*一片の夢*



 桐葉の隣で昴は、一冊の分厚い本を読んでいた。
うすら汚れた赤い絹張りの表紙が、その本の歴史を表しているようだ。ずっと昔から、桐葉と昴の意識が芽生える、それよりもずっと昔からそこにあったのであろう本である。

 昴は同じページを、繰り返し読んでいる様だった。丸い瞳が上下に動いて、そこにあるだろう活字を追っている。

 さっきから、昴はわき目も振らずにあの本を読んでいる。
桐葉は思った。
ぼくが話し掛けても、何の反応もしない。同じ場所の活字だけを、ただずっと追っている。
そう考えてしまうと、桐葉はなんとなく悔しくなった。自分の方を見てくれない昴。いつもならそんな事は無いのに。

 桐葉が何か言おうとするだけで、昴はそれがなんなのかを理解する事が出来た。逆に桐葉の方も、昴の言葉を口に出される前に、なんとなく知ることが出来た。そう、いつもならば。
しかし今日は、昴の考えている事が、何一つわからない。
こんなにもどかしいのは、初めてだった。

「ねえ、昴。」

桐葉は、今日すでに何度目かになった言葉をかける。
しかしやはり、昴は身動き一つしない。ただ、瞳だけが本の表面を滑っているだけである。

「昴、聞こえてないの?」

昴は何も言わない。桐葉はもういいかげんにあきれてしまって、そっぽを向いて言った。

「ぼくの事なんて、どうでも良いんだね。」

わざと拗ねてみたのだ。それでも、昴は無反応だった。本当に、聞こえていないのかもしれない。


「昴?昴ってば、ぼくの声聞こえてる?」

 全く唐突に、桐葉は、昔昴から聞いた物語を思い出した。
本に魅入られてしまった少年の物語である。

古い書庫に迷い込んだ少年は、一冊の本を見つけて、その虜になる。
何度も何度も同じ本ばかり読むのだが、その間、他の人間の声は、少年に聞こえていない。
少年は本を読むうちに、同じ箇所ばかりを繰り返し読むようになってゆく。
やがてその箇所は狭まってゆき、一文だけを目で追うようになる。
そして、その繰り返しの中で少年の身体はぼやけてゆき、そのうちに消えてしまう。
発見された本の、折り癖のついた、一番よく読まれていたページには、本を読む少年の姿がすっかり写し取られていた。


 その話を聞いたときに、桐葉は思わず震えてしまったのを覚えている。
昴の話し方が、あまりにも真に迫っていたのと、自分も同じような書庫を訪ねたことがあったからだ。
昴はあの時、「冗談だよ。」といって笑ったが、その話は桐葉の脳裏に深く刻みついていた。


 今の昴の状態は、まるっきり先の物語の少年と酷似していた。
わき目も振らずに本を読み、同じ箇所ばかりを目で追う少年、その姿がだんだんとうすらぼやけてゆく。

そういえば、あの少年の読んでいた本も、赤い絹張りの本ではなかったか。
桐葉は震えた。昴が本の中に閉じ込められてしまうだなどとは、考えるのも嫌だった。


「昴、昴っ!」

桐葉はもう耐えられずに、昴に駆け寄って、肩をつかんで揺さぶった。少しでも昴を、自分のいる世界へと引き戻す事ができるように。
昴はそれに気がつくと、桐葉の手に優しく触れた。

「一体どうしたんだい、桐葉。そんなに慌てて。」
「昴、駄目だよ。いっちゃ駄目だよ。ぼくの前から消えちゃ駄目だよ。」
「?」

昴は何が何だかわからないといった表情で、取り乱している桐葉を見つめた。桐葉は昴の持っている本を指差して、叫んだ。

「その本だよ!その本を読んでいるうちに、昴も本の中に閉じ込められてしまうんでしょう?そんなの、ぼくは嫌だ!」

その言葉を聞くと、昴は突然笑い出した。桐葉はきょとん、とする。

「何、笑ってるの?」

「いや…あんなに昔に話した物語を、よくもまあ覚えててくれたんだなってね。」

そう言うと、昴は桐葉の頭を撫でた。
やわらかい髪の毛が、昴の手によってかき回される。あたたかい体温が、桐葉の頭に伝わってくる。
しかし、桐葉はなんとなく釈然としなかった。桐葉が口を尖らせていると、昴はまた笑った。

「残念ながら、逆だよ、桐葉。僕があの本を読まなくなったときこそ、君は心配しなくちゃいけない。」
「…どうして?ぼくの話、何にも聞いてくれなかったくせに。」
「僕がこの本を閉じたときに、何もかもが終わってしまうからさ。」

桐葉は首をかしげる。
昴は時々、桐葉には難しすぎる事を、平気で口に出す。今度もまたそれだろうか、と桐葉は思った。

「ねえ、桐葉、夢はいつか、必ず終わるんだよ。終わらない夢なんて、それは夢じゃない。」
「終わらない夢なら、それは現実になるんじゃないのかなあ?覚めない夢なんて、現実と区別がつかないよ。」
「いいや、桐葉、それは違うんだ。終わらない夢はだんだん歪んでいって、そして悪夢になるんだよ。それが夢の宿命。」
「よく、わかんないや。」

桐葉は言った。


「そうかい?これが桐葉の見ている夢ならば、…例えば、そこに何でもないように置かれている花瓶が、突然形を崩し、そしてドロドロに溶けてしまう。その花瓶に生けてある可愛らしい花たちでも、狂ったように君を襲ってくる。
 例えば、この僕。一番身近にいたと思ったものが、最もあっさりと悪夢への変化を遂げる。ほら、今にも君の首をしめようと僕は手を伸ばす。そうせざるを得ないんだ。僕はもうすっかり悪夢の使いに成り果ててしまったのだから。ねえ、桐葉。」

昴はそう言うと、桐葉の細い首へと手を伸ばす。しかし桐葉は、昴の手はあたたかいと感じた。

「…怖い?」

くすり、と笑う昴。
桐葉は昴の眼にもうすっかりとらわれてしまっていて、何にも言う事が出来なかった。昴の瞳の中には、呆然とする桐葉自身が映っている。
 その時の桐葉は、何だかとてもおかしな気分になっていた。
昴にこうされていることは、あまりにも当たり前の事であるような、そんな不思議な感覚があった。
と、昴が突然、首から手を離した。

「冗談だよ。」

桐葉は自由になった喉元を撫でた。
そして、愉快そうに笑う昴に向かって、少しばかり憮然として言った。

「…それが、その本と何か関係あるの?」
「君が夢をみていたいのなら、それなら、君は何よりも、この本が閉じられるのを、恐れなくちゃいけない。この本が閉じてしまうときこそ、君の夢の終わるときだ。」
「僕の夢って、昴、何のことなのかわからないよ。」

とくん、言いながら、桐葉の心臓が小さくはねた。
昴の言葉の意味はわからないけれども、何故だか心の奥に反応するものがある。
とくん。

「この夢は、今、君の意識の表層に浮かぼうとしている。
海の底で発生した泡が、どんどんと水面に向かって上昇してゆき、一つ一つの泡が、道をそれながらも、まっすぐに海面へと向かっていき、そして海面で膨らんで、やがてぱちんと弾ける。弾ける前の泡は、最後の抵抗を試みるのだけれども、それはかなわない。無情にも泡は、何にも無かったかのように、ぱちんと弾けてしまう。
そして海の上には、いつもと同じように、小さな小さな波だけがたっている。普段の海と全く変わらないまま、そんなちっぽけな泡が存在していた事すら忘れてしまうようにして。」

ぱちん、その音は桐葉の耳に、何だかとても残酷な音に聞こえた。

「君はまだ、眠りにしがみついている、布団を放そうとしない小さな子供。だけど、それももうすぐ終わりだ。君は、もう目覚めなくちゃならない。残された時間は後わずか。それを超えたら、そうだね、それこそこの世界は悪夢になってしまうよ。それなら、桐葉は何がしたい?」
「それなら、ぼくは…。」

桐葉はしばらく考えると、昴の手を取った。
先程感じたあたたかさが、再び桐葉の手を走る。昴は、確かにここにいる。その事がありありと伝わってくる。

「それならぼくは、ここにいるよ。君がいる場所にぼくもいる。この夢が終わってしまうときまでずっと、ぼくはここにいるんだ。」

昴は目を見開くと、やがて表情を崩した。
それは、心の底からの笑みだった。つられて、桐葉も笑顔になる。

「桐葉がそう思ってくれているのなら、それならもうこの本を閉じようか。」
「え?」
「もう、ここが夢である必要なんて無いんだ。夢の中じゃなくても、僕はここにいる。君の隣にいる。それだけ忘れてしまわなければ、多分大丈夫だ。この世界はあんな、無力な泡にはならない。」

桐葉はよくわからなかったが、とりあえず、昴を忘れてしまう事など、考えることも出来なかった。それだけは、断言できた。

「昴が、ここにいてくれるんなら、ぼくはそれで良いよ。」

桐葉の、正直な気持ちだった。
この夢が終わってしまっても、昴がここにいてくれるというのなら、なんの不満も無い。

「じゃあ、本を閉じるよ。これが終わらない悪夢になってしまわないうちに。まだ、甘い幸せな夢であるうちに。」

昴が本に手をかけた。桐葉は、それに手を添える。
そこで初めて、桐葉は本の中身を見た。そこには何も書かれてはいなかった。

全くの白紙―――ゼロ。


「だけど、何か書いてあるだろう?」

昴が、桐葉の考えを読んだように言う。確かに、桐葉はそこに一つの物語を読み取る事が出来た。
それはまさしく、昴と桐葉自身のものがたりだった。幸せな、甘い、夢物語だった。


「物語は終わる、夢のようにかき消える。だけど、それでも僕はここにいるから。」


二人は頷きあい、そして本を閉じてゆく。長かった夢の時間の終わり。
それでも桐葉は、満足だった。
昴が、ここにいてくれたから。だから、本を閉じようとしている今も、桐葉は何も怖くはなかった。


 ぱたん。

 桐葉は目を開けた。
あたたかい布団の中。枕元には、眠りにつく前に読んでいた一冊の本。そして、その隣には昴がいる。


「おはよう。ずいぶんと遅い目覚めだね。」


その声を聞き、桐葉はにっこりと笑った。



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