その瞬間、それまで何事にもまったく注意を払わなかったはずの人間達が、一斉に同じ方角を向いた。そして、彼ら灰色の人間達の目前で、常識では考えられないような光景が繰り広げられたのだった。






 一人の少女が、空へ向かって手をのばしている。その足元には鉢植えが一鉢。
 そこに植わっているのは、植物図鑑には載っていないような植物だった。人間に知られているどの植物とも似ていない、しかし一見してそれが何がしかの植物である事は判別できる、そういった鉢植え。

 その鉢植えの緑が、どんどんと成長していた。
 成長、というよりも、膨張とでも言ってみた方が、その様子をよく表す事ができるかもしれない。とてつもない速さで、ビデオの早回しでも追いつかない速度で、緑色が茶色い鉢から溢れ出していった。
 緑はそのままアスファルトの上をうねって進み、そこら中にある建物に巻きつこうとする。

 そしてまた、傍らにいた少女にも、緑は侵食していった。
 足に、腕に、その植物が巻きついてゆく。しかし、少女はそんな事をまったく気にしていないように、腕を空へと向かって伸ばしつづけている。何かを一心に祈っているかのような表情をして、空の雲を突き刺すような目をして。

 少女の白い肌はやがて緑色に埋め尽くされてしまった。
 そのまま、白いワンピースの上で緑は増えつづけ、胸、肩、首…彼女の顔のほうへとのぼってゆく。
 その端正な顔立ちを覆ってしまおうと、緑はますます勢いをつけて、少女の体にまとわりつく。

 その現象は、ひょっとしたら、少女が植物に取り込まれる、というよりもむしろ、少女と植物の融合といったほうが近いのかもしれなかった。少女と植物の間にはなんの分け隔てもない、彼らだけに通じる世界が存在しているように見えた。

 少女の姿を、緑はすっかり包んでしまったが、その勢いは弱まるどころかどんどんと加速する。
 アスファルトの上をのたくりまわっている緑の成長スピードも、それと呼応するように上がっていった。

 突然、緑の中から、茶色く硬いものが突き出してきた。それは、枝のようなものだった。ほそいほそい枝のようなものが、緑のなかから幾つも吹き出し、すでに人間が中にいるとはとは思えなくなった、その緑の塊を取り囲んだ。
 枝はお互いに絡み合い、何本も絡み合って太い枝となり、それがまた絡み合って、さらに太くなる。そんな事を繰り返して、少女を中心に据えた木の幹となった。地に近いほうの枝もやはり絡み合い、こちらは根となって、アスファルトを突き破った。

 そうしている間にも、幹のほうは成長を続ける。
 新しい枝が次々に吹き出して、それが幹の周りにからんで、どんどんと太く、高く、育ってゆく。木の育つ尋常な速さではない。何十年もの時間を、この一瞬に凝縮しているような速さだった。

 木は、どこまでもどこまでも成長してゆく。その先端が空にかすんで見えなくなるほどに。どこまでもどこまでも高くなってゆく。あの木が目指しているのは一体なんだろう。






 その情景を、人間達は食い入るように見ていた。
 ひたすら動かしていた足を止め、その光景に見入っていた。

 何かがはじまりそうだった。何か、自分たちを驚かせるような事が、常識では考えられないような事が、重大な事が起こりそうだった。

 このような高揚感を、彼らははじめて体験した。
 心を揺り動かされるもののなかった、ただ流されるだけの毎日を歩んできた彼らにはじめて現れた感情。これから何かが起こるという期待。
 ただ、彼らはその感情を、表に出す方法を知らなかった。
 それどころか、その感情の名前すらも知らなかった。このような衝動の処理方法を、彼らは全く知らなかった。だから、彼ら人間達は、ただ、目の前で起こっている事を見つめていたのだ。

 これから、何かが起こる。彼らは息を呑んで、その木の成長を見守った。






 枝ぶりはますますみごとに、その木は育っていった。
 木、いや、もうすでに、大樹と呼んだ方が良いのかもしれない樹。太く、高く、どこまでも空を目指して大きくなってゆく。
 じきに、人工的に作られたドームを破り、樹は本物の空へと到達する。
 今生きている人間の誰も見たことがない、本物の空が、あの樹の先端にはある。しかしそれでも、その樹は成長をやめない。

 樹の周りには、いつしか人だかりができていた。
 いまや、この星に存在するすべての人間達が、本能的にこの異変を感じ取り、家の外へと出ていた。そして、何かが起こるときを待っていた。






 リラは、自分がどんどんと大きくなっているのを感じていた。
 空へと向かってめきめきとのびているのを感じていた。それは、リラにとってはおそらく初めての、実感のある成長だった。
 それまで命をつなぐために、決して成長する事ができなかったリラが、今、大きく大きく成長しているのだ。背が伸びる、のびてゆく。それは初めての快感だった。

 自分の体が、今までと違う空気にふれている。
 ついさっき、本物の空を地上から隔てていたドームは、自分の手で破った。本物の空は、確かに、綺麗なものではなかった。できるだけ減らそうという方向には動いているものの、やはり膨大な量のガスが、空へ捨てられていた。しかし、そこでの呼吸は、狭苦しい地上でのものよりは、ずっと心地よかった。

 そして、リラはとうとう、あの分厚い雲に達した。
 太陽を覆い隠し、地上への光をさえぎった分厚く、黒い雲。
 何故かリラにはそれが、笑っているかのように見えた。風に揺れ、渦を巻き、何かをあざ笑っているように見えた。一瞬の躊躇。しかし、リラはそれを振り払い、その雲へと突入する。

 リラの体は、それでもなお成長しつづけていた。
 分厚く、どこまでも続くかと思われる雲の中を、ぐんぐんと進んでゆく。風を切り、進んでゆく。
 雲による抵抗らしきものはなかった。あっけないほどにリラは簡単に、その中を進む事ができた。
 ただ、雲はあまりにも分厚く、限りがあるのかも怪しいと思われるほどだった。それでもリラは、暗い中をまっすぐに、突き進んでいった。黒い雲の出口を、光の見えるほうを目指して。






 人間達は、すでに見えなくなった樹の先端を見上げていた。
 彼らの視力では到底、樹が雲の中を突き進んでゆく様子は見えなかったはずだ。しかし、彼らは確かに感じていた。今あの樹が、どこをどう進んでいるのかを、感じる事ができた。
 樹は、光を目指して成長しつづけていた。雲に覆われていない太陽を目指して成長していた。






 雲の密度がだんだんと薄くなってきたように感じる。
 下から上へのグラデーション。視界が大分利くようになっている。
 出口はもうすぐそこだ。わたしは雲の中を進みつづける。どこまでもどこまでも、あの太陽の光が見えるまで進みつづける。






 わあっ……と、人間達の間から声が上がった。
 何か、声を出さずにいられない気分に、皆がなっていた。成長しつづける樹と、彼らの精神はすっかり同化していた。
 のぼりつづける感覚。視界が上昇してゆく感覚。風が下のほうへ流れてゆく感覚。
 樹の感じているそのすべてを、人間達は感じ取る事ができた。

 いても立ってもいられなかった。
 上へ上るのだという感覚が、人間達を突き動かす。のぼってゆくのだ、あの太陽を目指し、あの光が見える場所まで。もうすぐだ、雲はもう大分薄い、だんだんと明るくなってきている、もうすぐだ、もうすぐ…!






 視界が、真っ白になったように感じた
 暗闇に慣れた目に、真っ白い光が飛び込んできた。

 光だ。あれが、本物の、何にもさえぎられていない太陽なのだ。直視するのには少し辛い、しかし、いつまでも見ていたい光の球。

「光だ。」「光だ。」「光が見えた!」

 地上の人間達が歓声を上げる。
 そのとき、薄暗かった街の中に、雲を突き破って光が差し込んできた。真っ白い光が一人一人の顔を照らした。

 お互いにも灰色の影にしか見えていなかった顔立ちに、白黒のはっきりとした陰影がついた。
 彼らは今までろくに見えていなかった、お互いの顔を見た。
 自分の伴侶の顔すらもよくわからなかったのが、今では個人個人の区別がつく。

「あなたの唇は薄くて小さい」「君の耳たぶはかわいらしい」「あなたの鼻は大きいね」「お前の目って二重だったんだな」「わあ、まつげ長いね」「私の眉毛は垂れ下がってるけど、あなたの眉毛はつりあがっているわ」

 そこかしこで、ささやき声が聞こえた。
 一人一人がこんなにも違う人間なのだという事、それ自体が、彼らにとっては新鮮な驚きだった。

「あったかいね」「うれしいね」「しあわせだね」「体中がほかほかしてるよ」「眠くなってきた」「でも、少し暑いかしら?」「涙でそうだ」「ああ、よかった」

 皆がそれぞれの言葉で話していた。自分の感情を表現しようと、それぞれの言葉で話していた。ささやき声が連鎖的に広がってゆく。ざわめきが光と共に、地上に満ちてゆく。人間達の顔は、今までとは全く違って、とても晴れやかだった。

「まだ読みかけの本があったんだっけ」「さあ、仕事だ」「ああ、こんな日はお茶でも飲もうかしら?」「久しぶりにお菓子作っちゃうんだから」「誰かー、一緒に野球でもやろうぜー」「お散歩お散歩っ」

 そして、人間達は口々にそんな事を言いながら、その場所から去っていった。彼らの、今までとは少し違った日常へと帰っていった。






 光が、樹を照らしている。光が、地上を照らしている。求めつづけた光が、いま、体中に満ちている。あたたかかった。人間達の光よりもさらに大きく、明るく、あたたかい光だった。光に照らされて、彼女はきらきらと、緑色に輝いていた。





*     *     *






 その町の中心には、大きな、大きな樹がそびえ立っている。
 天まで届いているかのような大樹が、そびえ立っている。
 そして、そこに立っている樹の根元には、小さな茶色い鉢が転がっている。鉢の中には、大樹の葉と同じ色の緑が満ち満ちている。

 その鉢の中から、やがて、小さな小さな、誰も見たことがない新しい植物が生まれるのは、もう少しだけ、時間の流れた後のこと。

 生まれてきた小さな小さな植物は、自分自身の意志をもち、自分の体を使って動く事ができるだろう。何かをしなければならないという衝動に動かされ、自分が生きているという事を知りたいと願うのだろう。そしてまた、その想いは、新たな物語を、新たな進化をつむぎだす事になるのだ。






 大きな樹が、まるで笑っているかのように、風に体を揺らして、輝いた。




Fin.   




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