第15章



 いつまでだって、ここにいていいんですよ。

 藍は言ったけれど、遊歩は旅立った。
 ナナの病の進行は、思った以上に早かった。たいていの機械人形は、一ヶ月ほどで死に至る。
 しかし、ナナはまだ発症から二週間ほどしかたっていないのに、もはや自力で動くことができなくなっていた。
 遊歩は不安になって、ナナの記憶領域を覗いたことがある。ナナに残された正常な記憶領域は、発症後二週間のたいていの機械人形と同じだった。しかし、ナナは、残り少ない記憶領域のほとんどを、「思い出」の保存に使っていた。自分の体を正常に動かす部分までを使って、遊歩と見たものを覚えていた。
 普通なら、思い出などという精神的なものは、真っ先に削除されるはずなのに。

 遊歩は、ナナを背負って歩いていた。
 せめて、ナナの意識が残っているうちに、ハルナのそばへいかせてあげようと。遊歩が向かっている先は、コミュニティのはずれにある、墓地だった。
 遊歩が働いていた《境界》よりも中へ入ったことはない。
 もともと、《コミュニティ》は機械人形への人間の干渉をなくすために作られた街だ。人間は、《境界》よりも内部へ入れない、ということになっていた。しかし、遊歩がその禁忌を犯して、《コミュニティ》へと立ち入ったとき、機械人形側はなんの反応も起こさなかったのだ。

 《コミュニティ》の中は閑散としていて、遊歩は驚いた。もっとずっと活気にあふれる街なのだと思っていた。少なくとも《境界》からみていた《コミュニティ》は、外界よりもずっとすこやかな社会を形作っていたようだった。
 それが今では、道に一人も見当たらない。
 遊歩は不審に思った。いくらなんでも、これは異常だ。なにか、新しい流行病でも起こったのか、それとも、《ゼロ・シンドローム》がさらに勢力を広めたのか。



 そうこうしているうちに、遊歩は墓地のある丘の近くまでやってきた。ふと、頬に水を感じた。

(……雨?)

 ありえないことだった。気象システムのサイクルに従うならば、今日は晴天のはず。雨が降るのは、あと九日も先のはずだった。
 考えられることはひとつしかない。ありえないことだが、気象システムがなんらかのエラーを起こした。
 雨は、強くもならず弱くもならず、呆然としている遊歩に向かって降り続けた。ただただ降り続けた。
 やがて、遊歩は気を取り直し、歩き始める。一歩一歩、着実に、あの丘へ向かって歩き続ける。

 そうして、墓地の入り口までたどり着く。
 門の前に、人影が見えた。洋風なレンガ造りの門に、誰かが寄りかかっている。近づくにつれて、雨にかすんでいたその姿が鮮明になる。あれは。

「律……?」
「よお、遊歩。元気にしてたか?」
 久しぶりに見る顔だった。
 しかし、その姿は、遊歩が知っていたものとだいぶ違っている。顔はやせこけ、青白くなっている。もともと細身ではあったのだが、今は尋常でなく痩せている。目、とくに左目にもまったく生気がない。右腕はだらしなく垂れ下がり、足元はおぼつかない様子で地面を蹴っている。
「ここで待っていれば、きっと会えるだろうって思ってたんだ。お前なら、いつかはあいつの墓参りにでも来ると思ったから」
「律……お前、どうしたんだ? 体が……どこか、悪いのか?」
「自業自得って奴だよ。俺にも、こんな結果になるだなんてことは、頭になかった」
 律は苦笑した。皮肉げな笑みにもいつもの覇気がない。遊歩はナナを、もう一方の門柱に寄りかからせて、律のそばへと寄った。
 律の声は、もはや朗々と響き渡りはしない。
「遊歩、その分だとお前は知らないな? 《コミュニティ》は終わりになった。いや、おそらくはこのままだと、機械文明すべてが、終わりを告げる」
「何だって?」
「《ゼロ・シンドローム》は進化したんだ。俺にだって予想もつかなかった方向に、進化したんだ。あいつは、もう、特殊型にだけ感染する病じゃない。死へ向かう本能を、すべての機械に植えつける、ウイルスになったんだ。何もかもをゼロにしてしまわない限り、その動きは止まらない。《コミュニティ》の機械人形たちが、すべて感染してしまうのに、たいした時間はかからなかった」
 律は、門柱に寄りかかったまま、器用に体の向きを変えて、しゃがみこんだ。
「まさか、外界にもそのウイルスが流出したりは……」
「その、まさかだよ。一体何が突然変異をもたらしたのか、俺にだってわからない。けど、この雨を見てみろ。絶対に壊れないと言われていた気象システムが、壊れた。このこと一つだって、証拠には充分過ぎると思わないか?」

 律は左手で、雨粒を受け止める。雨粒は先ほどよりもだいぶ大きくなってきていて、このままだと本降りになるだろうといったこところだった。もしも、そんな当たり前の予測が成り立つ程度の故障しかしていないならば。
 そう、今すぐにこの雨がやんで、太陽が照り付けてくる可能性だってあるのだ。
 壊れたシステムの元では、どんな法則だって成り立たない。
「俺が、嫌ってた、《コミュニティ》は滅びた。けど、代償は大きすぎた。まさか、こんなことになるなんてな。俺たちは、きっと、なんにせよ、機械がなくちゃ生き延びられないだろう。簡単な作物の育て方だって、俺たちは知らない」
「そんな……なんで、こんなことに」
「感染ルートはまるでわからない。一体、あの新型ウイルスがどこから発生したのか、どこから、外界に流れ出たのか。それを解析し終わる前に、《境界》の、全部のコンピュータが侵された」
 藍を思い出した。全身を機械に接続した女、彼女は一体どうなるだろうか。機械がなくなったら、彼女のような人間こそ、生きてゆくことができないのではないか。
 そうだ、彼女は体の不調を訴えていたではないか。このところ、機械の調子が悪いのだと。外の世界でも、機器が異常を起こしているという話を聞くことが多かったではないか。
 あれも、新型の《ゼロ・シンドローム》の影響だというのか。

「お前は……なんだって、《ゼロ・シンドローム》なんて作ったんだ?」
 律が顔を上げる。長く伸びた前髪から、生気のない顔が覗く。遊歩のほうをうかがうような目が、頭のてっぺんから足の先まで舐めてゆく。
 もはや、遊歩には責める気持ちなどなかった。あまりの展開に呆然としてしまっていた。
 それに、今の律は、少し叩いたら折れてしまいそうな、そんな弱々しげな風体をしている。これ以上追い討ちをかけられるはずがなかった。
「はじめは、ただの研究だったんだ。俺、ここに来る前、民間企業にいただろう、その時に見つけた暇つぶし。機械人形の中に面白そうなプログラムを見つけたから、それをちょっといじってみただけだった。他にもいろいろ、くだらないのだって造ったよ。突然、古典芸能の阿波踊りを踊りだすやつとかさ」
 遊歩は、その古典芸能を知らなかったので、それがくだらないウイルスなのかどうかよくわからなかった。
「そしたら、政府からお呼びがかかるんだもんな。お前はなかなかに優秀だから、《コミュニティ》に対するスパイになってくれないかって。俺は言ったんだ。俺なら、スパイなんてもんじゃない。そんなに《コミュニティ》が邪魔なら、俺が、自分の手で壊滅させてみせますよ、それも絶対に政府には疑いがかからない方法で、って。簡単に乗ってきた。それで、俺はここに採用されることになった。で、まあ、一年くらいはおとなしく様子を見て、それから、俺のところへ来る機械たちに、ウイルスを植え付け始めた。思ってたより、だいぶ劇的な効果があって、俺だって驚いたよ。まさか、治療不可能な難病になるだなんて思ってなかった。まあ、そんな感じだよ。俺にとっては、全部、ただのゲームだった」
「……それだけか?」
 遊歩は問う。
「それだけだよ」
 しかし、そう言ったときの律の顔は、今にも泣き出しそうにゆがんでいた。
 鈍いといわれていた遊歩でも、今の律の言葉は嘘なのだとわかった。律は、なにか過酷な状況を生き延びてきた、非常に人間的な目をしていた。それまでかぶっていた仮面の冷たさを、覆ってあまりある表情だった。

「なあ、僕は、お前のことを誤解してたと思う。お前は、そんな単純な理由で、ことを起こす人間じゃないって、だんだん、わかってきた。ゲームなんて、そんなの、嘘だろう?」
 何がきっかけというわけじゃない、けれど、律の行動をひとつずつ、思い返してみれば。それは、酷薄な男のものなんかではなく、ある意味で真摯な態度であったのだとわかる。
 彼はずっと、遊歩やほかの研究者たちを裏切り続けてきた、でも、その言葉のすべてが嘘であったなどとは思えない。いつか、遊歩にくれた励ましの言葉の中にだって、ひとかけらほどの真実は、確かに存在していたはずだ。
 今の遊歩は、そう思う。
「どういう、意味だ?」
 遊歩はしゃがみこみ、律と目の高さをあわせた。
 手を、その肩にかける。
 律の体は、すっかり冷たくなっていた。白衣の上からでも、それがわかった。
「お前は、理由もなくそんなことができる人間なわけじゃない。僕は、ずっとお前の演技にだまされてきたけれど、もう、だまされやしないから。だから、もう、演じなくていい。楽に、なっていい。な」
「何が演技だって? 俺が今までやってきたことが、全部演技だとでもいうつもりか? お前の大事な機械人形を死なせたことも、お前をめちゃめちゃにしてやったことも、全部? そんな都合のいい話があるかよ」
 ナナ。それを思い出すときだけ、遊歩に痛みが走る。
 けれど、今はそんな痛みに取り込まれているときではなかった。
「お前は、絶対、悪いだけの奴なんかじゃない。お前は、ただ悪人を演じようとしてるだけだ」
「なんでそう言いきれるんだ? 今の俺が演技だって可能性だってあるだろうよ。俺は今この瞬間にでも立ち上がって、お前の首を絞めるかもしれない。最後までぼろぼろにして、そのつもりでここに来たのかもしれない」
 遊歩はさとった。自分はただ、信じたいだけなのだろう。
 遊歩はいつだって置いていかれた。大事だと思った人はいつだって、遠くに行ってしまった。
 ハルナも、メアリも、それに父も自分を置いていった。ナナだってもうじき、死のうとしている。
 だから、せめて、今ここにいる律を信じてみたいだけなのだろう。そう思った。結局それだって自分勝手な理由で、けれど。
「どっちがほんとかなんてわからないよ。なら、僕は自分にとって良いほうを選ぶ」
 今は、こう言うことしかできなかった。

 律の体から、なにか、力が抜けたかのようになる。雨に濡れた髪の毛から、一粒のしずくが流れ落ちて。
「なんで……なん、で、お前はそうなんだ? 」
「え?」
 突然律の語調が変わって、遊歩は驚く。
 まるで、遊歩を通して別の誰かを見ているような、そんな視線が上滑りする。あたりをさまよう。
「なんで、そうやって、お人よしで……プログラムされたとおりに動く機械でしかないはずの奴らにまで、本気になって。なんで、お前、そんななんだよ。お前は、お前、なんでそんな顔で、そんな事言うんだよ……」
「かお?」
 律は動くほうの左手で、顔に触れてくる。目、鼻、口、ひとつずつ、確かめるかのように。なぜて。それは思いのほかやわらかいふれ方だった。
「お前はなんで、あいつに似てるんだ……顔も、声も、髪も全部……」
「僕が誰かに似てる? 誰?」
 律は、遠くに視線をさまよわせて。
「俺を、一度殺した女だよ」
 遊歩を見据えたまま、言った。

「俺は、一度死んでる。十年くらい前だったかな。機械人形の暴走にあった。暴走した機械人形は、俺たちを殺して回った。覚えてる。おれは逃げ惑った。外へ出て、助けを求めようとした。でも、どこの家の中も、真っ赤だった。真っ赤な中に、人が折り重なって倒れてた。なにか叫びながら走ったような記憶はあるんだけど、その内容まではおぼえてない。俺は、とにかく逃げた。でも、あいつは追ってきた。人間を、一人残らず皆殺しにしようとしてるんだって、俺にはわかった。機械人形っていうのはそういうもんなんだって、そのとき知った」

 あくまでも淡々と、律は話し続ける。
「俺は逃げた。でも、そのうちにつかまった。あいつは、俺の前で笑ってみせた。俺の腹に、脚に、手に、銃弾を撃ち込むとき、笑ってたんだ、楽しそうに。あとで、あいつは機械人形の理想郷のために戦ったって聞いたけど、俺はそんなの信じない。あいつは、殺すのを楽しんでただけなんだ。俺は今でも忘れられない、あの笑顔、お前に似てるんだ」
 なんて、哀しそうな目をするんだろう。お前に似てると言い切ったときの律は、それまでの凄惨な話の時よりずっと悲しげで、遊歩はどうしたらいいのかわからなくなる。
 きっと、もう二度と、律に向かって笑うことはないだろう。遊歩にはそれができないだろう。
 だから、遊歩はたずねる。律の話を聞く。何事もなかったかのような声音を作って。
「だから、機械人形をあんなに嫌ってたのか?」
 しかし、律はほとんど遊歩のことなど目に入っていない様子で、話し続けた。まるで、話すことだけが律に残された手段であるかのように。
 おそらく、律にとってそれは、誰にも話したことがない、自分だけの秘密だったのだろう。自分ひとりで背負ったまま旅立つには、あまりにも重い物語だったのだろう。
「俺が目を覚ましたときには、もう、三年くらいの時間が流れていた。家族の消息もわからなかった。きっと、あのときに死んだんだろう。俺は、危ういところで命をとりとめたらしい。なかなか手に入らないって言われてた人工心臓や、人工肺に、ちょうどスペアがあった。切断するしかなかった左足も、手に入った。けれど、右腕だけは、手に入れられなかった」
「工場から取り寄せるとか、できなかったのか?」
「襲われた地域に、義手の重要な部品を作る工場があった。製品はすべて、めためたに壊されていたそうだ。復旧のめどはたたなかった。人間の組織に機械をつなぐには、できるだけ早いほうがいい。そうでないと、最後まで麻痺が残ってしまう。だから、医師たちは、最後の手段をとった。俺の右腕の代わりに、機械人形の右腕を、つないだんだ。ドナーはもちろん、俺たちを殺した女」
「なっ……」
 そんな馬鹿な、遊歩は言おうとした。
 けれど、言えなかった。律の目がそれを封じていた。
「そう馬鹿なことでもないんだよ。人間用の義手や義足と、機械人形のものは構造的に酷似している。確かに、医師たちの判断は正しかった。俺は、目覚めてからほんの少しリハビリするだけで、この腕を使いこなせるようになった。切断後すぐにつないだらしいからな」
 遊歩は話の間も、律の右腕から目が離せない。もはや動けない、だらんと垂れ下がった腕。男にしては、確かに細すぎる腕。どれだけ別のことを考えようとしても、できない。
 だって、そんなのむちゃくちゃだ。いくら医学的に最良の選択であっても、むちゃくちゃだと遊歩は思う。
 自分を一度殺した、自分に向かって発砲した右腕を、ずっと身近につけておくだなんて。

 その視線を感じたのか、
「見るか……?」
 律は白衣に手をかける。濡れた白衣は律の腕を、隠したいかのように張り付いていたが、左腕の動きにしたがって、はがれおちる。
 ノースリーブのハイネックからむき出しになった腕は、確かに白く、細く、女のものと言われても納得がいった。
 しかし、異様なのは、その腕のそこここに、茶色っぽいしみのようなものが飛んでいることだった。
「どれだけこすっても取れやしない……誰のものだかわからないけれど、この腕には、血のにおいが染みこんでる。幾人もの人間を殺した腕、だ」

 けれど、遊歩の目は、まったく別のものにひきつけられていた。
 白い二の腕に、刻印された文字列。遊歩はそれに吸い寄せられる。

 PD-35jb YUUNA。

 何度も耳にした名前が、遊歩の目の前にあった。父親の口癖にもなっていたその名が!
 頭ががんがんいっていた。これ以上近づきたくない、そこに書かれている意味を認識したくない。けれど遊歩はやはり、それを見つめ続けることしかできなかったのだ。
 こんな事があるものか。なんど瞬きしてみても、そこに書いてある文字は変わらない。
「遊歩、どうしたんだ? 」
 押し黙ってしまった遊歩に、さすがの律も心配そうに声をかける。しかし、遊歩は鬼気迫る表情のまま、凍りついている。顔からすっかり血の気がひいている。

「そんな……馬鹿な」
 律は、遊歩があの女に似ていると言った。当たり前だ。遊歩は、彼女に似せて生まれた。

 父親が恋焦がれてやまなかった機械人形、その名は「Yuuna」。

 運命は、最後の最後まで遊歩を欺く。
 父親の心を奪った《母》は殺人鬼となり、その生き残りである律が、さらにハルナやナナを遊歩から奪う。なのに遊歩は、律のことを憎みきることができなくて、その彼の右腕には母親が宿っている。

 なんなんだこれは。なんなんだ!
 遊歩は膝をつく。いろんな事がいちどきに駆け巡っては消えてゆく。

「ごめん……、ごめん、律」
 何故あやまるのか、自分にもわからない。けれど、遊歩の口からは、もはや意味のある言葉など出てきはしない。
「何だよ、突然……」
 律の不審そうなまなざしを、何故か遊歩は責められているかのように感じてしまう。
 思い出す、ハルナに出会う前の、しごく幼いころのことを。誰にからも、お前は機械だと責められて、人間だなんて認めてもらえなくて、なのにその原因をつくった父は自分の研究に没頭してばかり。遊歩が機械だなんていうのは本当にただの言いがかりでしかないのに、遊歩自身には心当たりが多すぎて、失った恋人を偲ぶためだけに作られた自分に、一体どれだけの価値があるんだろう。迷ってばかりだったあの頃、ひさしぶりに思い出した。

「僕は、機械だ。きっとただの、殺人機械だ。お前の大嫌いな機械なんだ」
 遊歩はすっかり、昔の自分の感情に飲まれてしまう。見ないようにしてきた傷に飲まれて、逆流する血液にもまれる。
 遊歩に見えている血液は、鮮烈な赤なんかじゃなくて、どす黒く、ガソリン臭さえもする。自分の体の中には、結局綺麗な血なんて流れていやしなかった!

「僕の父親は、その女の恋人だった。だから、僕を作った。僕はそいつの血をひいてる。僕は機械だ。最悪の機械人形だ。いや、機械以下なんだ」

 とうさん、こんなことのためにぼくをつくったの? こんなくだらない運命に出会わせるために?
 記憶の中の父親は、もう、白い塊でしかなく、けっして微笑みかけてくることはない。

「……そうだよ、お前は、はじめから僕を狙えばよかったんだ。ナナたちなんかじゃなくて、この僕を殺せばよかったんだ。だって僕は、お前をそんな体にした女の息子だ。彼女がそんなに憎いなら、今からでも遅くない。殺せばいいじゃないか、動くほうの……お前自身の手で!」
「憎ませてくれなかったのは、お前だろう!!」
 怒号が、遊歩の動きを制した。それまで遊歩は聞いたことがなかった、律の、必死になった声だった。
「想像つくか? お前はいつだって、あの女と同じ顔で笑ってた。あいつとおんなじ顔して、なのに俺に笑いかけてくる。俺が腹の中でどんなこと考えてるかなんて知りもしないで、お前は人のよさそうな口調で話しかけてくる!」
 言い切ると、律は一度うめいて、顔をしかめる。左手で胸を押さえ、うずくまる。
「り……つ?」
「俺は、ほんとに、半端者、だ。機械に頼らなくちゃ、生きてけ、ない。だから、今、ガタがきてる。今は足と腕が使い物に、ならないだけ、だけど、多分そのうち、心臓も、止まるだろう」
 自分のことだというのに、まるで他人事のような調子だった。苦しそうにしながらも、笑顔を見せる。
「そんな……」
「自業自得だ、って言ったろ? 大丈夫だ、しばらく休めば、また……」
 脂汗が浮かぶ律の顔。雨粒と見分けなんかつかないはずなのに。真っ白に、白衣にも負けないくらい青ざめて。
 それを見ていると、どうしてだか、遊歩の顔までもがゆがんでくる。
「なん、で、お前がそんな顔する、んだよ。俺は、自分がやりたいように、してきた、だけだ。俺は、一度、死にかけてる。こんなの、なんでもないさ。一週間前くらいからずっと、この調子だ」
 言いながらも、律の顔に赤みがさしてくる。

 いつしか、雨は霧雨に変わっている。細かい細かい雨粒は、ふたりの間をベールのようにおおっている。相手の表情は見えるようで見えない。ぼやけて、何もわからない。
「なあ、知ってるか。機械の腕を使うには、頭の中に直接、操作チップを埋め込まなきゃならない。俺の中にある奴は、あの女から来てる。感じるんだ、あの女が、お前を求めてる。何でだろうな、俺は、その感情にだけは逆らえない。俺は、お前を憎めない」
 遊歩はその言葉を聞いていたのか、いなかったのか。
「俺にだってわからないんだ。お前のことを考えているときの俺は、一体誰なのか」
 ただ、ただ雨が降りかかる。
 なにもかもを消し去るように、雨が降る。



「それじゃあ、お別れだな」
 律が立ち上がり、左手を差し出してくる。遊歩はすぐにその意味を解し、自分も左手を差し出した。互いに、それを握り合う。
 左手の握手は別れの握手だと、誰かが言っていたような気がする。
 心臓の音が一番近く聞こえるから、だから別れのときには左手なのだろうと、遊歩は思う。
 いつまでも、そのリズムを記憶しておくために。
「元気で」
 その言葉は気休めにしかならないと、わかってはいたけれど。

 ふと、思い出した。まだ、律に言わなくてはならないことが、ひとつある。
 すでに、律は、遊歩から離れて歩き出していた。門のところに立てかかっていた棒を杖のように使って、危なげな足取りながらも、まっすぐに歩いてゆく。
 遊歩は、その背中に向かって声を張り上げる。
「律! もしも……もしも、これから行くところがないんなら」
 律の足は止まらない。人影はゆっくりと遠くなってゆく。それは、雨の中、スクリーン上の映像のように。
「もし、行けるなら、《コミュニティ》を出てすぐのところに『最後の家』という場所がある。死を待つ人を集めている家だ。そこへ、行ってみてくれないか」
 あそこには、藍がいる。藍ならばきっと、律のことも受け入れてくれるに違いない。
 それに、もしかしたら藍は。

 聞こえただろうか、と遊歩が見ると、律は背中を向けたまま、ゆっくりと左手を上げてみせた。



BACK NEXT NOVELS INDEX



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送