第16章



 ずいぶんと、時間がたってしまった。
 遊歩は、ナナに触れて、その体温を確かめる。雨のおかげで多少冷えてはいるものの、まだ、ナナは生きていた。遊歩はナナを背負う、歩き出そうとする。

 遊歩にはわからなかった。これから何をすべきなのか、わからなかった。ナナを背負ったのも惰性だった。
 律から告げられた真実はあまりにも過酷で、まだきちんと整理できていない。少し気を抜くと、打ちのめされてしまいそうになる。もう二度と、歩く事などできなくなりそうになる。
 このまま、ここで、ナナと一緒に眠ってしまいたくなる。
 この身を振り捨てて、何もかもを忘れてしまいたくなる。

 その瞬間だった。
 ナナの体が、ピリピリと、かすかに火花をあげていた。水に濡れたその体から、電流がもれだして、火花になっていた。
 遊歩はそれを見ていなかった。もし見ていたなら、その現象を、ナナが発光しているのだと思っただろう。最後のいのちを燃やしているのだと。
 一度だけ遊歩も見たことがある、線香花火のようにはかなく。

 ピリピリと、ナナの体からもれ出た電流が、遊歩の背中から入って、脳髄へ伝わった。
 普通の感覚と同じように処理されて、遊歩の中に、まるで自分が体験したことのように、ナナの記憶がよみがえる。
 遊歩は思わず振り向いた。ナナはあい変わらずの安らかな寝顔で、遊歩に頭をあずけていた。その間にも、ナナの記憶は遊歩の中を駆け巡り続ける。
 ナナが生まれてから四年ほど、どれほどの思い出が、彼女の体の中につまっていたことだろう。
 ハルナが死んだ日も、ナナは遊歩を見ていた。遊歩のどんな笑顔も、悲しみも、全部記憶していた。
 遊歩は自分自身の姿を見る。それは、ナナの視覚を通した自分の姿、ありえないと一笑に付してしまいそうなほどに、ナナの見ている遊歩は光っていた。光っているといっても、それは、ぼんやりと灯った炎のような明かりで、一体どこから照らされているものなのか、遊歩にはわかったような気がした。
 もしもきみが、そんな風に僕を見ていてくれるのなら。
 ナナからの最後のメッセージを、遊歩は確かに感じ取ったと思う。



 ――だいすきだよ。



 それを、伝えたのは、ナナの力だったのか、それとも、奇跡と呼ばれる類のものだったのか。
 遊歩は知らなかった。でも、そんなことはどうでもよかった。
 ただ、心の中で話しかけた。

 大丈夫、ナナ。たとえ僕が何者であっても、せめて君をハルナのところへ連れてゆくまでは、僕は立ち止まらない。だから、心配しないで。
 再びナナを背負うと、歩き始めた。



 まだ、雨は降り続けていた。霧雨と呼んだほうがいいような、細かい雨粒だった。
 ハルナの葬式があった日も、やはりこんな雨の日だった。

 あの時、律と交わした言葉を、遊歩は鮮明に覚えている。無邪気なのに哀しげなナナの瞳も、それに対する律の皮肉も、鮮明に覚えている。あの時から、一体何が変わったっていうんだろう。この重苦しい空気は何も変わっていないのに、いつの間に、変わってしまったんだろう。

 ナナは死んでしまう。律はもういない。メアリは消えた。実由にも会うことはないだろう。

 いつの間にか、何もかもが遊歩のそばを通り過ぎていって、そして今、終わろうとしている。
 プログラムされていないはずの、十一日目の霧雨が、遊歩の服を重く、しめらせてゆく。体力を奪ってゆく。
 ナナの体は、さすがに十二歳型だけあって、ずっと背負っているには重い。丘は思っていたよりはだいぶ急で、重い荷物を背負って登るにはきつかった。息もすっかり切れている。疲労が着実にたまってゆく。
 けれど、この重みすら、ナナが存在しているという証なのだ。遊歩はそれを心地よく感じている。
 ゆっくりながら、着実に歩みを進めてゆく。
「ナナ……ナナ、まだ、大丈夫だよね、まだ、生きてるよね」
 ナナの体は、まだ熱い。大丈夫だ、この体温がある限り、遊歩はまだ歩いてゆける。
「そろそろだよ、ナナ。そろそろ、ハルナの……」

 目に飛び込んできたのは、スカイブルーコーラス、ハルナが好きだといっていた青い薔薇が、そこら中に咲き乱れていた。
 それは、本来ならば今日、目の前に広がっていたはずの青空そのものの色だった。

 薔薇の中を、慎重にぬける、と。
 そこに、ハルナの眠る場所があった。
 《コミュニティ》の中で一番見晴らしがよい場所に、彼女は埋葬されていた。
 墓石をなでる。ハルナの鼓動を感じることはできない。けれど、それはなんとも手触りのいい、あたたかな石だった。
 遊歩は、そのすぐ隣にナナの体を寝かせた。顔に降りかかる雨粒を、自分の服でぬぐってやる。

 風が、凪いだ。
 雲が割れて、光が差した。
 雨は未だに降り続けたまま、太陽だけが顔を覗かせた。雨粒が、七色に輝きながら空を舞っていた。大きな大きな虹に、包まれているかのようだった。青空ならば、足元にある。
「……ああ」
 言葉も出てこなかった。ため息しか出てこなかった。
 一体、今どれだけの人が、空を見上げて立ち尽くしていることだろう。それは、世界の終焉にも、新しい始まりにもふさわしい光景だった。



 彼はそのまま、その光景を見つめていた。
 虹の真下で、青空の上で、確かにゼロへと集約されてゆく世界を、いつまでも見つめていた。




The World is Over.   
But this Beautiful World lasts……   




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