＊空の楽園＊
彼は、カレッジの中では浮いた存在だった。
きわだって頭の回転が速い人で、とにかく周りの人の中に埋もれていようとする私たちとは、そもそも違う人間だった。
彼は、けっしてこんなところにいていい人ではなかった。ただ、おおきな機械の歯車になるために生きるなんて、あまりにも似合わなかった。
なんのために勉強するのか。
そう聞かれたら、私たちは、明確に答えることができる。
「そうしなければ、生きてゆけないから」
私たちの存在意義とは、つまり、記憶すること。
テキストの中のものを、一字一句違えることなく、焼き付けてゆくこと。
ずっと、そう教えられてきた。それをしなければ、私たちは、生きている資格なんてないのだと。
けれど、彼は、その質問に答えなかった。ただ、唇の端で、笑ってみせた。
私は、彼のその表情を見るたびに、なんだか、胸のあたりが苦しくなるのを感じた。
彼と話してみたことは、そんなにはなかった。
私が彼のことを、話題に持ち出すと、みんな、私をいぶかしげに見た。
みんなは、彼に何の関心も持ってはいなかった。それどころか、彼の存在、そのものを、知らなかった人もいた。
確かに、人の存在に気づかないことなんて、珍しいことではなかったのだけれど。
今ならわかる。私は、おそれていた。彼のようになってしまうことを、おそれていた。
彼の持っている世界に、踏み込んでゆくことができなかった。
だから、私はいつも、遠くから彼の姿を眺めていた。
彼が、黙って空を見上げているのを、ただ、見ていた。
けれど私は、空を飛ぶ夢など、結局見ることができないままだった。
彼の名は、ルイといった。ルイ・Ｋ・ブロッサム。
こういえば、覚えている方もいるかもしれない。
ストレンジャー・ルイ。つい三年ほど前、カレッジから規定外の通告をくらい、処分された人間だ。
規定外通告をくらう者が出るなど、数十年ぶりだったから、当時はずいぶんと話題になった。しかも、彼は、純然たるカレッジの卒業生だったのだから。
私は、彼が起こした、一連の事件のはじまりを知っている。
むしろ、私は、はじまりの事件の、被害者であるといってもいい。
けれど、彼があのような行動に出たのは、おそらく私に責任がある。ひいては、彼が最終的に規定外の判定を受けたことにも。私さえ、私さえもう少し、配慮があったなら、彼は今頃、カレッジの中枢部で活躍していたかもしれないのだ。
それが彼にとって幸せなことであったのかどうかは、わからないけれども。
私には、こんなことを言う資格は、ないのだろう。
けれど、そう。
私はきっと、彼のことが好きだったのだ。
* * *
うちのクラスで一番頭のよい人間といったら、やっぱりルイだろうな。
私は、漠然とそんな風に考えていた。ルイは、あんまり人好きのするタイプではなかったし、特別優秀な生徒だってのも、近寄りがたかった。
クラスのみんなが、ルイについて知ってることっていったら、どんな科目についても常に一番の成績をとっていることくらい。
でも、彼はがちがちの優等生っていうのとはちょっと違ってた。
そういうのにありがちな、厭味ったらしさは全然なかった。ううん、彼が、性格もよくできた人だっていうんじゃなくて、ただ、なんとなく存在感ってやつが希薄だった。
だから、普通なら一番をとるために躍起になっているはずのエリートさんたちも、ルイのことをライバル視なんてしていなかった。ルイなんて人間は、そもそもいないみたいに扱ってた。
ルイは、多分私たちとは、住む次元が違ってしまっているんだと思う。
肉体は、ここで生きているんだろうけど、精神はもっと違うところを、漂っているような。そんな感じがする。
でも、そういうルイは、私には、なんだか神秘的に見えていた。
私たちは、カレッジと呼ばれる組織で、勉強をしている学生だ。
勉強って言うのは、昔はもうちょっと違う意味だったらしいんだけど、要するにテキストを記憶すること。そして、一字一句間違いなく、暗誦できるようにすること。 テキスト番号さえ言われれば、即座にそのデータをひっぱりだしてこられるようにすること。
膨大な量のテキストを全部暗記して、試験を通れば、カレッジの中枢部で使ってもらえるようになる。
カレッジの中枢部というのは、それがどんなものなのかはよくわからないのだけど、頭脳っていうのが学問とかいうのをしているところで、卒業生は彼らの言葉を、やはり一字一句間違いなく、覚えてゆくのだと聞いた。
記憶力に優れていると判断された子供が、毎年何人も、カレッジにやってくる。
そしていつか、カレッジを去ってゆく。
中には、カレッジを卒業できずに辞めるのもいるのだけれど、そういうひとたちは、外の世界で、生きていかなくてはならない。
私は、カレッジの外の世界なんて知らないから、なんともいえないんだけど、先生たちの言葉によると、そこはとっても怖い場所らしい。
ご飯は自分たちで手に入れなくちゃならないし、スポーツなんかよりずっと厳しい運動をしなくちゃいけない。私なんかが外へ出て行ったら、たちまち死んでしまうって言われた。
先生は、いつも優しいのだけれど、外の世界の話をするときにだけ、急にけわしい顔をする。
きっと、外は、本当に怖いところなのだ。
私たちが、そんなところで暮らさずにすんだのは、勉強ができたから。カレッジの生徒になれたから。
だから私たちは、毎日毎日、頭の中に文字を詰め込んでゆく。それが、私たちの存在意義。
私たちは、テキストに書かれている言葉の意味なんて、知らない。求めてもいない。
* * *
今日も半日にわたる授業が終わって、あとはもう、おのおのの部屋に帰るだけ。
毎日が同じことの繰り返しで、とにかく頭の中にテキストをつめこむだけで手一杯。ほかの事なんて考えてる時間はない。だからみんなは、わき目も振らずに部屋へ向かったし、そして、すぐに眠ってしまう。
けれど、今日の私は、なんだか不思議な気分で、ちょっと、庭園へ出てみようかななんて思った。
庭園は、教室を出てすぐのところにある。土の上に、緑の草が一面びっしり生えた場所。ここを庭園なんて大層な名前で呼んでるのは、多分私だけだと思う。
みんなは大体、空き地だとかって言ってるし、そもそも、知らない人も多いんじゃないかな。
芝生っていうのかな。そういう地面は、寝っ転がるのには最適の場所だって思ってる。
カレッジの中で、数少ない、お日様の光が届く場所。雲の流れが見える場所。でも、庭園になんていく人はほとんどいない。せっかくのいい場所なのに、草の手入れなんて全然されてないのが、少しもったいない。
理由はわかってる。みんな疲れてるから。そして、庭園に行くことに明確な意味なんてないってこと、知ってるから。
意味のないことをするなんて、悪だ。私たちは、ずっと、そう教えられてきた。
庭園にいくことにも、ほんの少しだけ罪悪感がある。
でも、やっぱり、私、たまにはお日様の光を、浴びたいって思う。
けれど、その日は、何故か、誰もいないはずの庭園に先客がいたのだ。
ふかふかしていそうな髪の毛をこちらに向けて、芝生に寝転がっている。
指先のほうで花をいじりながら、目を空へと向けて、雲の形が変わっていくのを眺めている。
「ルイ・Ｋ・ブロッサム？」
意外な人物ではあった。けれど、うちのクラスでここに来るなんていうのは、確かにルイしかいないだろうな。
こんな芝生に寝そべっているなんて、他の誰にもふさわしくない。みんなは、そんな余裕ないもの。
「ああ、うちのクラスの……えっと、ミズエ・Ｆ・タキガワ？」
言いながら、ルイは身を起こす。そのままでいいわ、と言う暇もなく。
「で、何の用？」
こっちを向いて、尋ねてきた。少し、棘のある声だった。
「別に、何も用はないけど……？」
私がそう言うと、ルイはちょっと驚いたようだった。
「隣、いい？」
「どうぞ」
私は、彼の隣に腰をおろした。葉にたまった露が、私の服をぬらしたけれど、それがまた気持ちよかった。
空は晴れわたっていた。晴れた空を見上げると、いつも、泣いてしまいそうになる。それは、感動してとかセンチメンタルな気分になってとかじゃなくって、空って、あんまりにも青いから。青が、ちょっと他にはないくらい強くって、自然と涙が出てくる。
風は、どっちかといえば生ぬるくって、快適ではないのだけど、でも、私、この空気が好き。
「ここには、よく来るの？」
私は草を手の中でもてあそびながら、尋ねた。
「たまにね」
「私も、時々。でも、一回も会ったこと、ないね」
「今日、会えただろ？」
ルイの返事は、ぶっきらぼうな感じで、私が今まで持ってたイメージとはだいぶ違った。
けれど、思っていたよりはずいぶんと、親しみやすい人のようだった。一言一言がなんかあったかい。庭園にいるのにはぴったりだった。
私は、ルイの顔をちゃんと眺めたことがなかった。クラスでは、とにかくテキストに向かってばかりだったし、ルイはそんなに話しかけやすい人でもなかったから。
整った顔立ち、とは言えないけれど、どこか、人をひきつける顔だと思った。
とくに、目がとても大きく見開かれていて、印象的だ。
「あー、いい天気……」
目を閉じれば、なんだかいろんなものが見えそうな気がする。そんな感傷的な瞬間は、ごくたまにやってくる。
私はそのたびに、この庭園で、ぼんやりと座って時をすごすのだ。
ふと、ルイが真剣な顔になって、聞いてきた。
「あのさ、ミズエ、この草の名前を、知ってる？」
腰掛けている原っぱのなかで、一番多いタイプの草を、つまんで。
「……草？ この草に、名前があるの？」
私はめんくらった。草は草だとしか思っていなかったから。
確かに、草にはいろんなものがあるみたいだった。けれど、それをきちんと見てみたことなんて、なかった。
手近にあったのをまじまじと見てみると、厚めでハート型の葉が、かわいらしかった。三枚が一単位になっているようで、ハートの尖ったでくっついている。そこから伸びた茎は、意外に長く、土の上をはっていた。ちらほらと見えていた白い花も、どうやら、この草と同じ茎からでているらしい。
「この草の、名前……？」
いくら眺めてみても、なにも思い浮かばなかった。名前って、誰がつけたものなのかな。名付け親の気分になってみれば、わかるのかな。
でも、私の頭の中は、やっぱり真っ白。
「ギブアップ？」
「うん、なあんにも思いつかない。ギブアップ」
「……シロツメクサ。覚えてるはずだぜ？」
確かに、その音は、私の脳の中にはあった。
「ちょっとまって。今、思い出す」
私は目を閉じて、頭の中でテキストを検索する。"シロツメクサ"の文字列は、いくつか見つかった。
「えっと……まず、マメ科の植物、に分類されてる。牧草なんかにも利用されてる。子供たちが花冠をつくる材料にもなる。ときどき四つ葉のものがあって、それは幸運のお守りになっている。四つ葉のクローバーがでてくるお話は……」
「ストップ」
テキストを読み上げようとした私の口を、ルイはふさいだ。
「今の言葉だけど、花冠って、どういうものだかわかる？」
「ええ？」
どうして、ルイはこんなに難しい質問ばかりなげかけてくるんだろう。やっぱり天才は違うってことなのかな。
「花冠……かあ……」
私は再びテキストの検索に入る。さっきシロツメクサを検索したばかりだったから、きっと、その付近にあるはず。思ったとおり、さっきよりはずいぶん早くに検索結果が出てくる。
「えっと……『花の茎を編んで、つなげていって輪を作り、冠のようにしたもの。子供がよく作るもので、シロツメクサなどが作りやすい……』」
「それは、テキストの話だろう？ 実際にどんなものなのか、わかるか？ 今ここで、花冠を作れる？ そこらじゅうにシロツメクサはあるんだ、作ってみせて」
「……それは」
なんでそんなに、無理難題ばかり吹っかけてくるんだろう。
私はすっかり困って、ルイを見た。冷たい汗がふきだしている。ルイは、そんな私を笑うでもなく、真剣な顔をして……むしろ、悲しげな顔をしていた。
「話を変えるぞ。さっき、セントラルドグマを習っただろ？」
「『ＤＮＡからＲＮＡが複写され、それがリボソームへといって、そこでアミノ酸をつなぎ合わせ、タンパク質をつくる。ＤＮＡの配列とは、つまりアミノ酸の配列のことであり、塩基を三文字を組み合わせたものによって、ひとつのアミノ酸を指定する』」
私は迷わずに答えた。さきほどの授業で覚えたばかりなのだ。一字一句、間違いはないはず。
「そう、そのセントラルドグマ。……それは、実際に、ぼくたちの体の中で起こっていることだ。ああ、そもそも、ぼくらのからだは、主にタンパク質でできているってことから、言ったほうがいいのか。確かに、一番多いのは水だけど、生物体に特有のはたらきをしているのは、酵素なんかとくにそうだけど、タンパク質がほとんどなんだよ。ＤＮＡは結局、そのタンパク質をどうやって作るかの指令を出しているんだ」
「え、えっと……？」
私はルイが何を言っているのか、よくわからなかった。ひとつひとつの言葉は、検索すればわかるかもしれない。けれど、ルイが求めているのは、そういうことじゃないんだろう。だって、ルイの顔は、ちょっとびっくりするくらい険しかった。
「実感できる？ ぼくらの体の中で、今も、次々にＤＮＡが複写されて、タンパク質ができてゆく。こうやって話すことができるのも、ひとつひとつの細胞が、自分の役目を果たしているからだって、実感できる？ 生物学として習ったテキストの内容は、全部、自分の体について書かれているんだって、なあ、実感できるか？」
「……」
わからなかった。そんなこと、考えたこともなかった。
だって、テキストは覚えるためのものであって、それ以上のものじゃないはずで。それ以上の意味なんて、教えられたことはなかったし、それに多分、私たちは考えることよりも、記憶することを期待されている。
「私……考えたことなんてなかった……」
風が、私とルイの間を通り抜けていった。同じ風が、私の髪の毛の中までかき回してゆく。思わず、目を閉じた。
「見てみろよ。ここには、シロツメクサだけじゃなくって、たくさんの、たくさんの草花がある。季節が変われば、また違った花が咲く。空を見上げれば、雲は刻々と移り変わっていく。それに、夜空、夜空を見上げたことはあるか？ ここから見える、ひとつひとつの星にも、全部、名前がついているんだぜ！」
目を閉じた私の中に、いつか見た、星空がうかんでくる。細かい細かい星の粒が、それぞれに光を放って、自己主張をしている。それぞれに強い光を放って、私はその光に圧倒されてしまう。
なんだか、胸が苦しくなる。どうしよう。
胸が、体が、今にも暴れだしてしまいそうになる。
「その、ひとつひとつに、名前があるんだ。ひとつひとつが、違った輝きをもって、ぼくたちに見える」
ああ、数え切れない。数え切れないほどの星。私はそれから逃れようとするように、目を開けて。今度は、確かに目の前にあるシロツメクサや、ほかの草花がせまってくる。数え切れないほどの草花に、それぞれの名前があって。
数え切れない、花びらが舞う。
「どうしよう、やだ、まってよ、だってそれじゃあ」
「？」
「ものごとにみんな名前があるなんて、怖くない？ 自分の名前だけだって手一杯なのに」
どうしたんだろう、なんだか、すごく胸がどきどきいってる。どうしよう、胸が、もうはちきれてしまいそう。血管の中を流れる血が、騒いで騒いで、抑えられない。
体が、熱い。
「……でも、ぼくは、なんだかわくわくするんだ。ものの名前を覚えてゆくたびに」
ルイはシロツメクサの葉をいとおしそうになぜながら、言った。
「シロツメクサだって、それは種の名前で、一枚一枚の葉は、また、全部違う形のもんなんだ。この庭園にだって、数え切れないほどのものがあるんだ。この世界には、いったい、どれだけのものが隠れているんだろうって」
頭がくらり、とした。
一個一個は、私たちが普段、目にも留めないようなものたち。けれど、ルイは、そのひとつひとつを、確かな存在として受け止めてゆく。それは、本来、私たちには許されていないことだった。やろうとしても、できないことだった。
だって、それを受け入れてしまったら、世界は容赦なく、私に襲い掛かってくる。
もっと、自分を見てくれってつめよってくる。
名もなきものたちが、明確な質量をもったら、そしたら、私のちっぽけな体なんて、きっとずっと熱くなりっぱなしだ。熱にうかされたようになって生きてゆくことなんて、身が持たないってわかってる。
覚えるテキストはたくさんあるのに、もっとたくさんの情報を、この身に受け止めて、処理するだなんて。
世界は、私ひとりには広すぎる。あんまりにも、広すぎる！
「でも……でも、それって、ルイみたいに、頭のいい人だからできることだよ。私たちには、そんな余裕はないよ。自分のことだけで、手一杯だよ……」
「他の人は、ひょっとしたら、そうなのかもしれない。でも、ミズエならできるんじゃないかと思ったんだ。だって、ミズエは少なくとも、空が青いってこと、知ってる。この世界がモノクロームなんかじゃないって、知ってるだろ！」
「私……は」
どういったらいいんだろう。私は、ただ、胸が苦しかった。
ルイが言っていることは、わかる。どうしたいのかも、なんとなくわかる。彼の言葉は、きっと正しいんだって思う。でも。
空は、今も青かった。雲は、ゆったりと流れていた。風は、草の間を吹き抜けていった。
けれど、あの光景の向こうには、一体どれだけの現象があるんだろう。それは、想像もつかないほど、遠い。
庭園に来るのは本当に時々だ。私、この目をずっと開いてはいられない。ずっとこの景色を見つめてはいられない。そんなに器用じゃない。強くない。
「ねえ、ルイ……ルイは、どうして、そんなに強くいられるの？ なんで、いろんなものを見据えて、それで、怖いとも思わないの？」
「怖い？」
ルイは笑った。
「胸がどきどきいってて、体ん中が妙にほてってて、苦しくて、ミズエは、こういう状態を、怖いって言う？ それって、わくわくするとか、言わないか？ なんか、何もかもを見てやりたいって思ったりすること、ない？」
「だけど……」
苦しいよ、ルイ。なんでかわからないけど、苦しいよ。
ルイは、立ち上がって、前に手を伸ばした。名もないすべてのものを、その手の中につかむかのように。見えないものを感じ取るように。
そのときのルイは、確かに美しかった。けれど、その美しさは、今の私には、手の届かないものだった。
「ミズエは、知ってるだろ？ 美しいものを、美しいって思えるだろ？ ちゃんと、感じることはできるんだろ？」
でも、私の手の中は、まだからっぽだった。
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