三角関数ロマンス
1.栞
ぼんやりとした夢の影。白いもやの中で、かわされている言葉。
「もう耐えられない」
「え?」
「わたしたちはもう、必要とされてないんだ。きみも、気づいてるはずだよ」
「……うん」
「ここにいても、なんにもならない。だったら」
「だったら?」
「ここから、逃げよう」
そしてふたりは手に手をとって、夢の中から逃げてゆく。ぼんやりのまま、声の主はゆらめいて、そして簡単にかき消える。 そんなふたりを見送るひとつの影。
とりのこされたその影は――……
「タンジェント?」
カズトがすっとんきょうな声を上げた。
「タンジェントって、あの三角関数の?」
「そうよ、そのタンジェント」
私だって、言っててなんだかバカみたいだと思う。けど、夢の中で一人たたずんでいたのは、確かにタンジェント(tan xのかたちだったけど)だった。
カズトは頭を抱えた。
「タンジェントがたたずむって、いったいどういう状態なんだよ……」
「だって、そういう風に見えたんだもの」
カズトは、文系の考える事はよくわからん、とでも言いたい風に肩をすくめてみせる。ずいぶんと挑戦的ね。
「しかしまあ、なんだってまた三角関数の夢なんか見たんだ?」
「わかんないわよ…数学とは縁が切れたと思ったのに」
うん、センター試験終わって、私なんてもうあとは英国やればいいだけだもの。苦手な数学なんてもうオサラバって思ってた。なのに、こんな夢。
カズトは氷たっぷりのアイス・コーヒーを、ストローでかきまわした。相変わらず乱暴な手つきだわ。
「夢に三角関数が出てくるってすごいよな。しかもタンジェントだろ? 出てくるとしたらサインかコサインだよな、フツー。」
「さいん…こさいん?」
何それ。私は首をひねる。カズトの話にわけのわからない単語が出てくるのはいつものことだけど。
「それ、何だっけ?」
ほとんど気の無い感じでたずねてみると、あ、今のカズトの表情、愕然ってのがぴったりかも。
「うっそ、まさか覚えてないの? ぜんぜん?」
「覚えてないっていうか。それ、何の話?」
「三角関数だよ、名前聞いたことも無い? 忘れちまったの? センター終わったからってそりゃあ無いだろうよ。まだ一週間たってないんだぜ?」
すごい早口でまくし立てる。慌ててるのがよくわかるわ。でも。
「そんなに、だいじな事だっけ?」
「……っていうか、サインコサイン忘れてタンジェントだけ覚えてるって、まじめに有り得ないとおれは思う」
サイン、コサイン。何度口の中で転がしてみても覚えが無い。サイン、コサイン……だけど、ふと思い当たった。
「もしかして、夢の中で逃げ出したふたりって、そのふたりかもしんない」
「サインとコサイン?」
「うん。必要とされて無いから、逃げるって」
確かに、三角関数なんて普通にしてたら使わないもの。センター終わったし。そりゃあ必要ないっちゃ、必要ない。なるほどね。
「じゃあ何でタンジェントが残るんだよ。サインとコサインがあれば、タンジェント無くてもどうにかなること結構あるのにさ」
「わかんない、わよ」
そもそも、カズトの言い分自体がわからない。サイン、もコサイン、も私の中から、するりと逃げてしまったんだから。
「しっかし、sinとcosが手に手を取り合って、か。cosinって感じかな。でもそれじゃ発音がcosineだなあ。それとも直角三角形の斜辺がつないだ手を表すのか……」
カズトは紙ナプキンに何か図形みたいなのを描き始めた。もう、受験生の少ない時間を使ってのデートなのにさ。こうなってしまうと、私の手には負えない。
私はオレンジ・ジュースの残りを一気にすすった。
それからしばらくの間、私の毎日は英単語帳の中で過ぎていった。とてもとても平穏無事に。
三角関数が逃げていっても、私のまわりの物理法則が成り立たなくなったわけでもなかったし、困ることなんて何も無かった。
そんな、ある日のこと。
私は勉強中に寝入ってしまったのだろう。うたたねの、白い背景の中に、いつしか私のあまりきれいではない英字が飛び交っていた。
自己主張の少ない英単語に埋もれながら、私は白の中を泳いでいた。
その中に、たまたま見つけてしまったのだ。ひとりぼっちになったtangentを。
「やあ」
タンジェントは、ふいと姿を変えて、tan xのかたちになると、そばにいたtalentから離れて、こちらに歩いてきた。
ちょっと、このひと、三角関数のくせにフレンドリーすぎない? あ、ひとじゃないか。
「こんにちは」
「こんにちは……」
答えた私の声は、いかにも戸惑いだらけといった感じがした。当たり前だ。さすがに、三角関数なんてものと話すのは初めてだもの。
「サインもコサインも行っちゃったからね。今はここにいさせてもらってるよ」
「やっぱり、あのとき逃げてったのって、サインとコサインだったんだ」
「そう。君があんまり三角関数を邪険にするから。もっと自分たちを活用してくれる人のとこに行きたい、ってさ」
「……」
あやまったほうがいいのかな、としばし逡巡。けど、あやまったところで、この先三角関数を大切にしてあげられるとも思えない。
タンジェントは、わかってるよ、とでも言いたげにうなずいた。
ごめんなさい。しぜんと、唇がうごいた。声にはならなかったけど。
「あの、聞きたいことがあるの」
瞬間、私はなんだか胸が苦しくなってしまった。一度言葉を切って、呼吸を落ち着かせた。
「あのね、どうしてタンジェントは、ここに残ったの? サインやコサインと一緒に行かなかったの?」
私が見つめると、タンジェントはちょっぴり笑った、気がした。
「加法定理、覚えてない?」
タンジェントがそう言うと、白いもやの中に突然、数式が浮かび上がった。
「あ、これ……」
とても見覚えのある、というか聞き覚えのある式。
「『いちマイナスのタンタン分のタンプラスタン』、だよね?」
「そう。君、コレ初めて知ったとき、可愛いって言ってくれただろう?」
確かに言った覚えがある。リズムよくってカワイイじゃないのって。
タンタン言ってたら、カズトには苦笑されたけども。
うん、思い出した。
「tangentってさ、英語じゃ本筋とはずれたって意味もあるんだ」
知ってる。私の英単語帳には、tangentってその意味で載ってるもの。
「まあ、三角関数の中じゃハズレものって言ってもいいんだよな。グラフの形とかぜんぜん違って、無限大とか出てきちゃうし。サインとコサイン使えば、タンジェントなくてもどうにかなることあるし……」
このひと、カズトとおんなじこと言ってる。いや、意味はよくわからないんだけどね。
「……だからさ、可愛いなんていわれたのも、はじめてだったしさ」
私は思わず笑ってしまった。ちょっと、これって耳まで真っ赤になってるってヤツじゃないの?
「笑うなよ」
「ごめんなさい。でも、ほんとにそんな理由で、私のところに残ってくれたの?」
「……うれしかったんだよ」
ぶっきらぼうに言う姿も、なんとなくカズトに似てる。
ヘンな感じだ。どこか、くすぐられてるみたいな。
何よ、加法定理だけじゃなくって、タンジェント、あなた普通にしててもカワイイんじゃない。
サインとコサインが、私のところに戻ってきてくれるかどうかはわからない。正直、自信ない。けれど、タンジェント、もう失いたくない。
夢の中、すべてが浅い眠りの中。まぶたの奥でちらつく影。
だけど、その決意だけは強く残る。
忘れない、絶対。忘れないよ、タンジェント。
「今度ね、三角関数を一から教えてほしいのよ」
私の言葉に、カズトはめんくらった。
センター前、数学とは縁を切りたいってさんざん愚痴ってたのに? カズトのツッコミが、表情から伝わってくる。
私とカズト、お互いに進学先を決めてから初めてのデート。
「何かあった?」
「ちょっとね」
私の含み笑いはどうやら上手くいかなかったらしい。カズトはますます何があったのか知りたくなった様子で、根負けした私は、とうとうタンジェントとの会話を話してしまった。
カズトは絶対笑うだろうと思った。あんまりにばかばかしい話なんだもの。
だけど、カズトは笑わなかった。ただ、冗談めかして言った。
「そのうち、おれんとこからも清少納言あたり逃げ出すかもなあ」
「……かも、ね」
カズトは顔をしかめながらレモンティーをすする。あんなにレモン絞らなければいいのに、すっぱい顔、だけど、この味が好きなんだって言って譲らない。
私は、意地悪な質問を思いついた。
「あのさ、突然なんだけど、ソクラテスって知ってる?」
「は? 何ソレ……新しいコンピュータの名前?」
どうやら、倫理の試験を終えた彼からは、哲学者たちが逃走をはじめているらしい。
2.カズト
栞がヘンなことを言い出した。
どうやら、夢を見たらしい。
栞のところから、サインとコサインが逃げ出したんだそうだ。それで、タンジェントだけが栞のところに残ったらしい。
「……そう、それでね、私が可愛いって言ったら、タンジェント、笑ってくれたのよ」
おれにはぜんぜんわからない話だった。タンジェントが可愛い、ってのとか、タンジェントが笑う、だとか。あまつさえ、タンジェントが耳まで真っ赤。ぜんぜんわからない。というか、むしろわかったらすごい。おれは、栞の感性についていけない(その分、栞はおれの論理についてこれないらしい)。
そのへんはまあ、そういうもんだってことでお互い納得してるわけなんだが、こういうことがあると、二人の差異をとても実感してしまう。
とはいえ、栞が真剣に言っているのは、よくわかった。
そういえば、昔、加法定理をやった直後、栞に言われたことがある。
「えー、だって、いちマイナスタンタン分のタンプラスタンだよ? やっぱり可愛いじゃない」
栞は、何度も繰り返した。やっぱりよくわからない。さすが女子高生だ。可愛いって言葉の使い方は、どうやってもかなわない。
いちマイナスタンタン分のタンプラスタン。いちマイナスタンタン分のタンプラスタン。
栞が言うと、どっちかっていえば呪文みたいに聞こえて、おかしな感じだった。
一応、証明もできる定理だったりするんだが。
タンジェントの加法定理を可愛いって言うなら、サインやコサインの加法定理だって、可愛い覚え方じゃなかろうかとおれは思う。
佐伯先生が言ってた(あ、おっしゃられてた、だな)。サインの加法定理はサエキ・コイシイ・コイシイ・サエキだってさ。いまだに耳に残ってる。
コイシイ・コイシイ・サエキ・サエキ。こっちはコサイン。
隣の席だった相原が、にやけた顔で言ってきたのも覚えている。
「お前の場合は『恋しい栞』でいけるんじゃね? 『栞、恋しい、恋しい栞』ってさ。言ってやったらよろこぶと思うよ」
甘いな相原。栞と数学ほど天と地を隔てるものは無い。そんな口説き方したら、耳をふさぐに決まってる。
そう言ったら、相原はあきれた顔をした。
「もうちょっと照れるなりなんなりしてくれないと面白くない」
「今さら照れるも何もないだろ」
「……このどあほ」
足を蹴られた。痛覚の度合いから推測すると、たぶん本気だった。
何の話だったっけ。そうだ、栞の話だった。
栞はそのくらい数学が嫌いだ。嫌いだった。その栞が、なんだってまた三角関数の夢なぞ見たのか、それがよくわからない。三角関数を連想させるような何かがあったのか。
そんなの、夢判断の本を見たって載ってるはずも無い(確かめてないあたりが科学的態度じゃないが)。
何がきっかけにせよ、栞が数学をやり直し始めたのは、少し嬉しい。やっぱり彼女には、自分のやってることをわかっておいてもらいたいものらしい。そうだな、せめて行列とベクトルの関係くらいは知っておいてほしいよな。
まあ、家庭教師先の中学生よりもデキが悪いのには、ちょっと困るんだが。
そんなある日のこと。
その日は試験三日前で、わりとせっぱつまっていた。さすがのおれも試験前くらいは勉強するんだが、やってもやっても範囲が終わりそうに無い。期末考査もあなどれない。
サインを微分。コサインになる。また微分。今度は代入。今度はコサインの積分。
めまぐるしく入れ替わるサインとコサインに、すこしばかり眩暈を覚えた。同じ漢字を何度も書き続けたときのような、かすかな違和感を感じる。
その瞬間。自分の書いたsinの文字が、への字にゆがんだような気がした。
おれはぱちぱちと瞬きをするが、sinはゆがみっぱなしだ。
iがノートを上下に移動する。sとnに輪ゴムで固定されてるみたいに。Iにペンでもついてれば、立派なグラフが書けそうだ。それこそ振動の方程式、見事にサインカーブ。
これって目の錯覚? などと言っている間に、cosにまで被害がおよぶ。ああ、お前まで振動したら、干渉して計算がめんどうになるだろうが。
logもeも∫も、他のヤツらはみんな無事なのに。なんだってまた三角関数だけあばれてるんだ。すげえよ、こんな錯覚ってはじめてかも。
ふうっと気が遠くなる。もしかしてこれ、普通に疲れてんじゃない。
おれは、ノートに向かって倒れこむ。
その時、おれは見た。sinとcosの文字がほどけて、きれいなカーブを描くのを。
栞が言ってた三角関数が笑うって、これのことかもしれないな、真っ白くなりかけた頭で考える。
ひょっとして、おれって、彼女に影響うけすぎ?
サインもコサインも、それっきり笑うことは無かった。
けれど、それ以来、おれは三角関数を見るたびに、一瞬考えてしまう。こいつはもしかして、栞のとこから逃げてきたヤツじゃないかと。
有り得ないことだとは思う。けれど、つい考えてしまう。
もしも、もしも、万に一つだ。いや、十の二十乗くらいに一つかもしれない。もしもお前が、逃げてきたサインコサインだったなら、どうか栞のところに帰ってやってくれないか。
おれらしくもない。
こんなこと考えてるなんて知ったら、栞は笑うだろうか。
3.相原
有り体に言えば、その時ぼくは、スランプに陥っていたわけであります。
もともと、ぼくは絵を描くことが好きでした。物心もつかぬうちから、クレヨンを握って何か描いている子供だった、と周りの大人たちは言います。
ええ、確かに、ぼくにはいつから絵を描き始めたのか、その記憶がありません。ただ、気がつくといつも筆を握っていた、それは事実です。外に出て行くと、道端に何時間も座り込んで、一心不乱にスケッチをしていたといいます。
そういえば、友達には何度も、似顔絵を描いて、と頼まれていましたが、その度に、
「にがおえはかけないや」
といって断っていました。ひとの顔というのは、単純なようでいてとても複雑で、好きではなかったのであります。
ぼくが好きだったのは、植物の絵です。カタバミ、スギナ、ドクダミ、ニワゼキショウ、身近に咲いていた花は、なんでもスケッチブックに写し取りました。とくに、アサガオを描くのが好きで、毎年毎年、鉢をうめつくすように伸びた蔓は、ぼくのスケッチブックをうめてゆきました。画用紙に咲く花は、ふえてゆきました。
ぼくは、中学校にあがる前から、美大をめざすことを決めていました。放課後はひたすらキャンバスに向かい、授業はばくぜんと聞き流すだけ、そんな日々が続いておりました。
しかし、そんなぼくに、ひとつの転換点がおとずれました。それも、まったく突然、予想もしない方向から。
その日は、実によく晴れた日でありまして、窓際の席だったぼくは、日差しのまぶしさに、うとうとすることすらできなかったのです。ぼそぼそとした先生の声は、耳を通り抜けて、そのまま消えていきます。
生物の授業でした。ぼくはとりとめもなく、教科書のページをもてあそんでいました。オオカナダモの光合成実験に、プランクトンの観察、タマネギの細胞……教科書の絵は好きでした。生物の体というのは、やはりきれいなものです。単純なものも、複雑なものも、それなりの調和をもっています。けれど、何か、何かまだ足りない、そんな気がしてなりませんでした。
そのときです、先生が大きなポスターを広げ、黒板にはりだしました。
胸が高鳴るのがわかりました。
それは、どうしようもなく、うつくしい図形だったのです。
二本の蔦が、手をつなぎ、からみあって上っていくような、そんな図でした。
ぼくの中で、何かがかしゃん、と音をたて、つながったような気がしました。
頭がぐるぐるとまわりました。酒をしこたま飲んだときの感覚に似ています。
「あー、これがDNAの模式図なわけだな。らせんが二つの、二重らせん構造をしているわけだ。このDNAが示す情報を読み取って、タンパク質がつくられるんだが……」
先生の声なんて、ほとんど聞こえませんでした。けれど、酔っ払いの頭にも、DNAの三文字は、はっきり刻み付けられました。ぼくの脳みその、奥の奥のほうまで、刻み込まれました。
それ以来、ぼくは生物の授業を、まじめに聞くようになりました。あの、DNAという図形のことを、もっと知りたくなったのです。
生き物の体はうつくしい。けれど、体の中にも、うつくしい構造はたくさんありました。コラーゲンやヘモグロビン、各種の酵素……。
しかしそれでも、いちばんうつくしいと思ったのはDNAでした。
ぼくは思います。このうつくしさだけが、生命が生命たりえる理由なのだと。
しばらくして、カズトに言われるようになりました。
「へえ、相原って抽象画も描くようになったんだ。植物野郎だと思ってた」
「んー、抽象画っていうのかねえ」
ぼくとしては、実物を描いているつもりなのです。ぼくの中に存在する、いのちの要素を、ありのままに描いているつもりなのです。
生物のなかみ、息づくミクロをそのまま描きたい。それが、ぼくのテーマになりました。
けれど、いつからだったでしょう、ぼくは、自分の絵にあきたらなくなっていったのです。
足りないのです。何かが。
何が足りないのかだなんて、まるで見当もつきません。ただ、何かが足りない、そのことだけは、痛いほどにわかってしまうのです。DNAの、タンパク質の、単純な模式図のほうが、ぼくの絵などよりもずっと、本質をついているのです。ぼくの絵は、それほどにうつくしくはない。あの感覚を描くのには、まだ、なにかが足りない。そう、思ったのです。
描きあがった絵を見ては、ぼくはため息をつきます。気に入らない絵をナイフで切り裂くわけでもなく、ただ、ため息をつきます。首をふります。こんなのじゃない、ぼくのらせんは、こんなものじゃない。
理想のらせん。
ぼくが追い求めたのは、それでした。身体を作るらせんを超えるほどの、完全な形、どこにあるかもわからない、究極のらせんです。
ちらりと、カズトにも話したことがあります。けれど、
「究極、とかって抽象的過ぎてわかりにくいんだけど」
と、まあ実にカズトらしい答えが返ってきました。カズトのことですから、究極はわからなくとも、極限ならわかるのでしょう。けれど、ぼくは極限のらせんなど、とくに求めているわけではありませんでした。
ぼくにできることといえば、地道にらせんを探すことしかありませんでした。
教室の窓から見える階段、貝殻のうずまき、電話のコード。ありとあらゆるらせんが目にとまります。
どれもこれも、それなりの調和をもっています。らせんという形は、それだけで、ある種のうつくしさを持つのでしょう。けれど、ぼくが求めているものには、やはりもうひとつ足りないのです。
そんなある日、学食でカズトにでくわしました。
「栞とは相変わらずラブラブしてんの?」
「ラブラブって言われてもなあ。ラブラブってなに? 定義は?」
「いや、ぼくに聞かれてもこまるっつの」
「まあ、そうだな」
こんな会話も久方ぶりです。ぼくは、カズトがまるで変わっていないことに驚き、また、喜びました。
「あ、そうそう、栞の話なんだけどさ」
何気なく、カズトは話し始めました。それは、カズトにとっては、まったくの世間話だったのでしょうが、ぼくにとっては。
「……その話、もう少し詳しく」
もう少しで、何かがつかめそうな、そんな気がしました。カズトの話を聞いている間、ぼくの目の裏には、ずっと、からみあう二本のらせんが描かれていたのですから。
4.ふたたび、栞
カフェオレ色のワンピースに、オフホワイトのパンツ。リップの色もファンデのノリもオーケー。チョーカーはローズ・クォーツが映える。ああ、ラブ・リングを忘れずにね。
やけにカタカナの多い最終チェックをすませると、私は家を飛び出す。雨上がりの朝、待ち合わせの時刻まではずいぶんあるけど、こんな日は家でぐずぐずしていたくない。
なんて、少女小説風のモノローグを組み立ててみる。身体は駅にむかって歩いているけれど、脳みそはとっても暇なんだもの。
カズトはこんな時、数列を唱えるんだと言っていた。頭の中でひたすら数列を計算していくんだって。どこかで、気持ちを落ち着かせるために「フィボナッチ数列」とやらを唱える少年の話を読んだことがあるけれど、そんな人が実際にいるだなんて思わなかった。まあ、いいけどね。
ともかく今日は、久しぶりのデートだ。同じクラスだった相原君が、美術サークルの展示会に招待してくれたらしい。なんでも、特に私に見てほしいんだって言って、チケットをくれたとか。
相原君はカズトと仲がよかったのだけれど、私とはあまり話したことがなかったから、とても意外だった。何かこの話には裏があるんじゃないかと、余計な想像力を働かせてしまったくらいには。
学内のギャラリーは、それほど混んでいることもなく、ゆっくり見て回れそうだった。私はあたりを見回すと、
「今日、相原君はきてないの?」
「この時間、あいつから指定されたんだけど。逃げたか」
相原君の気持ちもわかる気がする。直接感想を言われるのって、やっぱりちょっと恥ずかしい。相手がカズトじゃなおさらだ。
私はカズトのあとについて、ギャラリー内を巡廻する。
「あ、これが相原の絵だな」
カズトが足を止めた。そのとき、私は自分の目が、その絵に引き寄せられるのを感じた。
「こんなとこにいたんだ……」
「は?」
それは、二本の曲線が絡み合う絵だった。よりそうように、求めるように。
そう、それは。
「私、思い出しちゃったみたい。サインとコサイン」
私のセリフを聞いて、カズトがぽかんと口を開けた。あ、今の表情、傑作だったかも。今世紀最大のヒットだわ。
「なんだかよくわかんないけど、あたしのサインとコサイン、相原君とこにいたみたいなのよ。これ、あたしのとこから、いなくなった二人の絵、だわ」
カズトがまじまじと、私を見つめた。私はもう一度、絵の方を向いた。
それはやっぱり、サインとコサインの絵だった。
「そっか、やつら、幸せにしてんだな」
それがカズトの声だったのか、それともタンジェントの声だったのか、私にはわからなかった。
FIN.
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