*ディア・マイ・エンジェル*



「私、きっと、恋に落ちたわ」

と、彼女は言った。
相手は誰なの?とは聞かなかった。
聞かなくても、ぼくにはわかっていたからだ。
彼女の視線が、このところずっと、ある人物を追っていること。
途方もない片思いを、彼女はしている。

「あの人が救われることは、本当に無いものかしら」

彼女は言った。
それが愚問であることくらい、彼女にだってわかっていたはずだ。
彼女は、彼が救われないがゆえに、彼のことを愛してしまったのだから。
そうでなければ、他に、彼女がひとを愛する理由などない。

「私は、彼の最期を見ていないの」
彼女は続ける。
「私には、多分、まだその資格がないんだわ」
それこそ自嘲的に、彼女は続ける。
「ねえ、どうして恋というものは、こんなにも痛みをともなうのかしらね。
 あの人を知るたびに痛みを感じるというのは、
 いとおしいということと同義なのかしら」

ぼくは否定できない。
ぼくにはまだ、その資格がないからだ。

「私が、私があの人に、
 とてつもない幻想を抱いていることくらい、知ってるのよ。
 あの人を傷つけた、みんなと同じやり方で、私は彼をみている。
 その視線は、彼を苦しめるものでしかないわけでしょう。
 知っているの。でも。
 ねぇ。愛してるって、こんなことだったかしら。
 恋って、こんなものだったかしら」

反応は、ない。

「ああ、私が、私がどれほど。どれほど、あの人を愛しているのか。
 そんなの、はかれるはずも、ないんだわ」

彼女は言う。
そうだ、そのとおりだ。次元が違うのだ。
思い人は、はるか彼方の地平にいて、彼女は彼のことを、空から見下ろしている。
次元が、違うのだ。
その思いがどれほどに深かったとしても、
彼らの世界に深さという単位は存在しない。
だから、その重さをはかることなんてできない。

次元が、違うのだ。
存在様式だって違う。
雲のやわらかさに包まれた彼女の足は、ごつごつの地べたは歩けない。

「あの人と、同じ地平に立てるなら」

けれど、彼女はそう言って、背中に手をやり。
架空の翼をひきちぎるふりをする。
もしもその翼が、実際にあったなら、彼女はそれをずたずたに引き裂き、
迷わずに、彼の地平へと降りたのだろう。
彼女のいる場所からでこそ、その地平は、手のひらにのるほどに見えるけれど、
翼を無くした彼女が行きつく先は、はてしなく広がる大地の上だ。
彼のすがたは人ごみにまぎれ、押しつぶされ、きえはてて。
彼を失った大地の上だ。

それでも彼女は。
ぼくは確信している。
彼女は、彼を亡くした地の上に立ち、
貧弱なその足で、しっかと大地を踏みしめて。
そして、その上で泣くだろう。
その涙は、彼女の頬をすべりおち、いつか、かの土にしみわたり、
彼のむくろへと届くだろう。
そのためにこそ、彼女は彼と同じ地平まで、おちてゆこうとするだろう。

ぼくは、彼女をそんな風に規定している。

彼女は、彼のもとへゆきたいと願い、けれど、それをする術をもたない。
ぼくは、彼女をそんな風に規定する。

「愛してる。愛してる。愛しているわ。
 けれど、こんな言葉、何の役にも立たないのね」

けれど。けれども、だ。

「あいしてる、あいしてるのよ」

その思いが届かない。それだけでなく。
彼女はまた、知っている。
その言葉が、彼を救うものではないのだと。
自覚して、なおかつ愛していた。彼を。

せめて、彼女の思いが、彼へと届くなら、次元をこえて、届くのなら。
それで、彼がどれほど苦しんだとしても、彼女はやすらかな顔をうかべ、そして、その呼吸をとめるだろう。
けれど、それは不可能な望みだと、そう規定したのは、ぼくだ。

「愛してるわ。愛してる。
 あいしている……。ああ、その言葉の意味は、こんなにも救われないものだったかしら。」

彼女はそうひとりごち。
けれど、だからこそ、彼女は彼を愛した。


“ねえ、私は狂っているのかしら?”

その言葉だけ、その言葉だけは、ぼくは彼女に言わせることができなかった。
それは、彼女のせりふではなく、ぼくがいうべき言葉だった。
ああ、ぼくが。
ぼくがいますぐ、彼女のもとへ舞いあがり、彼の地平を飛び越えて。
彼女を抱きしめることができたなら。
できたなら、この世界は今にも終わりを告げ、
彼女も彼も、空も地平も何もかも消え、ぼくだけしかのこらないのに。

ぼくがどれほど、彼女を愛していたか。
はかることなんて、できやしないのだ。
次元が、違うのだ。
ぼくは彼女をだきしめるような腕をもたないし、唯一あるのはこの口だけだ。
彼女を語るためのこの口だけだ。

「あの人のことを、愛しているのよ」

なのに、この口からは、絶望のうめきしか出てこないのだ。
ぼくは、ぼくは、彼女を救える唯一の方法を知っているはずで、実行したいと思っていて、なのに、この口は語ることをやめない。

……そんなふうに、ぼくを規定したのは、だれだ?








わたしよ、と、だれかが言った。



FIN.     




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