ブルーム・デイズ Bloom Days



 今日もカナは、花を食べている。

 校門のところで私を見つけたカナは、白っぽい花びらを唇の端にくわえていた。そのまま器用に、
「ハロー」
 右手振りまわしたいつもの挨拶で、私のところまで駆けてくる。革の学生カバンが乱暴な音を立てている。
「はろはろ」
 左手でちいさく返して、ようやくわかる。唇の花のかたち、これは桜だ。
 けれど、花びらはもう二枚しか残っていない。うすピンクの目の前にわしゃわしゃと雄しべ。

「今日は桜だね」
「ソメイヨシノだよ。そろそろ散りかけだけど」
 カナは得意げに、ポケットから葉っぱを取り出してみせた。やわらかい葉はポケットの中でもまれたせいか、端っこのギザギザがまるまっている。
「あとちょっとでみんなこうなっちゃうから。よく味わっておかないと」
 そう言った唇から、真っ赤な舌先がちらりと、花びらをすくいとった。そのままじっくりとかみしめて、カナは満足そうに笑う。笑顔の向こうで、桜並木が花びらの残りと葉を、ざわざわ打ち鳴らしている。



 カナはいつも花ばかり食べている。
 同じ植物でも、もっと食べやすそうな実や葉っぱには興味がないらしく、食べようとしているところは見たことがない。それどころか私は、カナが花以外の、ふつうの食べ物を口にするのすら見た覚えがない。

 昼休みにも、カナは私がお弁当をつつくのを、にこにこ見ているだけだ。
「いらないの?」と聞いても、「お腹すいてないからさ」としか帰ってこないので、最近は何も言わないことにしている。私だけがひたすら口をもぐもぐさせている、平和な昼休み。
 花だけしか食べない、なんていうことはもちろんないのだろうけれど、カナを見ていると、ひょっとしたら、彼女は花だけでも生きていけるのかもしれないと思うことがある。

 私が出会った時にはもう、カナはこの奇妙な食事スタイルを完成させていた。
 スミレにレンギョウ、ハナミズキ、私が名前を聞いたことがあるような花は、すべて食べてみたことがあるらしく、味の違いを細かく説明してくれた。ナズナ、タンポポ、ニワゼキショウ。いくらでも名前が飛び出す、花びらに染められた唇。

「ほら、小学生の頃、ツツジの花くわえて、蜜吸ったりしたじゃない。そうオオムラサキね。あれ、ためしにそのままかじってみたら、ちょっとおいしかったんだよね。あまいような、すっぱいような」
どうして花なんて食べるの。聞いてみたら話してくれた。確か五月の空の下、カタバミの花をくわえながら。カナのつんと尖った口から、黄色が空にのびる。
「実際、蜜がいっぱい入った花って、おいしいんだよね。カタバミもおいしいけどね、やっぱ蜜がいいよ。フジとか好きだわ。甘くて。ハチとかいっぱい来るけどね」
 もう、ミツバチとは競争だよ。カナはそう言うと、軽くスキップで歌いはじめる。
 ぶんぶんぶん、ハチが飛ぶ。その部分だけ何度もくりかえす。
 ぶんぶんぶん。歌うたびに、カタバミが揺れる。
 それを見ながら私は、フジのうす紫はカナに似合いそうだ、などと考えていた。刺激的なほどに甘い香りも、きっと。

 桜の花びらはもうほとんど散りかけているけれど、また新しい花が咲く。藤棚からは、ふくらみ始めたつぼみの房が、奔放に垂れ下がっている。もうじきこの房も色づいて、五月になればまた、あの匂いがあたりを甘く染める。こぼれるように咲き誇る。そして、カナはうす紫をつまみながら、嬉しそうに笑うのだ。



 姉が帰ってきたとき、私は机に向かって英語の予習をしていた。好きな音楽を流しながら、明日は当たる日なので、いつもよりも念入りに辞書をひいていた。だから、ドアがガチャリとあいた時、思わずペンをとり落としてしまった。

「ただいま。何驚いてんのよ」
「……おかえり」

 姉はこの春に就職して、一人暮らしを始めたばかりだった。これまで一度も帰ってこなかったのに、姉の行動はいつだっていきなりなのだ。
「ちょっと音量さげてくれる? こういう曲苦手なのよね」
 姉はベッドに腰掛けると、足を組みながら言った。私は黙ってCDコンポの電源を切った。響いていたエイトビートが、すうっと消える。姉は少し申し訳なさそうな顔をしながら、煙草に火をつけて、また足を組みかえる。
「お姉ちゃん、銘柄変えた?」
「3rじゃもう効かなくてね」
 姉は白い煙をはきだして、気だるげな女の目をする。きっちりと巻いた髪の毛が、重苦しくぱさついている。煙がこちらまで来て、咳が出そうになったけれど、どうにか我慢して窓を開けた。
 とりあえずはとりとめのない近況報告。とりあえずの軽い愚痴と噂話。それから若干の惚気。姉との会話はいつもそのくらいだった。

「そういえば、あの子どうなったの? あの、花食べてるって子」
 ふいに姉が言った。身体がびくんとふるえたのがわかった。姉はカナのことがあまり好きではないようだったので、どう答えたらいいのか、しばし迷った。
 けれど今日のそれは、もう話すことがなくなったから、というような調子だったから。
「元気だよ。今日も桜の花食べてた」
 だから、私も極力軽い感じで返した。桜の花を食べる女の子なんて、授業サボりとか熟年離婚とかとおなじくらい、ありふれた話だというように。
「そう」
 気のない返事をすると、姉は何か考え込むような顔つきで、灰皿に煙草をなすりつけた。



 以前、カナの話をした時、姉はすぐさま、
「ああ、いるよね、そういう変わったことしたがる子」
 と言った。

「あたしの周りにもね、ヘンなことするのが美徳、みたいなタイプいるんだよ。異常な量の薬飲んでたり、いきなり木に登ってみたりさ」
 姉はコンパ帰りで、若干酔っ払っていた。赤い頬と、焦点のさだまらない目。口だけがつるつると回っていた。
「あと、性格テストみたいなので、協調性ありませんって言われて喜んでたのもいたな。あれって何なんだろうね。自分ってトクベツとか、そういう思春期の思い込み、みたいな?」
 タチ悪いよね、と姉は笑った。みんな似たようなこと考えてるっていうのにさ。もっと普通にしてりゃいいんだよ。
「カナは、そういうんじゃないよ」
 反射的に言い返していた。かなり厳しい声になっていた。
「カナは、違うよ」
「うん、だけどまあそういう人もいるって話でさ。そう、今日もヘンなのいたんだよ。美容師のタマゴらしいんだけどね、なんか今ブードゥ教に凝ってるとかいって、色々集めてるらしいんだわ。ホント、エキセントリック狙いすぎだからさあ。花食べてるとかも同じだって。キレイなもんだけ食べてたい、みたいな? フツーにいるからさ、そんなヘンなヤツは」
 姉はきゃらきゃらと笑う。私はただ憮然として、コーヒーをすすった。その日はたまたま豆を切らしていて、インスタントだったから、においがひどく鼻についた。どこにでもあるにおい。

 笑い続けている姉に何か言いたかった、けれど、何を言ったらいいのかわからなかった。



 今日の姉は、まだ何か考え込んでいるようすだった。再び火をつけた煙草が、じりじりと短くなってゆく。さすがに心配になって、私は声をかけた。

「何かあったの?」
「友達がね、妙なこと言い出してね」
 姉は言葉を選ぶように、少し黙り込んで、それから話し出す。

「その子、今日いきなり『もう何もかも嫌だ。花を喉につまらせて死にたい』とかいって、その辺の花を丸呑みしはじめてね。抑えるの大変だったのよ。」
 ひとつ大きく息をついた。
「死にたいとか言ってるときにまでキレイぶってさ、オリジナリティないよね。花食べて死ぬとかって、リスカみたいなもんじゃない。意味わかんない」
 姉はイライラと爪でテーブルをたたいている。紫がかったピンクのマニキュアが、散ってゆく花びらのように。それから姉は、ふと顔をあげて、私のほうを見つめる。
「それで、あんたの友達のこと思い出したんだけどさ。その子は大丈夫そう?」
「大丈夫って?」
「死にたいとかヘンなこと言い出してない? なんか繊細そうだからさ」
「大丈夫だよ、ぜんぜんそんなの無いよ」
「なら、いいんだけどね」

 おそらく、姉は心配してくれているのだろう。けれど、カナは姉の考えているようなタイプではない。繊細なのでも、ロマンチックなのでも、自分に酔っているわけでもなく、彼女はただ、花が食べたいだけなのだ。ただ普通に、花を食べて生きているだけなのだ。



 その翌日も、カナは元気だった。花で死にたいといった姉の友人など、まったく関係なかった。いつものように花びらをちぎってはくわえて、私に向かって手を振る。降り積もった桜の花を踏みわけて、私のところまでやってくる。

「今日はヤマブキだよ」
 その名のとおりの山吹色が、カナの白い歯のあいだから覗く。
「本当は八重のやつのほうが、さっくりしていておいしいんだよ。でも、この学校、普通のやつしかないからね」  
そしてカナは、くわえていたヤマブキをまるごと噛みしめた。しゃりりと、組織が分断されてゆくかすかな音が聞こえたような気がした。新鮮な野菜の音なら、私にもわかる。それがカナの場合は花びらだっただけのこと。
「舌まで山吹色に染まりそうだね」
 とたんに風が吹いて、桜の花びらが再び舞い上がった。

 春の風はひどく強い。私の口の中にまで、ひょいと桜吹雪がまいこんできて、ぺとりと舌先にはりついた。私は思わずそれを吐き出した。その様子を見て、カナが笑った。
「おいしいのに」
 カナは顔を上に向けて、口で花びらを受けとめる。そのままゆっくりと味わうように、舌を転がしている。

 桜の風がびゅおおうと鳴いて、私たちの顔を隠す。



 その日は、カナの誕生日だった。仲のいい子達みんなでカラオケにくりだして、ひとしきりの大騒ぎをした。私は姉が苦手だといっていた曲をいくつも歌って、みんなから喝采をあびた。
「疲れたねえ」
「さんざん踊ったしね」
 口々に言いあいながら、階段をおりる。まだ歌が続いているみたいなざわめき、一段一段リズムをとりながら。

「お腹すいちゃったね」
 私がもらすと、カナはこともなげに、

「じゃ、何か食べてこうよ」
 と言った。

 私は驚いて、漫画のように眼をまるくしてしまった。何か食べるなんて言葉がカナの口から出たのは初めてだった。
「何、ぽかんとしちゃって」
「カナ、食べるって、何を?」
「パスタかなにかでいいんじゃない? 駅のそばのファミレス、安くて結構おいしいんだわ」

 私があっけにとられている間に、カナはこれからのみんなの予定を聞いている。結局、みんな家でご飯を食べなければならないらしく、私だけが、あれよあれよと駅前のファミレスまで連れていかれた。

 カナが「二名」といって、席に案内してもらってからも、私は呆然としていた。テーブルの上にはガーベラの一輪挿しが、あざやかな赤を誇っている。けれどカナは、目の前に広げられたメニューを、熱心に見つめている。それでも、私はまだ半信半疑だった。もしかしたらカナは、私のためにメニューを選んでくれているのかもしれないとすら思った。
「決まった?」
 条件反射でうなずいていた。

 結局、私はカルボナーラを、カナはスパゲティ・ボンゴレを注文した。



 ほかほかと湯気を立てるボンゴレが、カナの前に置かれる。カナはいただきます、とつぶやいて、フォークを手に取り、器用にスパゲティをまきつけていく。くるくる、くるくる。そして、口を大きくあけて。
「うん、おいしいわ」
 タマネギが、アサリが、パスタが、カナの口の中で咀嚼されている。花を食べるカナの口の中で、スパゲティ・ボンゴレがあばれまわっている。活きのいいアルデンテがはねる。ソースが舌にからみついて。いつもは花を食べて、三日月のように笑うカナの唇。

 心臓がばくばくいっていた。手が震えて、自分のパスタがうまくとりわけられない。なにがどうなっているのか、どうしたらいいのかわからなかった。
「どうしたの? 黙り込んじゃって。ここのパスタ、わりとおいしいはずだよ」
 カナは無邪気に言う。私はさびつきそうになる手をどうにか動かして、カルボナーラを口に入れた。ソースが少し飛び散ってしまったけれど、気にしていられなかった。
 カルボナーラは、確かにおいしかった。私は夢中になって食べた。とにかく食べた。



 皿の中身があらかたなくなったとき、一輪挿しの花びらが、ひらり、と一枚落ちた。
 カナは周りに店員がいないことを確かめると、いたずらっぽく「口直し」と言って、赤い花びらをかじった。

「うん、やっぱりおいしいわ」
 そしてカナは、いつもの笑顔をみせた。心の底からとろけそうな。にへら、と生ぬるい音を立ててくずれてしまいそうな。いつものカナの笑顔だった。

 私はなんだか、どうしようもなく泣きたい気分になった。



 帰り道、公園の藤が咲きはじめているのを見つけた。花房の先のほうをつまみとって、こっそりと口の中に入れてみた。
 カナと同じように、ゆっくりと噛んでみる。ゆっくりと、花の味がしみだしてくるまで。
 けれど、私には蜜の甘みのひとつすら、感じとることができなかった。



FIN.     




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