それから、私は時々、ルイと会うようになった。
 場所は、もちろんあの庭園だ。別に約束なんてしてたわけじゃなくて、たまたま、庭園へ行く日が重なったときだけだったけど。
 私とルイは、いつも同じ場所に座り込んでは、ぼおっと空を見上げていた。そうしながら、二、三、言葉を交わした。

 空を見上げていた。そういったけれど、私は、多分ルイを見ていた時間のほうが長かったんじゃないかと思う。
 ルイの姿は、綺麗だったから。好奇心に満ち溢れていて、でもどこかに、悲しみを押し隠しているようなルイの目は、とてもとても、綺麗だったから。

 だけど、彼は知らない。彼は、私の心の弱い部分をちくちくと刺していたのに、まったく気づかなかった。
 彼の話を聞くたびに、何も知らない私の姿が浮き彫りになっていく。
 私が、それをどれだけ恥ずかしく思っていたかを、彼は、知らない。世界をまっすぐに見据える彼のまなざしが、どれだけ私を刺し貫いたのか、彼は、知らない。

 クラスのみんなは、目を閉じていた。クラスで配られたテキストと、ヘッドフォンで、目と耳をふさいでた。かっちりとした制服で、皮膚をおおってた。
 私はそれが息苦しくて、だけど、本当に世界を見ていられるだけの強さもなかった。
 光の粒ひとつひとつが重くって、目をそらしても、そこにはまた、別の風景があるだけだった。だから、みんなにはテキストが必要なんだって、私にはわかった。でも、もう、文字の世界には戻れない。私は、どこにもいけなかった。

 一度、感じてしまえば、世界はどこまでも私についてくる。だから、感じてはいけなかったんだ。
 リアルな世界は、文字とは比べ物にならないほど、重く、切実に、のしかかってくる。苦しかった。
 ルイは、いつもこんな苦痛に耐えながら、生きているのかな。
 私はそのとき、確かに、ルイにあこがれていたんだと思う。できることならば、彼の隣に立ちたいと、そう願っていたんだと思う。





*     *     *






 月日はあっという間に過ぎていって、秋が来て、冬が来て、春が来て、夏になった。
 季節は日々変わり続けて、けれど、その変化が話題に上ることもなく。私はひとり、やきもきとしていた。

 私は、ずっと、苦しかった。
 クラスでの成績は、目に見えて落ちていた。先生には、このままじゃ留年するぞ、と何度か脅かされた。ルイと言葉を交わすようになってからは、あきらかに、勉強の能率が落ちていた。今までのようにテキストを暗記することが、できなくなってきていた。
 ルイと会うようになってからだった。
 ルイと話をしていると、つい、テキスト本来の意味を忘れてしまう。とにかく覚えなきゃいけないはずのことを、いちいち、考え込んでしまうのだ。
 私はあせった。このままでは、カレッジを追い出されるかもしれなかった。
 外の世界、それは未だに、私にとって最大の恐怖だった。
 カレッジの安寧な日々に慣れすぎた私は、外でなんてやっていけるはずがなかった。カレッジを追い出されることは、私にとって、死に等しかった。
 目をつぶることは、簡単。どれだけ息苦しくても、簡単に生きて行ける。
 でも、見つめ続けることは、苦痛なんだ。私から、ほかのすべてを奪ってしまうから。



 季節はめぐり。めぐりめぐって。秋が来て、冬が来て、夏が来て、春が来て、そうして、また秋。

 いつしか私は、庭園に出てゆくこともほとんどなくなった。
 たまにおとずれても、そこにルイがいることは、ほとんどなかった。けど、それはかえって好都合だった。またルイと話してしまえば、あのときの感覚を、思い出してしまいそうだったから。どうしようもない胸の痛みを、冷めない熱を、また思い出してしまいそうだったから。

 それでも私は依然として、教室ではルイの姿を見つめていた。
 雑然とした、人形たちの教室で、ルイ一人だけが異質だった。だから、私の瞳はその姿にひかれ、けれど、私の体は、けっして彼に近づこうとはしなかった。
 季節はめぐる。秋、冬、春、夏……。



 その日は、唐突にやってきた。
 ルイは、その日、カレッジを最短期間で卒業しようとしていた。
 すでに、彼はカレッジで記憶しなくちゃいけない事項を、全部覚えていたし、卒業することになんの問題もなかった。

 今日の試験さえクリアすれば、もう、ルイはカレッジにいなくなる。
 私はそのことを、やれやれとも、残念だとも思っていなかった。私の感情なんてものは、とっくに麻痺していた。
 覚えるべきテキストに埋め尽くされて。ううん、違う、きっと、私自身が麻痺させていた。目は確かに彼の姿を追っていたけれど、それだけだった。

 試験は基本的に口頭だ。
 教室の一番前に立ち、みんなの前で、先生の質問に答える。そこで、充分なテキストを引き出してこられれば合格になる。
 さすがに試験ともなれば、教室の空気ははりつめていた。かく言う私も、テキストを見直すことに必死だった。
 登録番号の順に、席を立ち、試験を受けてゆく。失敗したもの、合格点だったもの、満点をとったもの、さまざまだった。悲喜こもごもの表情を見て、私は、急に不安になる。今日失敗したら、一体どうなるのだろう。ただでさえ、私はあまり成績がよくなかった。卒業に関わる試験だというが……

「次、HZ-03、ルイ・K・ブロッサム! 前へ出なさい」

 その名前を聞きつけて、私は身をすくませた。ついに、ルイの最後の試験がやってきたのだ。
 ルイは、少しばかり緊張した面持ちで、前へ進み出た。手足の動かし方がぎくしゃくしている。
 試験など余裕でこなしていたルイが、こんな風にしているのは珍しかった。彼のような人でも、やはり緊張することはあるらしい。

「ルイ・K・ブロッサム。TEXT-987-1365-22を暗証しなさい」

 先生の声が飛ぶ。まずは軽いジャブから。テキスト番号が指定されていれば、私だって間違えることはない。難しいのは、文字列からの検索で……しかし、ルイは答えなかった。

「ルイ・K・ブロッサム? どうしました? TEXT-987-1365-22ですよ」

 答えない。
 TEXT-987-1365-22は、「相対性理論の体系」。特に長い内容でもない、ごく普通のテキストだった。ルイほどの天才が忘れてしまうはずのない、簡単な問題のはずだった。
 クラス中がざわめきはじめた。けれど、ルイは何も言わずに、瞳を閉じている。

「ルイ・K・ブロッサム? 残り時間は、あと三十秒ですよ? ルイ?」

 先生もひどくあせっている。目を閉じたルイの顔は、問題の答えを知っているのに意図的に黙っているようだった。
 一体ルイは、何をする気なんだろうか。とてもいやな予感がした。けれど、どこか、自分の体が浮き足立っているような感じもした。

「TEXT-987-1365-22!」
「……それに、なんの意味がありますか?」

 ルイが、はじめて口を開いた。しかし、それは、問題のテキストとはかけ離れた言葉だった。

「一文字目、不適。二文字目、不適……なんだ! どこもあっていないじゃないか! 不正解。次の問題。TEXT-333-5682-14!」
「……先生、ぼくが尋ねているんです。こんなことをして、一体、何になるんですか?」
「次! TEXT-098-5761-64!!!」

 先生は、すでに金切り声になっていた。けれど、ルイは淡々と言い放つ。

「もう、やめましょうよ、こんな事をしていたって、意味がないじゃないですか。テキストを暗記したって、ぼくたちは何も知らない。文学作品に描かれている空の青さも、広さも、何も知らない。原子論だって、量子力学だって、このままじゃ何の意味もないじゃないですか。 考えることを、自分がしないで、誰がしてくれるんですか? 感じることを、自分でしないで、どうして、生きていられるって言うんですか?」
「TEXT-745-7115-29! さあ!」

 いらだったように机をたたく。クラスのみんなは、そんな情景を、ぽかんとした表情で眺めていた。
 今までに、先生があんなに興奮したことはなかったし、生徒がテキストに関係ない話をし始めるということも一度もなかったのだから。

「どうして、見ようとしないんです! 外へ、出れば。外へ出れば、いくらでも、学ぶことはあるんです。どうして、なにも感じようとしないんです! ぼくらはもっともっと、いろんなことができるはずなのに! どうして、どうしてみんな、閉じこもるんだ!? そんな風にしてて、どこへ行けるっていうんだ!」

 ルイは、ポケットの中から、何か黒いものを取り出した。あれは、何? 手の中にすっぽりと入ってしまうほどの、黒い筒状の何か。あれは……。

 考えている暇もなかった。検索している暇なんて、もっとなかった。ルイは、先生の首を腕で抱きかかえるようにして、その頭に筒を押し付けた。高音と重低音がまざったような音がして、次の瞬間には、先生の体は、ルイの支えを失ってその場に崩れ落ちていた。

「きゃああああああー!」

 誰かが叫んだ。
 ルイは黒い筒…小型銃を水平に動かして、私たちを威圧してきた。みんな、その場に固まって、動けなくなってしまう。小型銃について、私たちは、ろくな知識を持っていなかった。せいぜいテキストで記憶したくらいの知識しか。けれど、みんな、本能的な恐怖を感じていた。

「……怖がるっていう感情は、残ってるんだな。なら……どうして、今まで、何も見ようとしなかったんだ……」

 小型銃をクラスメイトに向けている少年。けれど、ルイはそんな状態には似合わない、少し微笑みを交えた表情で語り続けた。

「地面を、裸足で歩いたことはあるか? コンクリートの上とは、本当に違うんだ。歩くたびに冷たくて、やわらかい土のとこだと、つま先がいちいち、土の中へもぐるんだ。つめの中にまで細かな土が入り込んで、だけど、それを洗い落としてしまう気になんてなれない。」

 そのとき、私が動けなかったのは、銃に対する恐怖のせいなんかじゃなかった。
 ひさしぶりに襲ってきた、あの感覚……世界のすべてが、私にせまってくるような、あの感覚のせいだった。
 ああ、見たくないのに、見てしまったら戻れないのに。なのに、私の体は熱くなる。

「土のひとつぶひとつぶを見てみると、細かい、本当に細かい石の粒が混じっている。一体どれだけの年月をかければ、こんなに小さくなるんだろう。想像するんだ! どれだけ小さなものにも、それ自身がたどってきた年月がある。世界は、テキストだけじゃ描くことなんてできない。だから、ぼくたちは感じていかなきゃいけないんだ、そして、想像しなくちゃいけないんだ。見えない場所の、見えないものまで!」

 ああ、でも、ねえ、ルイ。苦しいの。世界は果てしなく続いていて、ひとりで受け止めるのには重過ぎるの。
 想像してみよう。果てしなく、とめどなく。けれど、どこまでいったって終わらない。見えないものまで感じていられるほど、みんな、強くはないのよ。

「こんな、こんなちっぽけな石の中から、どれだけのことがみえてくると思う? 見ようとさえすれば、一体どれほどのものがひきだされてくるだろう? ねえ、この世界……いいや、このカレッジの中にだって、どれだけの物語がひそんでいるんだろう?」

 けれど、それでも私は、ルイの世界にあこがれていた。
 この体に流れている、熱い、熱い血に、すべてを任せてしまいたかった。できることならば、彼の隣に立って、一緒に、世界を感じてゆきたかった。
 私が、もう少し強かったならば。

 本当は、知っているんだ。私は、テキストだけの世界では、もう物足りなくなっている。
 目を閉じたままではいられなくなってしまったんだって。一度、皮膚をすべる風の味を知ってしまえば、雲にかすむ太陽の下で流す涙を知ってしまえば、もう、戻れないんだって。



 ふと、ルイが、前に手を伸ばした。誰かに手を差し伸べるように。一緒に行こうとでもいうように。
 その相手は、私しかいなかった。
 目が合った。ルイは、微笑んでいた。私に向かって、確かに。



 彼の手の中には、世界のすべてがあった。

 あの手をとれば、私は、変われるのだろうか。
 もっと強く、もっと、たくさんのものを受け入れられるようになるのだろうか。体中を走る熱も、快感に変わるのだろうか。
 もっと素直に、もっとありのままに、何もかもを受け入れるように。

 でも、体は動いてくれなかった。私の手は、ずっと胸の前で組まれていた。
 心臓の辺りを押さえるようにして、体をちぢこめるように、私は、動けなかった。苦しかった。どうして、こんなにも……苦しくて、怖い。震えがとまらない。
 私は、その手をとることを恐れた。見知らぬ世界に足を踏み出すことが怖かった。

 そこでは、ひとつひとつに名前があって、何もかもが、それぞれの意味を持って生きていて、私の周りを取り囲んでいる。
 感覚が押し寄せる。把握しきれないほどに押し寄せてきて、私は、自分すらも見失うのかもしれない。一度そう思ってしまえば、私の体は、恐怖にすくむ。
 せめて一歩踏み出すことができない。私は懸命にその恐怖と戦っていた。
 行きたかった。本当に生きたいと思った。彼と一緒に、どこまでも。私は、ちゃんと生きてみたかった。

 しかし、すべてはもう、遅かったのだ。
 私は、その一瞬のことを、やけに克明に覚えている。
 差し出された手を取れなかった私。それを見て、ゆがんだルイの表情。どうしようもなく悲しい目。
 けれど、それもほんの少しの間で、ルイはあっさりと無表情をつくり、銃を構えた。
 抵抗することなんてできやしない。私は彼に、あんな悲しい目をさせてしまったのだ、死んで当然だった。ううん、それでなくとも、私は動けなかった。私は完全に、あの目に縛られたようになっていたのだ。

 ルイはゆっくりと引き金をしぼり、私の胸に熱い衝撃が来た。
 今までで一番熱い衝撃、その一瞬のことを、私はやけに克明に覚えている。
 誰かが私の名を叫んだことも、あおむけになって見た白い天井も、やけに克明に覚えている。



「見るんだ、聴くんだ、触れるんだ。そして感じるんだ、想像するんだ。お前がやらなきゃ、誰が感じてくれるんだ。その痛みをしっかりと受け止めるんだ。」

 私の体を撃ち抜いた銃弾は、彼の、生の感情そのものだった。

「どこかへ行くんだ、遠くまでいかなくちゃいけないんだ。ぼくらには、もっともっといろんなことができるはずなんだ。空を飛ぶことだって、世界を見渡すことだって、できるはずなんだ」

 それは甘やかで、けれど悲痛な叫びだった。



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