第3章



 《ゼロ・シンドローム》。
 それは、現在《コミュニティ》で猛威をふるっている現象であり、またそれを引き起こすウイルスの名前でもある。ウイルスとはいっても、人間に感染するものでもコンピュータに感染するものでもなく、ただ機械人形……それも特殊型機械人形のみにその力を発揮するウイルスである。
 感染ルートは未だはっきりと分かっていない。感染した機械人形とデータのやり取りをしていない者でも、どこかから感染しているという事例があるのだ。
 そして一度感染した場合、その駆除の方法はいまだ確立されておらず、しかも時がたてば、必ず発症するという非常にやっかいなシロモノだった。

 発症した場合、一ヶ月にかけて少しずつ体内のデータが消えてゆき、最後には全くの0となってしまう。そして、そこからもう一度復旧する事はできない。残ったボディに、新しいデータを埋め込むことすらも封じてしまう。
 つまり、感染すれば必ず死に至り、そして生き返らせることもできないという病気なのだ。

 このようなウイルスが流行しては、《コミュニティ》の存続にも関わる。
 現在中央管理局長の座についている須崎純也は、《ゼロ・シンドローム》対策班を創設したが、未だにこれといった成果をあげることができずにいる。
 しかし、研究を続けていくうちに、一つだけ、《ゼロ・シンドローム》に打ち勝つ足がかりとなるかもしれない事実が判明した。
 それは、子供――教育がまだ完成していない、三歳半以前の機械人形――に関しては、例えウイルスに感染していても発症しないという事だった。



(……ハルナ)
 遊歩は一番最後に、空色の薔薇を棺の中に入れた。
 あの時、彼女が「生きている」と言っていた花と同じ、スカイブルーコーラスだ。胸の上を一輪の青い薔薇で飾った彼女は、やはり今にも動き出しそうに美しかった。
 ハルナは、ナナが三歳になる直前に、《ゼロ・シンドローム》を発症し、そして、一ヶ月かけて死んでいった。
 だんだんと言葉が発せなくなり、身体機能が衰え、簡単な計算も実行できなくなり、最終的には何もなくなった。一番不安だった時期の遊歩をはげましてくれた言葉も、もう聞くことができない。
 もはや、ハルナは生きていないのだ。



 「生きている」
 ハルナの言葉は、遊歩にとって長いこと、くじけそうになった時の呪文だった。
 自分で自分の手を握り「生きている」そう呟く。
 そうやって、父親の死後のごたごたも、技術者となるための試験も乗り切ってきたのだ。



 遊歩が感傷に浸っている背後で、律は皮肉まじりの微笑を浮かべている。

「おい、遊歩、いつまでやってんだ?」
「お前は、花を供えないのか」
 不機嫌な調子で遊歩はたずねる。もちろん、答えはわかっていたが。
「無意味だね。死者に向かって何かをする事自体無意味なのに、機械人形相手じゃ、どうしようもない。」
 間のとり方すらも、遊歩が予想したとおりのものだった。
 やはりこの同僚とは、気が合いそうにない。
「それより、そろそろGKP-8.56の検査結果がでているころだろう。急いだ方がいいんじゃないかな?」
「あ、ああ」
 確かに、律の言ったことは本当だったので、遊歩はハルナへの感傷を振り切るようにして、その場を去った。

(さよなら……ハルナ。どうか、安らかに)
 そんなことを考えていると律が知ったらまた、「機械人形に安らかも何もあるものか」などと言われそうではあったが、遊歩は祈らずにいられなかった。
(どうか、安らかに。ナナのことは、僕達が守ってゆきますから)

 僕は、まだ生きている。



 検査結果を受け取る約束の場所には、すでに加納実由が来て座っていた。
 短く刈り込んだ黒髪に、小さな赤いピアスが映えていた。しかし、その整った顔が浮かべる表情はどことなく曇っている。

「結果は」
「もう出たわ。……最悪のケースよ」
 実由は持っていた封筒を投げてよこした。中には、プリントアウトした検査結果が乱雑に入っている。
 おそらく彼女は一度、すべてに目を通したのだろう。遊歩と律も、中身を読んでみる。実由の表情を見たときから、予想はしていたが、その紙に記された結果には、さすがの律も顔をしかめた。

 GKP-8.56――ナナは、今回《ゼロ・シンドローム》で死んだハルナの娘だ。しかも現在《教育》の途中という事もあり、ハルナのデータを何度もナナに転送していた。これでは、彼女もあの病気に感染していないほうがおかしい。
 もちろんハルナの感染が発覚した時点で、ナナの教育は中断され、そして、検査に回された。
 一次検査でも二次検査でも陽性との反応があり、今日、最終検査の報告があったのだ。

「GKP-8.56は、確かに《ゼロ・シンドローム》に感染している」
「ああ……」

 遊歩は絶望に打ちひしがれた声を出した。幸い、ナナはまだ三歳の子供である。このまま《教育》を中断してしまえば、ナナが《ゼロ・シンドローム》を発症するという事はなくなる。しかし、それは、この先ナナが成長してゆく可能性のすべてを奪うという事なのだ。
 機械人形の年齢というのは、三歳半までは普通《教育》の達成度で表され、それ以降は人間と同じように年月で加算されてゆく。したがって、三歳で《教育》が中断されたナナの場合、どれだけ年月がすぎても、三歳よりも年齢を重ねてゆく事が無い。
 ナナは、いつまでたっても子供でいなくてはならない。成長する事を決めた瞬間に、死ぬ事になる。
 普通機械人形は人間よりもずっと長く……ウイルスに感染したり大きな事故にあったりしない限り、自ら死の時期を選び取るまで生き長らえる。
 それほどに長い時間を、ナナは子供のままで過ごさなければいけない。《ゼロ・シンドローム》に感染した子供は、そういう枷を負う事になる。

(ナナ……僕は、君に一体何をしてあげればいいんだろう)

 遊歩は唇を噛みしめる。血が流れてしまいそうなくらいに強く。そんな彼の表情を見て、律がさとすように言った。

「遊歩、お前はまた何か余計な事考えているんだろう。それよりも、俺達にはやらなければならない事がある……わかるだろ。どうしてもGKP-8.56を救いたいというのなら、《ゼロ・シンドローム》の解除方法を見つけてやらなければならない」
「進藤君の言うとおりよ。的場君、わたしたちには、絶望に浸っている暇なんて無いんだわ。さっそく、対策本部に連絡をとって、過去に子供が感染した時のデータを送ってもらうから……その解析に入ってちょうだい」
 律や実由の言っている事は悔しくなるまでに正論だった。確かに、思い悩んでいる暇など無い。
 遊歩は、ハルナとの約束を思い出す。

「ナナの事をよろしくね…私が、死んだあとも」
 まだ比較的きちんと話ができる頃に、ハルナはそう言って、遊歩の右手を握ったのだ。
 死ぬなどという言葉を安易に使ってほしくはなかった。
 まだ遊歩は、ハルナがじき死ぬ運命にあることを認めないようにしてきていたのだ。けれど、そのことは否定のできない事実だった。
「約束、します。僕はきちんと、ナナを守ります」
 すっかり衰弱しているハルナ、遊歩は、そう宣言するくらいしかできなかった。
「絶対です、約束します。ナナは、僕たちが全力をつくして、育てます」
 遊歩は無理やりハルナの小指に自分の小指を絡めると、小さな声で「やくそくげんまん」の歌を歌った。ナナの教育を担当するようになってから何度もしたものだから、すっかり覚えてしまっている。
 しかし、今度はハルナのほうがきょとんとしていた。
 おそらく《ゼロ・シンドローム》の影響で、ハルナの中のそのデータは壊れてしまったのだろう。遊歩は悲しくなりながらも、明るい声で言ってみせた。
「昔の人は、約束をする時に、こんな風に歌ったんですよ」

 そう、遊歩は、ハルナと約束したのだ。必ずナナを無事に育て上げるのだと。打ちひしがれている暇など無かった。
「わかりました。とりあえずは、至急ナナのデータをとりましょう」
「ええ、データのとり方はわかるわね。いつもの項目に、各種生命維持機能のデータを追加しておいて。わたしは中央管理局の対策本部に寄っていくわ」
「はい」
 なんとしても、ナナを救わなくてはならない。それが、ハルナから課せられた遊歩の使命なのだから。



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