・シンドローム》なんて、本当は存在しないんじゃないですか!」

 タナトス、それは、大人の年齢に達した機械人形ならば、誰もが持っている、自己消滅のプログラムだ。
 本能の、さらにずっとずっと奥に、普段は厳重にロックされている本能的な行動だ。
 生物の場合、細胞の自殺なんていうのはよく起こることだ。遺伝子に致命的な異常を負ってしまった細胞は、他に影響を与える前に自死する。
 それだけじゃない、変態のときもそうだ。必要のない部分の細胞は、プログラムされたとおりに死ぬ。
 他にも、自分の種族があまりにも増えすぎてしまった場合、生物は、その数減らしを無意識に考える。人間の場合は、もともと攻撃的な生物なのか、それが殺し合いや、戦争といった形で発動することが多かった。
 しかし、それと同じだけ、自殺という選択肢をとる者も多かった。自分の存在を消してしまいたいという衝動は、意外と簡単なことでも訪れる。
 その本能、死へ向かう本能をも、柚木博士は最初の特殊型にプログラムしたのだろう。柚木博士の目的は、何よりも、人間に近い精神構造をもった機械人形を造ることだったのだから。
 精神を持つということは、死をも理解し、受け入れること。生への方向性と、死への衝動とを併せ持つこと。だから、死を理解できない子供は、タナトスを持たない。《ゼロ・シンドローム》を発症することはない。
 あまりにも当たり前のプログラム過ぎて、今まで誰からも見逃されてきた、死のプログラム。
 それは、まさしく今まで《ゼロ・シンドローム》といわれてきた病の症状にそっくりだ。

 《ゼロ・シンドローム》は、ただ、死のプログラムを発動させるだけなのだ。

「《ゼロ・シンドローム》。そのネーミングは正しかったわね。あいつの中身は、まさしく空白だったわけだから」
 正確に言えば空白ではない。
 《ゼロ・シンドローム》はおそらく、タナトスにかかっているはずのいくつかのロックを、あらかじめはずしておくのだろう。ロックをはずすことだって、条件さえ整えば、もとからあったプログラムで行うことができる。
 認識系統に異常をおよぼすのか、それとも精神のほうを不安定にするのか、もしくは単純に、ロックになっているプログラムを破壊してしまうのかもしれない。
 けれど、どれにしろ、《ゼロ・シンドローム》を引き起こすのが、正常な機械人形でも発動するプログラムならば、一体誰が、病と本能とを区別できるのだ? 今まで、病の感染で死んだと思われていた人形たちだって、ひょっとすると、本能による行動だったのかもしれない。
 もしも、どうしても《ゼロ・シンドローム》を治療するというのなら、タナトスのプログラム全体を封じてしまうしかないだろう。
 しかし、それは機械人形の精神にまで変調をきたすだろう。本能は、下手にいじると狂ってしまう領域だ。
「わたしたちには、こんなの、治療できるわけない……治療自体が、その機械人形の個性を殺してしまうことにだってなりかねないんだから」
 ナナや、他の機械人形の治癒は、絶望的だ。予防法だって、見当がつかない。
 実際の感染者が今、どれほどいるのかもわからない。

 ひょっとすると、《ゼロ・シンドローム》の正体とは、ただ一言なのかもしれないのだ。
 耳元に囁かれる「お前など死ねばいい」「死はやすらぎだ」そんな言葉なのかもしれないのだ。

「みんなに、報告しますか?」
 悲壮な顔をして、助手が言った。
「ごめん。半日だけ、考えさせて。昼にはきっと、結論をだすわ」
 幸いにして、今は明け方。みなが起きだすまでには、もう少しだけある。頭を冷やす時間がほしかった。
 《ゼロ・シンドローム》は治療できない、などと、どんな顔をして告げたらよいのだろう。特に、須崎には。

 実由はふと思った。
 この病を作り出した人間がいるのならば、それは、もしかすると、死への衝動を、自分を抹消したいという願いを、知り尽くした人間なのかもしれない、と。



 外は、暗い。どこの外灯もすでに消されてしまって、暗かった。逃避行には好都合だ。
 二人にあたえられた明かりは、ナナの目から放たれる、かすかなサーチライトだけ。まるで猫の目のようだなと遊歩は思う。
 遊歩はナナの手をとり、コミュニティの出口まで、まっすぐに歩いてゆく。その行く手に何が待ち受けているのかなんてわからない。けれど。
 君と一緒なら。真っ黒の風景だって、きっと、綺麗に見えるだろう。



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