*雑音*



 この世界には、雑音ばかりがあふれている。





*     *     *






 そのことに気付いたのは、いつだっただろう。
 少なくとも、去年はこんなこと、思いもしなかった。

「今日どっかよってくか?どこがいい?」
「頼むよ、数学今日あたる日なんだよ。微積分苦手なんだよ」
「なあなあ、何であいつは今日休んでんだ」

 二年A組男子十五番、西川修吾。
 彼の声が、なぜか耳につくのだ。




「ね、修吾って、なんか声大きくない?」
 私がもらすと、ミキはもとからまんまるい目をもっとまあるくした。
 なんだってまた、突然。彼女の目がそう言っている。

「普通だと、思うけどな」

 ためらいがちに、ミキ。間延びした言葉の中に、間接的な疑問。
 私はちらりと当の西川修吾の席を見やる。彼はまだ登校していない模様。机の上には鞄の影もない。

「ひょっとしたら、大きくはないのかもしれない。でも、修吾の声って目立つんだよ。耳につくっていうかさ。普通に会話してるのに、急にあいつの声だけ聞こえるの」
「うー…ん」

 朝の教室内は、女の子達のおしゃべりが花盛り。部の朝練がない少年達は、肩身せまそうに机に向かっている。
 一日のうちで一番華やぐ瞬間。窓の向こうの桜並木も、さやさやと葉を鳴らしておしゃべりに興じている。

「修吾くん、かあ。気にとめたことなかったから、わかんないや」

 言いながら、ふわふわの髪の毛を指に巻きつける。考え事をするときの、ミキのくせだ。
 ミキの言うことも、わからなくはない。西川修吾は、これといって特徴のない男だ。無個性というわけではないけれども、とにかくすべての能力が平均的なのだ。だから、とりたてて注目をあびることもないし、非難されることもない。

 たとえば、学業成績はあくまでも平凡。数学はやや苦手で、わりと得意なのは歴史。
 運動能力。チームメイトに迷惑をかけることはないといった程度。
 性格。温厚で、慎重にものごとを運ぶ。やや心配性。
 部活動。一応陸上部に所属していが、これといった成果はあげていない。
 趣味。本人は読書と言っているが、漫画のほうが好きらしい。
 容姿。平等に見て、悪くはない。とくに、目の形はいいんじゃないかと思う。けれど、決して万人の目を引くほど整った顔ではないので、やっぱり目立たない。身長も体重も、まったく高校二年生男子の平均値。

「確かに、気にもとめないだろうね」

 西川修吾の特徴を、頭の中にえがいてみて、しみじみと思った。彼とは一年間クラスメイトとしてやってきたはずなのに、あまりにもデータが少ない。

「でも、ほんとに声は目立つんだって。たいしたこと言ってるわけでもないのに気になる」
「瞳子ちゃん、それって……」
「恋の始まりよ!!」

 言いかけたセリフのあとを引き取る絶妙のタイミング。同時に、ぬうっと、私の左肩から首が突き出てくる。
 ひゃあっ、私は声をあげた。

「な、な、なによ、チサト。背後霊かなにかかと思ったわよ」
「瞳子、あんたもとうとう恋しちゃったのね、とうとう男っ気なしに卒業ね、おめでとう」

 チサトは私の抗議などまったく無視して、自分の世界にひた走る。くるり、制服のスカートをひるがえして見事なターン。元バトントワリング部リーダーの実績を、こんなところで浪費していいものなんだろうか。

「恋!それは甘くきらびやかな感情!自らを失うほどの媚薬!!」
「言い過ぎだっての」

 私はびしりとチサトにつっこみをいれる。ほおっておいたら、一体何を言いだすやらわかったものじゃない。このままではきっと、♪愛、それはー……などと歌いだすに違いない。
 軽くチサトをにらみつけると、今度はミキが口をはさんできた。

「やめなよ、瞳子。まあちょっといきすぎだけど、でもチサトの言うことにも一理あるんだからさ」
「一理って、愛がどうたらこうたらいうののどこに理があるっていうの」
「違う違う、そこじゃなくて、『恋の始まり』ってやつのほう」

 ミキまでそんなこと言う……。
 私は非難がましい目つきをしていたに違いない、ミキが少し困ったような顔をした。その視線を真正面から受け止めて、私は、うっ、とつまりながらも反論した。

「そんな簡単に恋が始まってたまりますかって。だって、相手は西川修吾よ?どこを好きになるっていうのよ」
「あのね、瞳子ちゃん、恋って意外と単純なものだよ。ほんとにささいなことから始まって、それでいつしか押さえられなくなっていくの。自分でも気付かないうちにね」
「そうだよ、簡単だよ。ただ、ちょこっと相手のことが気になる、それだけで、恋が始まったも同然、なんだよ」

 いつもはおちゃらけ役のチサトまで、真剣な目をしてせまってくる。二対一では分が悪いな。そう思った瞬間、あの、耳になじんだ声が聞こえた。

「よーっす」

 西川修吾くん、今ごろ悠々と登校らしい。軽そうなカバンを勢いよく机にほおりだす。反射的に時計を見た。一時限開始まであと数分。

「いやあ、参ったよ、今日目覚まし鳴らなくてさ」
「ちげーよ、ちゃんとセットしたって。昨日ちょっと大きい地震あったろ、あれのせいでベルがオフになったんじゃない?」
「あっ、あっ、お前そういうこと言う?」
「おれ、目覚ましが鳴ればちゃんと起きれるし」

 聞こえる。教室のちょうど反対側にどっかりと腰かけて、机に肘をついて話している。
 修吾と会話をしているのは、おそらく級長のシンくん。やけに分厚い本をかたわらに置いて、心底楽しそうな表情。けれども、シンくんの声は、こちらのほうまで聞こえてはこない。彼は長年合唱部に所属していたというだけあって、なかなかよく通る声の持ち主なのだけれど、私の耳に届くのは修吾の声だけで。一体そこでどんな会話が交わされているのかは、推測するしかない。

「ったく、シンイチは手厳しいよな。ああ、もっとやさしいトモダチが欲しかった!」

 修吾は一方的に会話を打ち切り、ふてくされたように自分の席についた。瞬間、おとずれる沈黙。それを打ち破ったのは、ミキの声だった。がくりがくり、身体が揺さぶられる。

「瞳子ちゃん! 瞳子ちゃんってば!」
「え、あ、ああ……」

 目の前に、心配げなミキのひとみがある。

「どうしたの? なんかぼうっとしちゃってたよ?」
「ごめん……なんでもないの」

 一瞬、ミキの声が聞こえなかった。ミキの声だけじゃない、チサトの声も、それに、授業前のクラスのざわめきも。みんな修吾の声にかき消されてしまうように。頭痛がした。

「やあだ、瞳子ったら、いくら愛しの修吾くんが来たからって、そんなに緊張することないのに」
「ちがうってば……」

 否定する私の声に覇気はない。さすがのチサトも不安げに私を見た。

「大丈夫、大丈夫だから」

 私はふたりを心配させないようにと、できるだけ明るい声で言った。
 けれど、ミキもチサトも、そんな事で騙せるほど浅い関係じゃない。私の表情を見て、あきらかに無理をしていると思ったはずだ。敏感な友人は、ありがたいようでいて、時々迷惑な存在になる。

「瞳子、あんた顔真っ青」
「辛いなら保健室とか行ったほうがいいよ」
 私を心配してくれているのはわかっている。けれど、今私が青くなっているのは、多分病気のせいじゃない。

「ううん、大丈夫なの。次の時間数学でしょ、一回でも休んじゃうと辛いからさ」

 瞬間、授業開始のチャイムが鳴る。私にとっては天の救いの。
 ミキもチサトも、私のほうをちらちらと見ながら、自分の席についた。
 私はふたりの視線を気にしないようにして、数学の準備をはじめた。



 「ベクトルαとベクトルβ、ベクトルγとして……」
 数学は嫌いじゃない。たしかに得意ではないけれど、その理路整然としたところには、ときどき感嘆する。
 先生の説明はいつもすじが通っているし、問題が解けないのはたんに私の実力がたりないだけだ。私はノートの罫線にあわせて矢印を書きながら、先生のはなしをもっとよく聞こうと顔をあげた。

 その時。

「なあ、ソウジ、次の演劇部の公演っていつだっけか」

 まったく無遠慮に、西川修吾の声が飛びこんできた。授業中だということをわかっていないんじゃなかろうか。
 数学の授業、いくら修吾が苦手だからって、私語はつつしんでよ。ただでさえよく通る声は、先生によるベクトルの解説を阻害する。イライラと、私はシャープペンをノックしては戻した。話し相手のオグラくんは、声のトーンを落としているようで、授業の邪魔になんてならないのに。

「明日? 明日かよ、参ったな……」
「いやね、明日はちょっと用事があるもんだからさ。わるいけど」
「なんの用事かって、そりゃあ、まあ……ヤボ用だよ」

 野暮用って、一体なんの用事? 気になるじゃない。

「あーっ、わかったよ! 歯医者だよ歯医者! 予約入れてんの」

 どきりとした。まるで私の心を読まれでもしたかのようで。偶然だろうけれど。それにしてもよく響く声だ。西川修吾とはだいぶ席が離れているのに。これじゃあクラス中、いや、むしろ先生にも聞こえてるんじゃないだろうか。でも、先生はまったく気にしていないように、解説を続けている。

「虫歯ってちょっと格好悪いだろ……なあ」

 たしかに、歯医者に行きたくないとか言って泣き出す高校生がいたら、それは格好悪いだろうけど、虫歯自体は別に格好悪いことじゃないだろう。未だに歯磨きが上手くできないだとか思われるから、格好悪いのかな。西川修吾の考え方は、時々おかしなところがあって笑いをさそう。平凡な子なのに、こんなところでばっかり特徴を出して……。
 つん、つんつん、急にわき腹をつつかれる。後ろの席のサキちゃん、こんな時間に一体なんの用?

「瞳子、あんた呼ばれてるよ!」
「え?」
「野々原ぁ! さっきから何度も呼んどるだろうがぁ!」

 突然、先生の声が降ってきて、耳をつんざく。

「問五! 問五の答えをお前に当てたんだ。授業聞いてたのか?」
「え、え、ええ……?」

 慌てて教科書のページをめくる。指が震えていて、思うように動いてくれない。いつの間にこんなに授業が進んでいたんだろう。私は確かにちゃんと聞いていたはずなのに。それにいくらなんでも、自分の名前が呼ばれたのに気付かないだなんて……。
 クラス中の笑い声が私をつつんで、私の頬は紅潮する。
 中でもやっぱり西川修吾の笑い声が一番聞こえてきて。授業中に私語していて、私の気をそらしたのは修吾の方なのに。なんで私が笑われなきゃいけないのよ。一瞬だけ、修吾を睨みつけてやったけれど、まったくこたえていないようだった。ちょっと憎たらしい顔で笑っている。

「野々原、問五は二十五ページ! どうしたんだ、いつものお前らしくないぞ?」
「すみません……えーと、答えは……」

 どうしよう、頭が混乱していて、問題文もよくわからない。恥ずかしさで声が消え入りそうになる。その時、


「ばーか、3だろ3!」と聞こえて
「3です」
 反射的に答えていた。

「……惜しいな。答えはマイナス3だ。ほら、ここがこうなって……解るな?」
「は……い。そうです、ね」

 解説されれば間違いはわかる。けれど、今の声は一体誰のものだ。私に考える暇を与えてくれなかった、おせっかいな声は。
 先生は私の声の調子など気にもとめていないかのように、淡々と、授業を次に進めた。
 なんだか一気に疲れたような気がする。身体の力が抜けて、私は机の上につっぷした。



 気が付くと、数学の時間は終了していて、今は短い休み時間。
 結局あの後、私はノートをとることもできなかったのだけれど、それを気にする余裕すらない。ぐったりと机に寝そべる。木製の机の冷たさが、まだほてり気味の頬に心地よかった。
 今日の事でわかった。西川修吾、彼は私の天敵だ。
 あいつのせいで、今日はどうにも調子がくるいっぱなしだ。今まではそうでもなかったのに。一体西川修吾の何が、私をこんな気分にさせているんだろう。いつもの私じゃないみたいに。まあ、こんなこと考えてると、またチサトあたりに「恋のはじまり!」などと暴言を吐かれてしまうんだろうけど。

「やっぱり瞳子は修吾に惚れてたのね」

 ……そう、ちょうどこんな風に。ってこれは本物のチサトの声!?
 割とありがちなボケを心の中だけでこなしてから、私は反駁のため顔をあげた。体はまだ休みを要求していたのだけれど、この場合しかたがない。このまま黙っていたら、チサトは自分の妄想をどこまでも加速させるだけなのだ。

「照れなくても大丈夫だよ、今、修吾は外でてるから」
「あのね、同じネタはそう何度もウケないのよ?」心底あきれたという声を出してみる。
「ネタじゃなくて真実だもんね。証拠はあがってんのよ、お嬢さん。あんた、さっきの授業中ずっと修吾の方見てたじゃない。おおかた、先生が指してるのもそれで気付かなかったんでしょう?」
「……見てた?」
 私はずっと黒板に注目していたつもりだった。何ていったってベクトルだもの。黒板見てなきゃどうにもならない。
 それに、もし黒板の方を見ていなかったとして、私が修吾を見ていて、どんなメリットがある?
 けれど私の思惑なんておかまいなしに、チサトは乗り出してくる。ご丁寧に、机の上を叩くパフォーマンス付きで。チサトのこういうところは、絶対に演技過剰だと思うのだけれど、とにかく自身ありげにチサトは言った。

「絶対見てたよ」
「あんまりうるさいから気になって仕方なかったんじゃない? それで睨んではいたかも」

 我ながら婉曲の多い言い回しである。

「いいや、あれはそんな視線じゃなかった。それに修吾、別に大きな声でなんて話してなかったし」
「え? だってこの席からでもはっきり……」
「何言ってんの。瞳子の席まで聞こえるはずないじゃん。そんなばかでかい声で話してたら先生だって黙ってないでしょ」

 それは確かにそうだ。だからおかしいなとは思っていた。でも修吾とは比較的席の近いチサトにも聞こえなかったなんて。それじゃあ私が聞いた修吾の声は白昼夢か何かなのかな。まさかね。

「チサト、耳おかしいよお。なんであれが聞こえないの」
「おかしいのは瞳子の耳だって。あーあ、これだから恋する乙女パワーってやつは!言っときますけどね、あたしには修吾の声なんてびた一文も聞こえなかったんだから。まあソウジくんの声はちょっと聞こえたけどね。あの子演劇部だけあって、小さな声も結構通るでしょ」
「演劇部の公演がどうとか言ってなかった?」

 修吾のせりふを思い出す。あいにく私には、オグラくんの声は聞き取れなかったけれど、会話の内容は大体想像がつく。

「うん、そうそれ!」
 でも何であんた、それ知ってるわけ? 彼女の目がそう言っている。

「だって、聞こえたんだもの……修吾の声」

 他に言いようがないではないか。聞こえたものは聞こえたんだから。なんでなのか、私にもわからないけれど。「もちろん愛の力よ!」なんて冗談は、絶対に言わない。そんな意味不明のギャグをかますのは、クラスにチサト一人で充分だ。

「やだなあ、瞳子、なんか変な能力開花させちゃったんじゃないの? ほら、いつでもどこでも、自分が追いかけている敵の声だけは聞こえてさ、それを元に冒険してくみたいな話って時々あるでしょ。そしたら瞳子主人公だよ、なかなか格好いい役じゃん。もし助けが必要な時はいつでも言ってきてね。特殊加工したバトン持って加勢に行ってあげるから」

 ジョークでも、勝手に物語の主人公にしないでほしい。
 今、私はただでさえ、奇妙な物語の住人になったような気がしているのに。
 頬を膨らませた私を見て、チサトが笑った。



 ひざをかかえこんで、ベッドの上。
 宿題もやらず、音楽もかけずに、西川修吾について思いをめぐらしてみる。
 ちょっと固めのスプリングで、体がふわふわとゆれている。まだ寝そべったばかりなのに、もう布団があつい。
 野々原瞳子と西川修吾。一年の時から同じクラスで、出席番号も同じだったから、それなりに付き合いはある。けれど、いくら思い返してみても、それが恋愛感情になんて発展する余地はないのだ。修吾を魅力のない男だなんて断じるつもりはないけれど、私ならきっともっと別の人を好きになる。
 わからない。
 もしもこれが、恋してるってことなら、納得はできる。
 好きな人の声が耳について離れないのはあたりまえだし、どんな雑踏の中からでも、それを識別できるのかもしれない。恋って多分そういうものなんだろう。

「なんとも思っていなかったはずなのに、気がつくとべたべたに惚れちゃってるってこと、あるからね」

 昔、ミキが言っていた。
 あの時は平然と聞き流した言葉なのに、今は少しばかり、胸がさわぐ。なんで今更、おもいだしたりしたんだろう。

「感覚って正直だよ。自分の気持ちを一番初めに気付くのは、たいてい目だったり、耳だったり。頭が気付くのは、一番最後かな」

 けれど、どうにも認められない。認めたくない。自分に自信がないわけでもないし、恋することを怖がっているというわけでもないのに、何故か認めたくない。どうしてだろう。今までは比較的簡単に、片想いをしたり告白をしたりできたはずなのに。自分の感情を、頭だけが認めたがらずに、耳だけが先走りしている。
 私は、自分でも気づかないうちに、どうしようもないほど西川修吾に惚れていた、と。
 そういうことなんだろうか。そういうことにしてしまっていいんだろうか。そういうことにしてしまったら、楽なんだろうか。ミキ、チサト。彼女たちは、私よりも的確に、この気持ちを表現できるのだろうか。私は、西川修吾に恋をしているのだろうか。ぶわん、ぶわん、体がゆれる。ひざをかかえたまま転がって、のたうちまわってみる。

 こんなこと考えてるだなんて、だれにも言えやしない。



 もしも物語が、ここで終わっていたならば。
 主人公が自分の恋に気付く、それだけの話であったならばよかったのに。私をとりかこむ奇妙な物語は、こんなところで終わってくれやしなかった。私を包み込んで、揺さぶって、責めさいなんだ。彼の声と同じように。

 私の耳の、西川修吾への執着は、けっして恋なんていう甘い言葉ひとつで片付けられるものではなかったのだ。



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