*待ちぼうけの姫君*



   ―――結局、俺の旅は、まだまだ終わりそうにない。
   俺はそう思うと、はしゃぐガキどもに気付かれないように、そっとため息をついた。
                                      

《続》



 終わってしまった、と私、小林遥は絶望的な気分になった。
 確かにこの主人公の旅はまだまだ続くのかもしれない、そうだ、このシリーズは延々と続く事で有名な、しかもまだ雑誌で連載中のジュニアノベルの第一巻目なのだから、まだまだ主人公の旅は続くに決まっている。しかし、現実にこの本の読むべきところを、私は読み終えてしまった。
 左手が挟んでいるページは残り五、六ページほど。この五、六ページというのは奥付や、シリーズの広告にあてられている。ひょっとしたら、そういうページにもそれなりに面白い事は書かれているのかもしれないが、私にはあいにく、奥付にまで楽しみを見出せるような良い読者ではない。
 完結していない作品にはあとがきを書かない、というこの作家のポリシーに、少しばかり恨みを覚えた。
 まあ、あとがきでつぶせる時間など、たいてい五分程度ではあるのだが、それでもないよりはましだったのに。

 だが、この場合、本の著者を責めるのは間違っている。責めるべき相手は他にいるのだから。
 本を一冊読み終えるまで待っても、未だに姿を現さない冴島数彦、彼が全ての元凶だ。
 私はため息をついて、文庫本を茶色いミニリュックの中にしまった。

 親譲りの腕時計を覗き込むと、すでに本来の待ち合わせ時刻である午後一時を、一時間以上すぎていた。正確に言えば一時間十二分。
 その数字がどうにも信じがたく、駅前の背の高いビルにとりつけられた、電光掲示板のデジタル時計を見やれば、そこには2:15と表示されていた。あの時刻を信用するならば、すでに一時間十五分の遅刻か。
 一時間十二分と一時間十五分だと、多少印象が違う。一時間十二分なら一と五分の一時間の遅刻だが、一時間十五分だと一と四分の一時間の遅刻。まあ、大差はないのだが。そんな事を考えているうちに、腕時計の針はとっくに二時十五分をすぎていた。
 遅い、あまりにも遅い。
 今日は風があって、夏にしては涼しいのが不幸中の幸いだった。クーラーで冷え切った電車の中が寒いくらいだ。最近は暑い日が続いていたので、こんな事は珍しい。もしもこれで蒸し暑かったらもう目も当てられなかっただろう。青いノースリーブから伸びた腕に、汗の雫は見当たらない。

 私は、もともと冴島数彦に、時間には律儀だという印象をもっていた。
 学校には遅刻せずに来るどころか、始業二十分前には必ず教室にいる私よりも、遅くきたことがない。体育祭のために朝練をやったときには、遅れないようにしようとするあまり、一人だけ校門の開くよりも前の時間に来てしまったという逸話もある。それに、冴島の親しい友人からも、彼が遅刻したという情報は一切聞かなかった。
 だからこそ私は、冴島が早すぎるくらいに来る事を見越して、わざわざ待ち合わせ場所、H駅北口にある少年の像の前に、二十分は早く着くようにと計画して電車に乗ったのだ。
 どうにも乗り継ぎが悪く、実際に待ち合わせ場所へ着いたのは、計画よりも七分ほど遅い十二時四十七分だったのだが。ひょっとしたらすでに冴島は待ち合わせ場所で、私の事を心配しながら待っているのかもしれない、などとハラハラしていたのだが。無駄な緊張だった。
 ため息をつき、私は少年の像によりかかる。
 一時間以上立っていたので、すっかり足が疲れてしまっていた。背の高いビルが並ぶ向こう側に、私達が行く予定の映画館がある。冴島が時間どおりに来ていれば、今ごろ私はその中で映画を見ていることだろう。

 こんな事になるのならば、読みかけだった推理小説を持ってくればよかった。あれは確か、総原稿枚数が千六百枚を越える大作だとかで(今の長編ミステリーブームだと、それくらいの大作はごろごろしているのかもしれないけれど)かなり読み応えがある。ノベルスではなくれっきとしたハードカバーなので、重いには重い。
 しかしあれならば、読みかけとはいってもまだ四百ページほど残っていたので、この待ち時間で読み終えてしまうような羽目にはならなかっただろう。それとも、再読になってしまうけれども文庫版のSFとか、もしくは薄くても読解力を必要とするような幻想文学。
 なんにせよ、ジュニアノベルではどれだけじっくり読んでも、私の速度では二時間かからない。冴島数彦が待ち合わせ時刻ぴったりに来ると考え、この本ならばちょうどいい分量なのではないかなと計算して、わざわざ選んだというのに。最悪だ。
 私は読む本さえあればいつまででも待っていられるけれども、本がないときは五分待つのも苦痛だ。こういうのも活字中毒というのだろうか。ちょっと暇になると何か読むものが欲しくなる。活字なら何でも良い。そう思ってしばらく、私は先ほど時刻を確認した、電光掲示板のニュースを眺めている事にした。


   F市郊外にあるAさん宅に、黒服の男が侵入。一家四人を刺して逃走。
   T高速道路Yインターにて玉突き事故。通行止めにより十時間の渋滞。
   R国でテロ勃発。空港が占拠される。人質の中に日本人はいない模様。


 なんだか物騒な話題ばかりだ。
 まあ、H市のIさんの飼うアメリカンショートヘアーに八つ子が生まれただとかいうニュースをこんなところで流してみてもどうにもならないだろうが。
 電光掲示板特有のオレンジ色の文字も、どことなく、おどろおどろしさをあおっているような気がする。
 全く違うニュースをああいう均一な文字でやられてしまうと、事件の重大さすらも同じになってしまうようで、少し怖い。ほのぼのとしたペットのニュースと、本日の首相の動向、凶悪犯逮捕のニュースに、集団食中毒、それからどこかの国の内戦。そういったものが全て同じ方式で語られて、同じ次元の問題であるかのように受け取ってしまうのは、やっぱり少し怖いことだと私は思う。
 今日は何故か、いつもならばたいして気にもとめないような、電光掲示板の文字の流れる速度が鼻についた。じっと流れている文字を見ていると、ちょっと読みにくい漢字があったりして、流れから取り残されたり、もしくは流れてくる文字に追いついてしまって、端のところをじっと見て、一文字一文字を読むはめになったり。もう少し自分の好きな速度で読ませてもらえないだろうか、などと無茶な要求を考えてしまった。
 掲示板の左下に表示されている現在時刻が、着々と数字を重ねている。
 流れてゆく最新ニュースを読んでいても、あれがちらちらと目に付いて仕方がない。時と分の間で点滅している点々の記号すらもうっとうしく思えてくる。
 あれが一度点滅するたびに着実に時間が流れている、そう考えると私の苛々はつのるばかりだ。
 いかにもデジタルなその文字は現在、2:26との表示。

 ああ、今ならとりあえず、すべての数字を足せば十になる。だけどそんな事は少しも嬉しい事ではない。あと四分もすれば一時間半の遅刻になる。
 そんな事を考えながら時計を凝視していたら、6の文字がぱっと7に変わった。さすがにこうなると、生半可なレベルの遅刻ではない。しかも相手はあの冴島数彦なのだ。これはもう、前代未聞の事態と呼んでもおかしくはないだろう。





*     *     *






 毎日部屋にこもって、ベッドの上で読書する、そんな夏休みを過ごしていた私の元に、同じクラスの冴島数彦から電話がかかってきたのは、昨日のことだった。
 部活に入っていない私は学校へ行く事もなく、日付の感覚も忘れてしまっていたのだが、冴島の声が耳に当てた子機から聞こえてきた瞬間、自分が今夏休みという長期休暇の中にいるだという事を思い出した。

「もしもし、小林さんのお宅ですか。私立C高校の冴島と申しますが、遥さんをお願いします」

 とりあえず、冴島数彦のことは、夏休みのだらけた生活で、半分とろけた私の脳みそも覚えていた。
 まあ、その名前を聞いて、まず始めに、ちょうど読み終えたばかりの長編推理小説の中で華麗な推理を披露してくれた主人公、冴島修平を連想してしまった事は、この夏の記録的な暑さに免じて許してもらおう。 これが仲の良い友人なんかだったらば、
「確かにうちは小林ですけれど、遥なんていう娘はおりませんよ。私立C高校ならば、息子の彼方が通っている高校ですが」
 などといって遊ぶのだけれども、相手がクラスメートの男子では、そういうわけにもいかないだろう。

 私は素直に
「はい、私が小林遥ですけど。冴島って、あの冴島数彦だよね。一体どうしたの?」
 と言った。

「いや、明日暇かなと思って」
「暇といえば暇だけれど…」
 暇というのを、予定が何もない状態だと解釈するならば、この言葉は嘘になる。
 一応明日は、返却期限が迫っている図書館の本を三冊くらい片付けてしまって、それから不本意ながら宿題でもやろうかなどという予定を立てていたには立てていたのだから。しかしこのくらいの予定は、明後日に持ってきたところでたいして変わりはない。
 しかし、一体なんの用事だろう。
 初めは、宿題の解き方を教えてもらいたいだとかそういう事かもしれない、と思った。けれど、他の人ならまだしも、冴島がそんな事を私に頼むはずがない。

 私の学校はテストの成績順位を廊下に張り出すなどという、生徒からしてみればとんでもないことをやっているのだが、冴島は現在、そのトップを独走している。本人としてはそれほど勉強しているつもりはないそうだから、そういうのを多分天才と呼ぶのだろう。もっとも彼は
「学校の勉強だけできたってどうにもならないんだけどさ。天才っていうのは、もっとすごい人たちに使う言葉だと思う」
 などと言っているが。クラスのみんなにしてみれば
「学校の勉強だろうとなんだろうとできるんだからいいじゃないか。」
 らしいが、私は冴島の言っている事も何となくわかる。
 偉大な発見をした人々や、素晴らしい文章を残した人が、必ずしも学校の成績が良かったわけではない。小さい頃は馬鹿だといわれていた人間が、大人になって大きな仕事をやり遂げた例など、いくらでもあげられる。
 けれどまあ、成績がいい事に劣等感ばかり感じていたらどうにもならない。
 冴島の場合はある程度の自信と謙遜がちょうどいいくらいの配分だったので、成績のいい事を鼻にかけている人間よりかはずっと好感が持てた。
 まあ、そんな冴島なのだから、私などに宿題のやり方を尋ねてくることはないだろう。私程度に解ける問題ならば、冴島はあっさりと解いてしまっているはずだ。

「明日、なにかあるの? あ、文化祭のことで何か相談とか?」

 他に考えつく事といえば、冴島が書くことになっている、文化祭の脚本の事だ。
 私の高校では大分遅めの、十一月始めに文化祭がある。夏休み前のホームルームで、我がクラスはオリジナル脚本で演劇をやることに決定したので、この休み中に脚本を書いてくる人間が必要だった。そこで名前が挙がったのが冴島数彦だった。彼は小説家を目指している、ということだったので、おそらくクラスの中では適役だろうと思われた。

 余談だが、小説家を目指しているだけあって、冴島は文章が上手い。
 現代文の授業では、先生をも感心させるような見事な指摘をする。それでいて、冴島の得意教科といえば化学と物理なのだ。この調子ならば、彼はきっと理系小説家への道をひた走ってくれるのではないか、と私は期待している。
 十年後か二十年後、それとも三十年後、出版された冴島の小説を読むのが楽しみでならない。
 ちなみに、一応、私はその脚本書きのアシスタントという事になっている。本をよく読んでいるから、などという安直な理由で押し付けられた。
 私自身は確かに本をたくさん読むほうだが、読んでただ楽しんでいるだけで、自分で文章を書くことはあまりない。小説家になろうなどと考えた事もない。
 その代わり、本屋だとか編集者になりたいと思ったことはある。実を言えば、冴島の書いた小説を私が編集して世の中に出す、などという空想をした事もある。
 これはなかなかに楽しい空想だったのだが、今思い返してみると少し恥ずかしいかもしれない。
 私は、始め、アシスタントなどという大役は出来ないだろうと言って断ろうとした。
 しかしホームルーム委員の沼津に、冴島の文章を読んで気になるところを言ったり、つまった時に気軽にアイデアをだす役目だからと説得された。
 アシスタントといっても、漫画家のアシスタントではないのだから高度な専門技術が要求されるわけではない。作家の中には二人交互に小説を書いてゆくというやり方をとっていた人もいたけれど、冴島と私にそれをやれと要求しているわけでもないだろう。

 実は冴島から電話があるまで、そんな事はすっかり忘れていたのだが、まあいい。

「脚本、どこまですすんだ?近未来の設定にするってとこまでしか聞いてないけど」
「それなら大体出来た。もっと細かいところは訂正が必要だけどな」

 さすがに私も、その言葉を聞いた時には驚いた。まさかもう出来たと言われるなんて。

「へえ、出来たんだ。どんな話? それか脚本見せてよ、私一応アシスタントって事になってるわけだし」

 アシスタント云々は言い訳だな、と自分では思う。
 単に私は早く、冴島の書いた脚本を読みたいだけだ。それこそ活字中毒者魂。そこに物語がある限り、活字中毒者はページを繰りつづけるのだ。

「その脚本を見せるって話もあるし、あと、弟と行こうと思ってた映画の券が一枚余ってるんだよ。新聞屋のおじさんがくれたんだけど、弟はもう友達と見に行ってたらしくて」
「映画?」
「ああ、『三角館の殺人』っていうんだけどさ」

 それまで、なんだか少女漫画にでもありがちな展開だ、などと考えていた私の思考回路が、一瞬止まった。危なく子機を取り落としそうになる。
『三角館の殺人』、そのタイトルには聞き覚えがある、というか、私の本棚の、上から三段目の右から五番目には、きちんとそのタイトルの背表紙がたっている。ついでに言えばそのすぐ上の段、左から二番目にも同じタイトルがある。前者はハードカバーで、後者は文庫版だ。ハードカバーと文庫との両方があるあたりで、私のこの作品への入れ込みようを察していただければと思う。まあ、ハードカバーのほうは、古本屋で半額以下だったのだが。

「『三角館の殺人』って、原作者、荒井遊歩になってる?」
「なってる」
「映画化なんてされてたんだ…」

 不覚にも私は、この作品が映画化されているなどということを知らなかった。
 本屋にはよく行くものの、そういった広告までは見ない。映画化ならば、文庫版は平積みになり、帯などを見ればきっと、「映画化決定!」のような文句が書かれていただろう。
 いくら私がこの手の情報に疎いからといって、これは迂闊だったとしか言いようがない。

「確か小林が今年の春の自己紹介で、この本を熱烈に薦めてたんだよな。それで俺、あの本読んでみたんだよ。そこにこの映画の話だろ? まだ見てないんなら小林は誘ってやらなきゃ嘘だよなーと思ってさ。」

 私は冴島のその言葉を、聞いているようで半分は聞き流していた。そのときもう既に、私の頭の中は、すっかり三角館へと飛んでいたのである。

 妖しげな三角形をした建物がさらに三つならんだ、そういう形をした三角館に、合宿所へ行く途中で迷い込んだ演劇部。屋敷の人間は青白い肌をしているものの、美形ぞろい。
 三角形のうちひとつはホールになっており、演劇部は好都合と言わんばかりに、そこで大会へ向けての練習を始めるのだが、脚本にない言葉がいつの間にかどんどん間にはさまり、演劇のストーリーは当初と全く違うものになってゆく。
 そんな中で連鎖的に殺人劇がおこりはじめる。それはまるで、変わってしまった劇の脚本のように……

「おい、小林遥? どうした? 頭でもおかしくしたか?」

 唐突に無言になった私を心配して、冴島が電話越しに声をかけた。

「だいじょぶだいじょぶ、ノープロブレム。今ちょっと精神的にハイになってるだけだから」
「……本当に大丈夫か?」
「本人が大丈夫って言ってるんだから、大丈夫に決まってるでしょ」
「まあそりゃあそうだけどなあ。…それで、明日は暇なのかな?」
「勿論!」

 私は受話器に飛びつくようにして言った。こんな機会、逃してしまうのはあまりにももったいない。
 映画は一人でも見に行けるけれど、やはり何人かで行ったほうが、後で感想を言い合えるのだから、そのほうがずっと楽しい。それに今回の場合、相手は冴島だ。私が見るよりもずっと面白い解釈をしてくれるに違いない。

「了解。じゃあ、明日、午後一時に、H駅の北口……あの像があるところでどうだ?」
「うん、私は何時でもいいよ。じゃ、明日の一時にH駅でいいのよね。わかった」
「おっけ。そんじゃ、明日な。」
「ん、バイバイ。」

 そう言うと私は、ちらちらと胸の前で手を振って、受話器を降ろした。テレビ電話でもないのだから向こうに見えるはずもないのだが、ついやってしまう。私の癖というやつだ。

 私はベッドの上の枕を抱きしめて、明日のことを考えた。
 映画館の大スクリーンのなかで、あの物語が繰り広げられるのだ。役者が誰なのか聞くのを忘れていた。薄幸の美少年、浅宮和葉の役は一体誰がやるのだろう。藤岡まゆりの役は。須藤瀬奈は。
 全てのエピソードを盛り込んでくれるのだろうか。
 とりあえず、茉莉と創一のエピソードは外してほしくない。
 次々に明日の映画のことが浮かんできて、これはもう、今日は興奮して眠れないかもしれない。枕を抱えてくすくすと笑いながら、私はそんな事を考えていた。



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