001:クレヨン

 鏡の中には、いつもよりもほんの少しだけ緊張した顔があった。
 緊張するのも当然かな。これはあたしの初舞台。今までの練習の成果、見せるときがようやく来たわけ。
 下地をチューブからひねり出して、顔の上にのせる。それから、ドーランを伸ばして。これが、薄い、薄いあたしの仮面。あたしは今から、役者の顔になるんだから。
 眉を書く。目元をふちどる。それだけで、別人になったみたいだ。女の子だからね、化粧をしたことくらい何度もある。けれど、舞台メイクってやっぱりちがう。化粧はあたしを、少しきれいなあたしにしてくれた。だけど今、鏡の中に映るあたしは、もうあたしじゃない。
 最後に口紅。こんな真っ赤な口紅、使ったことなんて無い。こういうのが似合うようになるのは、せいぜい社会に出てからだ。あたしも、友達も、目がいくのはやっぱり自然なピンクで、赤い口紅なんて、手に取ったこともなかった。
 キャップをはずす。唇に当てて、色をひっぱる。
 鏡の中に現れた鮮烈な赤、どこかで見たことがある、この色は。
 クレヨン、とあたしは思った。
 この強烈な赤、赤以外の何物でも無い赤は、幼い頃に使ったクレヨンの赤にそっくり。

 まだ覚えてる。あたしは、あの頃、何にもわかんなくって。
 ママが出かけるとき、顔に塗ってるあれは、高級なクレヨンと色鉛筆なんだと思ってたんだ。
 あたし、どうしても、一度だけママみたいにきれいになりたくて、ママのお化粧道具を盗むなんてできなくて、それで、自分の持ってるクレヨンを、口紅代わりに使おうと思ったんだ。
 一度で上手くいくなんて思えなかったから、あたし、まず練習しようと思った。
 いつも一緒だったうさぎのぬいぐるみ、ミミちゃんを最初にきれいにしてあげよう。
 はじめは色鉛筆のアイシャドウ。青い色鉛筆を豪華に使って。次に頬紅代わりにピンクを。そして最後に、口紅。
 あたしはミミちゃんの口に、赤いクレヨンの先っぽをあてた。そして、ゆっくり、そのまわりを縁取った。
 お化粧したミミちゃんは、なんだかとってもいつもと違っていた。カワイイ、とは思わなかったけど、なんとなく、これが大人ってものなんだと思った。
 ミミちゃんの顔はきれいになった。だから今度はあたしの番。あたしはまぶたに青い色鉛筆をこすり付けて。だけど、ぜんぜん、色は付かなかった。こすり付けて、こすり付けて、とがった色鉛筆が痛いだけ。
 ミミちゃんの時は上手くいったのに。
 目の周りが熱くなって、あたしは泣き出した。ふえーんと大きな声をあげて。
 その声が聞こえたのか、ママが駆けつけてきて。
 散らばった色鉛筆、クレヨン。そして、お化粧したミミちゃん。その状況を見て、ママはすぐに、何が起こったのかを察したみたいだった。
 あたしは、ママに怒られることはなかった。ただ、ミミちゃんのお化粧は、何度洗濯しても落ちなかった。

 ママは、次に帰ってきたときに、あたしにピンク色のリップクリームをプレゼントしてくれた。きれいになりたいのなら、まずは自分に似合う色を見つけるところからはじめなさいって言って。
 鏡の前でリップクリームを塗ると、あたしも、ほんの少し大人になれた気がした。

 だけど、それはやっぱり、ママの口紅とはぜんぜん違う色だった。
 ママみたいになれる日は、ずっとずっと先なのかなって思った。

 そうだ。この口紅の赤、クレヨンの色。だけどこれは、ママの色なんだ。

 見ててね。ママ。それにミミちゃん。
 あたしは唇をクレヨンの赤に染めて、今、女優になる。 
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